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【夢幻の大陸詩】 砂上の堕天使  作者: 水城杏楠
七章  伝えたくて
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 産まれてからこの厳しい環境で生きてきたせいか、【隻眼】の回復力は目覚しく、十日目には馬に乗っても問題ないほどまでになっていた。

 エファイテュイアの献身的な看病も功を奏したといいたいところではあるが、料理をしたことがなく、加工していない食物を見たことがないエファイテュイアは、結局【隻眼】の手をかなり煩わせることになっていた。

 だが、ようやく料理をしても傷口も開かなくなったのである。

「だめだ、そんな手つきではまた……」

「いた……っ」

「言ってるそばから手を切るな」

 小型のナイフを落としそうになったエファイテュイアの手を掴み、【隻眼】は何度目になったかわからない忠告を口にした。

「……だって」

 血が滲み出す自分の指をじっと見つめた。白く滑らかで、一つの傷や痣もなかった彼女の指先には、今いくつかの切り傷が残っていた。【隻眼】がこうなることを予測してあらかじめ用意しておいた小さな布を、エファイテュイアの指に巻いてやる。

「皮をむくときは親指を刃に添える。……貸せ」

 エファイテュイアの手からむきかけのザッカリアを受け取り、彼は実践して見せた。その指は軽やかに動き、長く薄い皮が地面に流れていく。

「……やっぱりわたしは頂くほうが好きだわ」

 手の上で食べやすい大きさに切ったザッカリアの一つを渡され、彼女はそれを嬉しそうに口にした。いつもはこの状態でエファイテュイアの前に出されるのだ。

「そういえば……レキ=アードにいたお前の兄が明日、キトに戻るそうだ」

 二つ目のザッカリアに伸ばしかけていたエファイテュイアの手が止まった。

 彼がどこでそのような情報を得てくるのかは知らないが、かなり正確なものであることだけは間違いない。

「ーーー本当?」

「おそらくな。ーーー……どこへ行く!」

 突然踵を返したエファイテュイア。【隻眼】は持っていたナイフとザッカリアをたたきつけるように調理台に置いて、そのあとを追う。

 彼女の足で【隻眼】から逃れられるはずはない。洞窟の入り口を出たところで、肩を掴まれ振り向かされた。

「離してっ!」

 だが、叫びながら、胸の奥が鈍く痛むのを感じていた。

 痛い……怪我をした指よりも……もっと。

 たぶんそれは、兄に逢いたくても逢えなかったこの長い時間の痛みだろう、彼女はそう思い込んだ。

「離さない」

 エファイテュイアは【隻眼】の冴えた翠玉のような左眼を、鋭く睨みつけた。

 その名に相応しい片眼の男。数日前に大気に晒された右眼はすでに、薄茶色の布に覆われ、もう見ることは叶わない。

 何を迷っているのだろう。

 兄ディルザードに逢えるかもしれないこの状況で、何を躊躇っているのだろう。

(……迷う? 躊躇う?)

 そんな必要はどこにもない。

 エファイテュイアは腰の剣を抜いた。

「負かすことができればキトへ帰れるわ」

 いつにない本気を感じた【隻眼】が少し眼を伏せてから、鞘に納まったままの剣の柄を握り締めた。そして、その視線はエファイテュイアに注がれる。

「そうだ、負かしてみろ。……本気で来いっ!」

 鞘から剣を一気に抜いた。それと同時にエファイテュイアの剣が大気を切った。

(『むやみに刃を振り上げるな』)

 ディルザードの言葉が脳裏に甦る。

 まずは左から右へ、横薙ぎに切っ先を素早く動かした。【隻眼】が後ろに飛びのいて避ける。間を置かずに一歩踏み出し、左肩をめがけて斜めに打ち下ろす。それを【隻眼】の剣に阻まれ、押さえられた。

 キーンという甲高い音。

(『長く刃を合わせていては力負けする』)

 エファイテュイアは飛びずさり、体制を整えた。

 呆れるほど世間知らずでぼんやりとしている瑠璃色の瞳が、今は猛々しく光り輝き、真っ直ぐに【隻眼】を射抜いている。

 それは純粋なエファイテュイアにこそ、相応しい光。

 今度は【隻眼】が踏み出した。

 鋭く突きを入れるのをエファイテュイアは左に避け、剣を下から斜め上に動かした。

 バサ……っ。

「きゃ」

【隻眼】の右肩に乗っていた【片翼】が右の翼を動かし、威嚇のような態度を取った。思わずたじろぎ、切っ先を不自然に揺るがした。

「ひど……っ」

 叫ぶ声は途中で途切れた。

 その一瞬に、【隻眼】は左手を伸ばし、エファイテュイアの右手を封じるとともに、右手で腰を引き寄せーーー唇を重ねた。

「…………」

 目の前が真っ暗になった状況に、エファイテュイアは瞠目したまま立ち尽くす。

 何が……起こっているの?

 ざらざらした感触。

 だのに、それは決して不快なものではなくて……むしろ。

 エファイテュイアの右手からカランと音を立てて細い剣が抜け落ちた。

「……何故、泣く?」

 ようやく唇が少しだけ離れ、吐息を触れ合わせられる距離でそう尋ねられた。言われて初めて気づいた。

「ーーーえ?」

 涙を……流している。

「わからない……わからないわ」

 抗えないほど強い力で胸を押さえつけられたように痛かった。苦悩や迷いといったことに無縁だった彼女は、この痛みの意味がわからない。

 ただ、涙が溢れた。

 白い頬を伝うそれを、【隻眼】の唇が優しく拭う。

 きつく抱きしめ、柔らかい髪に触れる。

 それはディルザードのように白い優美な腕ではなく、無骨で野性的であったけれど、エファイテュイアはそれこそに安らぎを感じていた。

 厚い胸元に顔をうずめ、彼女は透明な涙を流し続けた。


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