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月の明るい夜だった。
瞼を閉じていても見える微かな明かりを感じて、エファイテュイアはうっすらと瞳を開ける。カーテンから透ける、満月に近づきつつある月が視界に飛び込んできた。
キトにあるエファイテュイアの広い部屋からも月はよく見えた。その輝きは大都市キトにあってもデリトナ荒野にあってもなんら変わりない。
たおやかに静かに、そして猛々しく艶美に、星々を従えて輝くのだった。
外では多くの護衛たちが野宿をしている。ここはデリトナ荒野最大のオアシスで、まるで乾いた荒野にいることを忘れてしまえるほど、緑と水に満ち溢れていた。もっとも、エファイテュイアは屋敷の庭園でしかそういったものを見たことはないのだが。
馬車は寝心地がよくない。硬い椅子はもちろん何枚もの布を重ねて柔らかくしてあるのだが、それでもミリュを抱きかかえている以外、いつものベッドとはまったく異なる感触にまだ慣れなかった。馬車は二人用の乗り物としては決して小さくはなかったが、向かい合う長椅子に横になるにはやはり少し狭いのだ。
(……外に、出てみようかしら)
ふとエファイテュイアは思う。だがすぐに躊躇した。何不自由ない屋敷で育てられた姫が知る外の世界とは、中庭程度でしかない。それに比べてここは誰もが口をそろえて危険だと言うデリトナ荒野の中。剣を振り回すようなおてんばぶりを発揮できるのも、屋敷の中にいてディルザードガいるからこそだ。
「でも、ディーはここなら安全だと言ったわ……」
口に出して呟いてみてから、はっと口を押さえた。この馬車で休んでいたのはエファイテュイアだけではない。向かい側の長椅子で眠るラピカを窺ったが、彼女は慣れない過酷な旅に疲れているせいか、身じろぎせずに深い眠りについていた。
エファイテュイアは、この旅に連れてきた宝物を手に取った。毎朝ディルザードとの稽古に使う剣である。その装飾は兄のものと同じで、彼女はこれを持っていればこの旅でも兄と共にいるように思えたのだ。もちろん重量は、実践向きのディルザードの剣と、エファイテュイアの剣とではまったく違う。エファイテュイアにも振り回せる程度のごく軽い素材だった。
だが、この剣があれば、兄のように強く気高く戦える、エファイテュイアはそう信じている。
ウサギのミリュを椅子に置いてゆっくりと立ち上がった。今ならラピカに叱られることもない。エファイテュイアは馬車の扉を静かに開けた。
「冷た……」
突然襲い掛かった、エファイテュイアの全身を突き刺す風は、冷たいというより痛いほどだった。キトやデリトナ荒野は国の中でもかなり南に位置するから、冬でも温暖で過ごしやすいはずだった。
だが、キトとデリトナ荒野の決定的な相違は、昼夜の気温差である。
デリトナ荒野は砂漠に近いからだろう、気温差が激しく、夜はかなり冷え込むのだ。春用の薄いドレスしか纏っていないエファイテュイアは、まずその寒さに驚いた。キトの冬でもこれほどの寒さを感じた経験はない。
後ろ手に扉を同じように静かに閉めて、エファイテュイアは長い剣を両手にしっかりと抱えた。
月明かりがあるとはいえ、鬱蒼と繁る森にも似たオアシスの中にあっては、その光も多くは届かない。だが、あちらこちらで火を炊いているおかげでエファイテュイアは足元までは確認することができた。
警備たちは各々木にもたれかかったり、地面に直接横になったりして眠っていた。彼女からすればけっして寝心地のいい体制ではないように見えるのに、彼らはよく眠っているように見えた。実際にはおそらく、浅い眠りであるのだろうけれど。
「……姫、様?」
閑静の中に突然小さな声が響き、彼女はゆっくりと振り返る。誰も起きていないと思っていたのだが、青年が膝をついて、深く頭を垂れていた。
エファイテュイアがその顔を見ることはできなかったが、騎馬隊の服装をしていることはわかった。
「ご無礼をお許しくださいませ」
エファイテュイアと直接話ができるのは、この一行にはディーとラピカしかいない。まだ二十歳ころの年頃に見える年若い青年は、丁寧にそう謝罪した。そして重ねて問い掛ける。
「どちらに行かれるのでございますか。隊長を呼んでまいりましょうか」
その言葉に、エファイテュイアは首を慌てて横に振った。隊長とはもちろんディーのことである。
「いいの。夜の湖が見たいだけだから。わたし一人でも大丈夫だわ」
それは青年にというよりは自分自身に言い聞かせるような口調だったかもしれない。彼は少し怪訝そうな表情を浮かべたものの、本来話し掛けてはならない貴人をこれ以上引き止められず、一礼をして下がった。とりあえず、隊長に報告しようとそれだけを思った。




