第一話・後
「ははっ」
耐えがたき餓えを感じていた『それ』は、ゆっくりと立ち上がった。
視界に広がる赤茶けた荒野には風が逆巻き、『それ』に気を使うかのように遠くで赤い渦を生み出している
『それ』がそんな些末な事を気にするはずもないが、それでも『それ』の視界に入りたいとは風すら思わない。
一歩踏み出せば、『それ』の足裏からぐちゃりと水分を含んだ粘着性の音が響くが、当然のように興味を示さず。
しかし、その場に他の何かが存在していたのならば、目を剥く光景。
『それ』が素足で踏みつけているのは、腕だ。
子供が癇癪を起こし、人形をバラバラに引きちぎったかのように、辺り一面にぶちまけられている人体と四肢。
四肢をもがれるだけではなく、上半身と下半身が生き別れた死体や、首を捻り切られた死体、胴に大穴を開けられた死体、焼け焦げた死体と、死体の万国博覧会といった有り様は、見る者の正気を奪うだろう光景だ。
しかし、『それ』がそんな些末な事を気にするはずもない。
それまで平然と血の海に自分の身を沈めていた『それ』が、自分で行った大量虐殺に心を痛めるはずがない。
そんな事より、
「戦いの、臭いだ」
『それ』は天を仰ぎ、にたりと笑った。
空を見上げようと、雲すら逃げたした青が広がっているだけで、何一つ見当たらない。
しかし、空の先に何かがあるのだと、『それ』にはわかった。
「……行くか」
そう決めた『それ』は辺りを見回す。
どれほどの長い月日を、この赤い荒野で過ごしたのか『それ』にはわからない。
ただ生まれてこの方、ずっと見てきた景色と別れると決めても『それ』の心にはさざ波一つ立たなかった。
ぐちゃり、と『それ』は一歩を踏み出し、そこで始めて地面に視界を向ける。
『それ』の足の裏にあるのは、人の身体だ。
優しげな笑みの一つでも浮かべていれば、見る者全ての心を奪うであろう整った顔立ちは恐怖と苦痛に歪み、まともな神経をしている者なら目を逸らすひどい表情で凝り固まっていた。
純白よりなお白い、まさに天上の美とも言うべき左右十六対の羽は美を解さぬ暴力の前に、無惨にもへし折れ、砕け、引き千切られている。
高位の天使だった肉塊を、『それ』は憎々しげに見下し、
「つまんなかったぜ、お前」
力一杯蹴り上げた。
技もなく、子供が遊びで蹴り上げただけとしか思えない動きだが、『それ』の暴虐の前では高位天使の肉体といえど、一瞬にしてミンチよりひどい有り様となり、荒野にその身を撒き散らす事になる。
「さて」
首をこきこきと鳴らし、『それ』は再び空を見上げた。
「向こうはどんな所なのかね」
私は、空を見た。
夜空は何かに怯えるように、星が一つも見当たらない。
はったりがバレて、ギター担いだまま必死になって逃げ回っている最中、それでも私は空を見上げた。
「ヤバい」
何が何だかわからないけど、とんでもない物が来ようとしている。
「そ、総代、これは……」
周りの生徒達も私を捕まえている場合でないと気付いたのだろう。
だけど、不安げな声で頼られても困る。
こんなもの、どうしたらいいというんだ。
「ひっ!?」
誰かの悲鳴。
唐突に、何も無かったはずの空がひび割れ、真っ赤に燃え上がる。
吹き出す炎の発生地点は、三階立ての校舎より遥かに上だが、地面にいる私達ですら感じられるほどの熱量。
「そ、総代!?」
百戦錬磨の撃退士だからこそ、わかる事がある。
あれは、余波だ。
何かとんでもない物が次元を破り、人間界に来ようとしている。
そして、この場に……いや、学園中の生徒全員のアウルを纏めるより、なお巨大なアウルを余波だけで生み出す何かが来ようとしている。
「逃げろ」
「へ?」
さきほどまで立派に指揮を取っていた生徒の情けない、怯えきった声が返ってくるが、自分の声がそうなっていない自信はなかった。
膝は無様なまでに震え、水に入ったかのように全身が冷や汗でひどい有り様。
「お前達は逃げろ」
「でも、撃退士として」
反射的に放たれたであろう生徒からの反論に、私はギターにアウルを叩き込んだ。
「黙れ!」
アウルによって増幅されたギターの音色と私の声は、ざわめきに満ちていた校庭を一瞬にして響き渡り、沈黙を強いた。
「学園から離脱した後、最寄りの権限者の指揮下に入れ! 全力で動け!」
混乱した頭で考える事は出来なくとも、日々の訓練は指示に対して反射的に動く。
波が引くかのように、私を囲んでいた生徒達は一斉にどこぞへと退いていった。
普段は享楽的ですらあるが、いざ戦場となれば命知らずの撃退士達。 だが、ここまでシャレにならない何かを前にしては、心が折れても仕方ない。
日常のイベントから突然、死を覚悟出来る者は勇者というより、ただの狂人か狂戦士の類だろう。
ここは撃退士達が狂人でない事を喜んでおくしかない。
「総代は、総代はどうするんですか!?」
さきほどまで指揮を取って、私を捕まえようとしていた生徒に言われる心配されるのは複雑な気分だ。
感謝するべきか、と少し迷ってはみたものの、そんな暇がないのを思い出した。
「殿だ。 私が逃げるためにも早く逃げてくれ」
「……御武運を」
空から現れようする何かに、全員でかかった所でどうしようもない。
なら、誰かが残り時間を稼ぎ、情報を得て、戦力の保全に勤めるべきだ。
そして、この場なら私が殿をやるのは職責、実力ともに当然の話で真っ先に逃げられるはずもなし。 誰かが残るのであれば、私しかいない。
その事を一瞬にして計算し、離脱し始めた彼に間違いはないだろう。
勝てないのなら逃げ、反撃の時を待つべきだ。
まぁその計算は私の生存に何の役にも立たないわけなんだけど。
いよいよ大きくなってきた空のひび割れから、更に激しく炎が吹き出すのを見て、私は何に祈るべきかと考えた。
天魔と宗教上の神様は、各宗教の公式見解ではまったくの別物とされているが、何にせよこんなどうしようもない代物を吹き飛ばすだけのご利益を求められても神様の方が困るだろう。
しかし、天魔達を理不尽だと思った事は何度もあるけれど、私の眼前に広がる光景はひどすぎる。
炎で夜空が昼間の太陽より明るく染め上げられる光景を、何とかして殴り倒せとでも言うのだろうか。
「死ぬかなあ、これは」
空が落ちてこないか、と心配した人を笑って杞憂という言葉が作られたが、笑っている場合ではなさそうだ。
どかん、どかんとゾンビが扉を破壊して金髪のヒロインを追い込むかのように、空が何度も何度も殴りつけられ、歪みを広げていく。
ひび割れだった傷口は、どんどん大きくなっていき、やがてぱりんと音を立てて割れ、拳を握った腕が肩まで人間界に突き出された。
次元の壁って殴ったら壊れるのか……。
そんな次元の壁を殴って壊した腕と言えば、ほっそりとしていて日に焼けた、何の変哲もない腕だ。
しかし、よく見れば絞り込まれた筋肉が付いていて、可視化されたアウルが炎という形で吹き出している。
私達、撃退士も頑張ればアウルが光ったりするけど、あれに比べれば太陽の前の懐中電灯でしかない。
懐中電灯を何本束ねれば、太陽を超えられるのか。
堕天使、はぐれ悪魔の生徒の話では、天使のいる天界、悪魔のいる魔界には人類の見た事もないような力を持った存在がいるらしく、今も空間を殴り続けているあれも力を持った一人だろう。
しかし、精神力や魂を奪う餌場であるだけの人間界に、主力を送り込む事は普通はない。
戦争をしているのに前線から戦車を引っこ抜いて、補給部隊の護衛に当てたりはしないのだ、普通は。
「なんでこんなのがこっちに来てるんだ……」
絶望的過ぎて笑えてきた。
思わずギターでアレンジしたじょんがら節を弾き始める程度には笑えてきた。
元は青森県の民謡で普通は三味線でやる物だが、ギターに馴染まないどころか面白い音になる。
それなりの速さと、適度な難易度で弾いていて楽しい曲だ。
だけど、じょんがらじょんがらとかき鳴らしていると、私はふと気付いた。
「うん、悪くない」
いつか戦場で死ぬ覚悟してはいたけど、実際にそうなった今、私は見苦しく取り乱してはいない。
身体中が震え、毛穴という毛穴から水分がこれでもかと滲み出してはいるけど、まだ立っていられる。
格好は、つけられる。
「ロッケンローラーだ、私は」
百人に観られながらの演奏も出来た、絶望的な敵の前でも演奏が出来る。
なら、あとはどこでも演奏は出来るはずだ。
満員の武道館だろうと、いける。
ロッケンローラーはロックであるか否かだ。
格好つけられるかどうかだ。
「来い」
いつの間にか口から零れていた言葉は、口に出してみればひどくしっくりきた。
「来い」
ビクビクと怯えて死ぬよりは、胸を張って死んでやる。
「かかって来い! 怖じ気付いたか!」
「はっ」
天に向かって叫んだ私に応えるように、花が散るかのように空が砕ける。
はらはらと落ちてくる空間の破片は、炎に照らされて白く輝いていて、いっそ綺麗ですらあった。
だけど、割れた空から見えるのは死体の転がる荒野が、天地逆さに見えていて何とも頭のおかしくなりそうだ。
「よく吠えたなあ、お前」
そのから顔を出しているのは、一人の男。
原色に近い真っ赤な髪から、言葉にしにくい角度で捻くれた角が頭の左右から生えていて、美形の多い天魔の中でも飛び抜けた美形だ。
しかし、その端正な顔に乗っているのは他人を小馬鹿にしたようなにやにや笑い、普段から他人を睨み続けているせいか眉間に寄った深い皺が、その美貌を大きく崩している。
「吠えもせず、生きてられるか」
「もう吠えただろう?」
まるで塀でも乗り越えるかのように、軽く次元を超えようとする悪魔の男に、世界が拒絶するかの如く紫電が走るが、堪えた様子どころか気にした様子は見えなかった。
「なら、あとは殺されてもいいな」
ひょい、と男が飛び降りたのは校舎の三階以上の高さ。 だけど、背中に生えた黒い、コウモリに似た羽を使いもせずに、男はあっさりと着地してみせた。
「嫌だ」
「嫌だ、なんてわがまま言うもんじゃねえよ。 安心しろ、痛くなく殺してやるから」
何の警戒も見せず、悪魔はすたすたと私の距離を詰めてくる。
蟻が象を倒す可能性が零とは言わないが、蟻を警戒する象なんていやしない。
悪魔は放っていた炎を抑え、何らかのスキルを発動している様子もないが、素の肉体的な性能だけで私を殺せる。
「だけど、嫌だ」
私は情けない事に心底、殺されたくなかった。
ロッケンローラーとしての想い、撃退士としの誓い、人として。
その全てがここで死ぬ事を拒んでいた。
「おいおい、何が不満なんだか言ってみな。 場合によっては考えてやるよ」
考えるだけだけどよ、と悪魔は自分の言葉でゲラゲラと笑い、私の前に立つ。
頭二つ分の身長差から私を見下す悪魔に、私は心から言う。
「全裸に殺されるのは、嫌だ……!」
六つに割れた腹筋、躍動感すら感じられる腿の筋肉、まるでギリシャの彫刻のように悪魔の肉体は芸術的ですらある。
「なんでお前は全裸なんだ!?」
「いや、そんな事を言われてもよ」
しかし、ぶらぶらと歩くたびに揺れる下半身は……あんな物が人体に入るはずがないだろう。
お前は何をぶらさげてるんだ。
「私は殺されるなら、文明人がいい! いいか、服装というのは自分が他人にどう見られたいか、という事だ。
他人に立派に見られたいのなら、立派な服装を。 他人に可愛く見られたいのなら、可愛い服装を。
そして他人に媚びるだけなら、服に着られているだけだ。 他人の目を楽しませ、自分も楽しんでこそ洒落だ。
全裸などただの動物じゃないか!
お前は、ただの動物だ!」
「そうかよ」
不味い、何言ってるか自分でもよくわからない。
本気で何を言ってるの、私!?
「だから」
気付けなかった。
「カァァァァァァァァァァァァァァァァァァァァイィィィィィィィィィィィィィインンンンンンンンンン!!」
直上、怒声。
誰、と考えている内に事態は進行。
「兄さんの仇ィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィィ!!」
上を向けば、キラキラと輝く光が遥か上空に見える。
あれは、
「フェリスちゃん!?」
見るに耐えない顔だった。
のんびりと垂れ下がった目は怒りに吊り上がり、よく手入れされた髪は無残に乱れ、口の端からは押さえきれない悲しみと唾液が流れ出し、あまりの速度に尾を引いている。
遥か高空から、羽のある天魔にしか出来ない流星のような逆落とし。
突き出した馬上槍は、彼女がカインと呼んだ悪魔の脳天に突き刺さるコースだ。
彼女の羽からはアウルが噴き出し、まるでジェットエンジンのようで、遥か上空から重力を生かした突撃は、フェリス・トルーマン渾身の一撃。
己の身を一切顧みない一撃は、当たればビルの屋上から一階の床までぶち抜くような恐ろしい一撃だ。
しかし、
「で?」
カインはフェリスちゃんに視線を向ける事すらなかった。
彼がした事と言えば、ただ左手の人差し指一本、まるで頭が痒いとでもいうような、そんな無造作な動きをしただけだ。
「っ!?」
インパクトの衝撃は数歩離れている私の髪を揺らすほどで、高空から減速無しの加速装置付き紐無しバンジーを仕掛けたフェリスちゃんの腕に、新しい関節がいくつも増える。
無事な指は一本もなく、折れた骨が皮膚を破り、鮮血がぱっと舞う。
「だから、なんだ?」
自爆一歩手前の一撃であろうと、フェリスちゃんはカインを一歩動かす程度の事も、会話の邪魔をする事も出来なかった。
それどころか話の続きを要求するカインが、ぴん、とランスに軽くでこぴんをすれば、フェリスちゃんの身体はフルスイングのバットに当たった弾丸ライナーのような勢いで、私の横を吹き飛んでいく。
少し遅れて、トラックが壁に突っ込んだような轟音が辺りに響いた。
「おい、女。 だから……なんだ?」
振り向きたい、振り向いてフェリスちゃんの無事を確かめたい。
しかし、この猛獣から目を離せば私は殺され、時間稼ぎの交渉すら出来なくなり、フェリスちゃんを治療する事は確実に出来なくなる。
何故、彼女が突然、あんな事をしたのか考えるのは後だ。
落ち着け、引くな。 引けば、死ぬ。
私に興味を持たせるんだ。
「だから」
餓えた虎の口に頭を突っ込むのと、今の状況どちらがマシだろうか。
そんな事を考えながら、私は口を開く。
「私がお前を文明人にしてやる」
「へえ、文明人ねえ。 だけど、文明人になった所で何の意味かあるんだ? 服着てりゃ、強くなれるのか?」
天使も悪魔もきちんと文明があると確認されており、全裸の文化などない。
なら、彼は一体なんだ?
「強くはなれない。 しかし」
私は彼に何を提示出来る?
強さなんて、どうしようもない。
通貨? 彼からすれば、そんなまどろっこしい事をするより、殴って奪った方が早い。
下手な事を言えば、全世界の戦力より遥かに強大な蛮族が誕生する可能性がある。
建築物を見せ、人類の素晴らしさを知ってもらう。 ……寺なんて見せたら、焼き払われそうだ。
なら、これしかない。
「音楽がある!」
私はギターにスピーカーが壊れる寸前までアウルをぶちこみ、全力でかき鳴らす。
演奏する曲を考えていなかったのを、音を鳴らした後に気付きながら、身体は勝手に動いていた。
BOOWYのONLY YOU。 最近、練習を始めてやっと弾けるようになった曲だ。
サビが綺麗に弾けず、何度も何度も練習して、余計な音の混じらない単音が弾けるようになった。
音楽に国境がないのなら、世界の壁だってきっと超えるだろう。
ONLY YOUだけでなく、名曲の数々から、ロックだけじゃなく、ジャズにブルース、アニソンだろうと印象的なフレーズを演奏しまくり、目の前の悪魔に届けとばかりに弾きまくる。
「へえ」
と、私のギターに目を輝かせるカインは、子供のようで気にいったようだ。
「いいな、それ。 くれよ。 くれるなら、お前の命は助けてやる」
「嫌だ」
それじゃあ意味がない。
私の命が助かった所で、暴れられたら意味がないんだ。
「俺はお前を殺して奪ってもいいんだぜ?」
「いいや、私を殺すより、もっといい事がある」
私は震えていた弦を止め、しっかりとカインの目を見た。
容易く人類を滅ぼせるだけの力を持った悪魔は、真っ赤な瞳を爛々と輝かせていて、まるで初めてロックを聞いた私のようだ。
音楽は楽しいと、彼は理解したんだ。
なら、きっと行けるはず。
私は大きく息を吸って、声を上げる。
「私とバンドやろうぜ!」
「十九時二十七分、中等部総代 深井紫子と悪魔カインを完全にロストしました。 共に北東へ向かったのが目撃されており、現在も探索中です」
自分の報告で重苦しい沈黙が場を満ちて行くのを見ながら、銀泉 始は周りに気付かれないように溜め息を吐いた。
さほど広くもない会議室には、小等部から大学までの総代と副総代、学園内で最も優秀な生徒が選ばれる生徒会長の姿がある。
小国の軍隊と正面から戦って勝てるであろう生徒会執行部と総代達が、揃って頭を抱えていた。
「それで……悪魔カインの情報は?」
まだ紫子が消えてから半日、たった半日しか経っていないというのに、絶望が久遠ヶ原学園を支配しようとしている。
普段は豪放磊落を絵に描いたような生徒会長が、弱々しい声でそれだけを言う。
生徒会長自身が直接見ていなくても、カインの放った莫大なアウルを感じただけで、彼の、彼らの心をへし折っていた。
「フェリス、報告を」
「はい」
そして、彼女も変わっていた。
始の知るフェリス・トルーマンは、いつも笑顔を絶やさない、近くにいるだけで他人を優しくするような雰囲気を持った少女だったが、今の彼女は抜き身の刃のようにギラギラと輝いている。
カインにより倒され、アウルを用いた治療により大部分は回復したが、左目が完全に潰れてしまい、今は眼帯で隠している。
残った右目は心の折れた久遠ヶ原学園の役員達を蔑むように鈍く輝いて、始はその姿に違和感を抱けないでいた。
にこにこと常に笑顔だったフェリスより、今のフェリス・トルーマンの方が自然だと思ってしまったのだ。
「悪魔カインが始めて記録されたのは、六百年ほど前の事です」
六百年、人間にすれば長い時間だが、天魔からすればそれなりと言ったところ。
戦死、病死などを除けば、天魔は数千年生きる。
「天界と冥界の境界付近で確認されたカインは、天使だけでなく、悪魔とも敵対し、近付く者全てに攻撃を仕掛けてきます」
「狂犬の方がマシとしか思えないな……。 天魔は討伐しようと思わなかったのか?」
「勿論しました。 しかし、何度、天魔が討伐隊を送り込もうと、その全てが返り討ちにされてしまい、数十年前には当時の悪魔中将が倒され」
「待ってくれ!」
生徒会長の声には、怯えしかない。
「……私の聞き間違えでなければ……中将?」
「はい、中将です」
悪魔の階級は大きく分けて二つ、一つは知力や財力に秀でた貴族階級。
もう一つは武力に優れた騎士階級だ。
これまで人間界に姿を現しているのは、兵士級と騎士級のみであり、天使側も似たようなものだ。
しかし、それでも人類は追い詰められている。
「中将……」
平均的な撃退士では、兵士級と一対一で勝利を収める事は難しい。
兵士級を一対一で倒せればエース、騎士級など来ればエースを集めて叩くしかないのだ。
騎士級と一対一など、総代クラスを連れてくるしかないだろう。
中将級などまともに戦おうと思えば、どれだけの戦力が必要になるか想像も出来ない。
「どうすればいい……」
生徒会長の嘆きに満ちた言葉は、全員の総意だ。
人類を守るという輝かしい想いは、全員の胸にある。
しかし、最前線で戦い続ける彼らだからこそ、現実が嫌というほど見えていた。
カインは戦術をどれだけこねくり回した所で、小手先で何とかなるレベルではない。
世界中の戦力を集めた所で、勝ち目は見えて来なかった。
「提案があります」
だからこそ自分が主導権を握れるのだと、始は確信している。
「中等部総代は、カインに操られている可能性があります」
天使も悪魔も人間を操る術に長けており、考えられない話でない。
「……何?」
「考えてもみてください。 悪魔が何故、監視衛星の死角を知っているのでしょうか」
天魔が侵攻を開始した最初期、地球全土を覆っていた監視衛星は破壊され、現在は四割もカバー出来ればマシというレベルになっていた。
軌道上はデブリに汚染され、新たな衛星を打ち上げるのは現状では不可能となっている。
しかし、まだ四割、日本国内に限れば地表の六割は監視出来るというのに、まったく見付からないのはおかしな話だ。
「それは……」
「間違いなく中等部総代の協力があります」
監視衛星だけではない。
初めて人間界に来た悪魔が、警察や自衛隊に発見されず、市民からの通報も一切受けない行動をするなど、不自然過ぎる。
「脅されて仕方なく従っているのでは?」
大学部総代の言葉に、始が反論しようとした時だった。
「それは有り得ない」
短いながらも、はっきりとした断言が生徒会長の口から飛び出す。
「彼女はこれまでどんな戦闘でも最前線に立ってきた。 彼女が命惜しさに人類を裏切るとは考え難い」
「しかし……」
「その点について、私は議論の必要を認めない。 隣に立つ戦友を信じられずして、どうやってこれから戦うのだ。 銀泉くん、話を続けてくれ」
高等部から途中入学した大学部総代とは違い、この場にいる大部分の生徒達は小等部からの生え抜きであり、紫子と共に戦ってきた場数は多い。
これまでの積み重ねが、彼女の信頼となっていた。
「はい」
しかし、紫子ははっきりと学園を辞めると、始に告げている。
これまでの実績と積み重ねて来た物を考えれば、不自然以外の何物でもない。
それでも操られていたはずはないと始は確信していて、正気のまま紫子は学園を辞めようとしていた。
他の誰が紫子を疑おうと、始だけは紫子の正気を信じていた。
あの時、紫子は学園を辞めようとしたのか。
何故、このタイミングでカインが現れたのか。
学園の総代が辞めるという一大事と、人類の危機が同時に襲いかかってくるという偶然などあるはずがないだろう。
ならば紫子は始の知らない何かを知っている。
これまでずっと付き従ってきた始にすら話せない何かを、彼女は抱えているのだ。
それは始にとって到底、許せる事ではなくて、撃退士を辞めた紫子が想像出来なくて、撃退士でなくなった紫子の側に自分がいる事がどうしても想像出来なくて、
「僕は深井紫子の奪還を提案します」
銀泉 始は、深井紫子をありとあらゆる事柄から守る事を決めている。
無事、紫子を助け出し何とかして説得し、操られていたという事にすれば、
(何もかも元通りになるはずだ)
ならないはずが、ない。
「しかし、奪還と言っても戦力はどうする?」
「はい、カイン襲撃時、あの場にいた生徒達から志願を募ります。 あれは初見の生徒では、戦場で足が止まるでしょう。 覚悟が出来ている生徒二十四名、六小隊のみを使います」
混乱の中、意味のある提案を出せたのは始だけであり、それに飛び付いた学園執行部は始の内心を読み取れず、始もそれを予測していた。
人類を裏切ろうという悪意を持って紫子奪還を立案したわけでもないが、ほぼ私利私欲で生徒達を死地に送り込む事に、やはり始も苦い物は感じている。
「そして」
苦い物を抱き、自分の胸の内に意識を飛ばす始も、
「ああ……彼にご出馬願うしかあるまい」
話し合いを続ける執行部も、誰一人としてフェリス・トルーマンの内心を読み取ろうとはしていなかった
ちらほらと、雪が降っていた。
駅のホームで電車を待つ人達は、少しでも身体の中に寒さを入れるのを嫌がるかのように、静かに白い息を吐いている。
「お待ち」
少しの風避けしかなくて、びゅーびゅーと冷たい風が吹き込んで来る事を気にし始めた頃、愛想の無いおじさんの声と共に私の前に丼が置かれ、濃い目の汁から鰹節と醤油の香りがほくほくと立ち上がり、私は思わずごくりと生唾を飲んだ。
「どうやって食うんだ、これ」
「こうよ」
割り箸を割る。
私の真似をして割ったカインの箸が、途中で妙な具合に折れた。
「むぅ」
難しい顔で折れた箸を睨むカインに、少し笑ってしまう。
たった半日、一緒にいただけでも色々とわかる事がある。
彼はどこまでも無知だ。
「はい、交換してあげる」
「おっ、悪いな」
純粋とかそういう事でなく、ただ何も知らない。
角と羽を隠し、シャツとジーンズ、セーターにコート、スニーカーに……そして、下着。
途中で手に入れた服の着方を一切知らない彼に一つ一つ教えて行くのは、私の乙女心に多大なダメージを与えてくれた。
私の腕より大きいんじゃないの、あれ。
どうすんの、あれ。
「で、どうやって食うんだ?」
「ん、ごめん」
考え込んでいた事を謝り、手と手を合わせていただきます。
蕎麦を箸で摘まむと、都会ではあまり見られない真っ黒な田舎蕎麦が濃い目の汁から顔を出した。
彼は無知だ。 無知なら、私の都合のいい方向に何とか持っていけるかもしれない。
まともに戦えば、天魔だって手出し出来ないような力を、私がコントロール出来るかもしれない。
コントロール出来れば、どうしようもない、詰みかけの人類の盤面をひっくり返せる。
そんな事を思いながら、私は蕎麦をずるずると音を立てて啜った。
小笠原流礼法によると、音を立てずに食べるのが作法らしい。
だけど、それでは空気を取り込めず、蕎麦と汁の香りが鼻に広がらなくて今一だ。
私は土地の物を一番美味しい食べ方で食べるべきだと思っている。
被害なく天魔を倒せば、美味しい物が食べられるというモチベーションにもなって非常にいいと思う。 なお、私が食い意地張っているというわけではない。
しかし、駅の立ち食い蕎麦を、熱々の内に啜るという下品な食べ方だけれど、どういう訳かこれがたまらなく美味しく感じるのは一体、どういうわけなんだろう。
ずずっ、ずずっと啜っていると、左手から同じように音が聞こえてくる。
人類を壊滅させられる力を持った存在と、肩を寄せ合う距離で蕎麦を啜るなんて、どういう冗談なんだろうか。
「美味しい?」
「ん」
答えるのも惜しいとばかりに、食べるカインに私は話かける。
「卵を、えっとその黄色いのを混ぜて。 そう、で汁をぐいっと」
ごくっ、ごくっ、とカインは半分ほど残っていた汁を豪快に飲み干して行く。
さすがに乙女的に出来ない食べ方で、少し羨ましく思う。
「っぷはぁ、美味えな!」
「もう一杯食べる?」
カインが食べるのが早すぎて、私はまだ半分も食べられていない。
間を持たせるために、何か食べさせておく事にした。
「おお、食う食う。 あとはどれが美味い?」
「じゃあ……すみません、かき揚げうどんください」
「はいよ」
彼はとても無知だ。
愛想の無いおじさんの手元を、まるでショーケースのトランペットを眺める少年のように今か今かと見つめている。
これまで何を食べてきたのか聞いてみれば、敵から魂を奪って食い繋いでいたらしい。
天魔に食事の文化がないわけでなく、学園にいる堕天使もはぐれ悪魔も普通に物を食べる。
カインはそんなレベルで純粋に戦う事以外、何も知らない。
気付いたら荒野に独りでいて、それからずっと戦っていたそうだ。
気付いたら撃退士をやっていた私と似たようなものか。
「お待ち」
「おお、何か白いぞ。 これも同じように食べるのか?」
「そう。 上に乗ってるかき揚げは十分、汁を吸ってから食べた方が美味しい」
とはいえ、彼の知能は侮れる物ではなかった。
すでに箸を使いこなし、器用にうどんを啜っている。
いきなり暴力を振るう事もなく、話せば案外、理解してくれるし、ここまで電車で来たのだけれど、二人で一つのイヤホンを分け合って大人しく音楽を聞いていた。
眠くなりそうなクラシックより、雑音と区別が付かないようなハードロックが好みみたいだ。
はしゃぐカインを見ていると、持っている力の事を考えなければ少し大きな子供と言った感じで、総代としての私より、素の私で接してしまう。
真面目な振りは割と疲れるし、そういう意味では楽な相手だ。
「ふう……いやぁ、食った食った」
「早いなあ」
やっと食べ終わったと思ったら、カインは悠々と二杯目を食べ終わっていた。
悪魔の消化器はどうなってるんだろう。 それともカインだけだろうか。
それはともかく、
「じゃあ行こうか、ベースを買いに。 ごちそうさまでした」
「おう、ごちそうさまでした」
ギターは他の誰にも譲らない、絶対に。
私はお金を払い、きちんとごちそうさまを言ってから歩き出す。
カインもとりあえず真似をしたのだろうけど、無駄に敬語なのが少し面白い。
「そういや何でこんな離れた所まで来たんだ? ちょっと前までいた所の方が色々とでかかったぜ」
「ここの方がいい楽器あるのよ」
無論、嘘だ。
茨城沖の人工島にある久遠ヶ原学園の沿岸は、学園生や見物に訪れる観光客でいつも賑わっていて、楽器屋くらいは普通にある。
しかし、カインを連れて、そんな所でのんびり買い物をしていれば、あっさりと見つかってしまうだろう。
私も捕まりたくないし、一応はコントロール出来ているカインに妙な刺激を与える事はしたくなかった。
現場を知らないお偉いさんに「よし、そいつを天魔の巣に突っ込ませろ!」などと言われて、カインが抵抗した日には一瞬にしてラグナロクが始まるだろう。
これまで何度も上の方から無茶な命令を受けて来て、何度もひどい事になり続けてきた。
それでも無茶な命令だからと言って無視し始めれば、今度は学園としての秩序が崩れ、撃退士の統制が崩れてしまうのだ。
元より普通の人類に比べ、相当な能力を持つ撃退士の箍を外せば、新しい差別主義の始まりになりかねず、これまでの歴史上にあった、肌の色など具体性の無い人種差別とは違い、明らかな能力差のある私達撃退士、アウル能力者が差別主義を始めてしまえば、嫌な燃え上がり方をしかねないのが頭が痛い。
だから、ある程度、無茶な命令も聞かなければいけないわけなのだけれど……カインを学園に引き渡した日には、火薬庫で花火をしている光景を見ることになりそうで困る。
更に追跡してきた学園生に被害を出させるわけにはいかない以上、見つかる訳にはいかない。
で、ある以上、警備が厳しい東京にも行くわけにはいかない。
なら残るのは北、そして人間界に現れた天魔が人間の交通機関を使う事例は少なく、徒歩で進めるルートか、飛行出来る天魔を見落とさないよう空のルートを重点的に警戒するようにマニュアル化されている。
対天魔に限った場合、逆に交通機関を使った方が発見されないと予想していたが案の定だった。
とはいえ、
「これからどうしたものかな……」
「楽器買うんだろ?」
「うん」
元々、私一人で脱出する予定だったし、この無限自律型核兵器を連れて歩く予定なんてなかった。
機嫌を損ねた日には、ぼかんと爆発して辺り一面焦土になるとか冗談じゃない。
コネを生かして、東京でフリーの撃退士でもしながらバンド仲間を見付けるつもりだったのに、先の展望が全部失われている。
学園生が天魔を倒すと、学園内でのみ使える通貨が支給され勿論、日本円に換金も出来るのだけど、大金を換金してしまえばいらない注目を浴びてしまう。
少しずつ換金してきたお金は今、百二十万円ある。
確かに大金だけど、ホテル暮らしに外食オンリー、服など生活に必要な物を買って……と考えて行くと、不安になってくる額だ。
銀行口座から引き落とせれば一番だけど、使ったら居場所が特定されてしまうだろうし、ベースだって安い買い物じゃないし、これからの生活をどうしよう……。
私は安定した生活がしたい。
ロッケンローラーだけど、健康で文化的な最低限度の生活はしたいんだ。
ジャンクフードかじりながら廃墟で暮らすような生活は、さすがに勘弁して欲しい。
場当たり的な方針しかない上、将来を考えると先がないけど……まぁお金がある間は現状維持で、何かいいアイディアが浮かぶのを期待しよう。
「さむっ」
考え事をしながら駅のドアを開けて外に出てみれば、一気に吹き込んでくる冷たい風が私の髪を乱れさせる。
駅の中は何だかんだで風避けがあったからマシだったみたいで、こうして外に出るとシャレにならない。
首元に入り込んで来る雪に思わず身体を震わせていると、私の後ろを着いてきていたカインが前に出た。
「おおー……すげえな、冷たい」
「寒い……」
震える私なんて視界に収める事もなく、カインは灰色の空を見上げている。
それなりに大きな駅で人通りも結構あって、立ち止まっている私達は通行の邪魔になっている。 そう思ってカインに声をかけようとした時だった。
「見ろよ」
真上を指差すカインにつられ、私も空を見上げる。
灰色の雲が、落ちてくる雪の白に染め上げられていて、
「綺麗……」
空一面が太陽になったみたいに、キラキラと輝いていた。
ひらひらと落ちてくる雪は、私達を苦しめる天使じゃなくて、宗教画に描かれている救いの天使のように柔らかな華やかさだ。
雪を見た事は初めてじゃなくて、でもいつからか私は空を見上げる事もなくなっていた。
小等部から六年、中等部から二年に少し足りないくらいの時間、私はずっと天魔と戦ってきて、その事に後悔しているわけじゃないけれど、きっと沢山の物をこうして取り零して来たんだろうと、ふと思ってしまう。
「……ああ、そうか」
一般の学園生が学園を辞めるのは割と簡単だ。
一人、また一人と辞めて行く彼らを見て憤った事は何度もあるけれど、やっと彼らの事が理解出来たのかもしれない。
美しい風景、素晴らしい音楽、楽しい事。 少しの余裕があれば感じられる何かを取り零していると気付いた時、どうしようもなく寂しくて、耐えられなくなるんだ。
戦う事に心折れる時期はとうに過ぎた。
だけど、これは不味い。
胸の奥に溜まっていた、ドロドロとした澱みが溢れてこようとしている。
今すぐ叫び出したいような、今すぐこの場に寝転がって動かなくなってしまいたいような、今すぐ何もかもぶち壊してしまいたくなるような、
「―――っ」
決定的な何かが切れてしまいそうな、
「おい、あれだろ! 楽器売ってる店って、あれだろ!」
「ふえっ!?」
「何やってんだ、早く行くぞ!」
「ちょ、ちょっと待ってよ!?」
カインはいきなり私の腕を掴むと、すたすたと歩き始めた。
私の感傷なんて彼が知るはずもない。
だけど、私の腕を掴む彼の手は、案外ほっそりとしていて、強引だけど掴まれている所が千切れたりしないように繊細な力加減がされている。
「ちょっと待って、自分で歩くから」
同じご飯を食べて一緒に美味しいと思えて、綺麗な物を見た時に誰かと一緒に見たいと思えて、誰かと楽しい事をしたいと思えるのなら、私達は案外上手く一緒に歩いていけるのかもしれない。
そんな事を、キラキラと楽しそうに目を輝かせながら歩くカインを見ながら、私は思った。
「転ぶなよ」
にやりとカインが笑って、
「転ばないわよ」
私は笑い返した。
「これがいい」
「は?」
私達の入ったお店は、楽器店というよりギター専門店で、所狭しとギターとギター用品、そしてはじっこの方に少しのベースが飾られているような所だった。
カインは店に入るなり、真っ直ぐにその場に向かうと、一本の青いベースを手にする。
「これがいい」
「マジで?」
「うん」
子供みたいで少し可愛い。 そんな事を思っていられるのは、値段を見るまでだった。
「907.210円…………?」
「これじゃなきゃ駄目だ」
これから彼と一緒にやっていけるんだろうか。
嬉しそうにベースを撫で回しているカインを見て、私は心の底からそう思った。




