読める言葉
市場の広場には霧のような薄い朝靄が残っていた。
高橋は屋台の前で木箱を並べながら、大きく息を吐く。
この町に来てから、何日経ったのか。
正確には分からない。
だが、最初に目を覚ました日よりも、身体はずっとこの生活に慣れていた。
「高橋、そのリンゴは手前に並べろ」
ガルドの声が飛ぶ。
「はい」
高橋は木箱からリンゴを取り出し、丁寧に並べる。
赤い皮が朝日を受けて少し光った。
値札を確認する。
――リンゴ
――三つ 銅貨六枚
高橋はその文字を見て、小さく頷く。
(もう、これは普通に読めるな)
最初はただの記号のように見えていた文字も、
今ではゆっくりなら理解できるようになってきていた。
もちろん、全部ではない。
長い文章はまだ難しい。
それでも、単語ならかなり読める。
それは、毎日紙に書き続けたおかげだった。
高橋はポケットから例の紙を取り出す。
そこにはびっしりと文字が増えていた。
品物の名前。
通貨。
市場の言葉。
空いた時間に見直し、書き足し、覚える。
まるで学生の勉強のようだった。
「まだそれを書いているのか」
いつの間にかガルドが後ろに立っていた。
「はい」
高橋は紙を見せる。
「少しずつですが、読める言葉が増えてきました」
ガルドは紙を覗き込む。
「……ほう」
短く言う。
「リンゴ、玉ねぎ、パン、銅貨、銀貨」
指でなぞる。
「ちゃんと覚えているようだな」
「まだゆっくりですが」
高橋は苦笑する。
「掲示板の文章は、まだ難しいです」
ガルドは腕を組んだ。
「なら見に行ってこい」
「え?」
「朝の掲示板は情報が多い」
ガルドは広場の端を指す。
「仕事が始まる前に、見ておくといい」
高橋は少し驚いたが、頷いた。
「分かりました」
広場を横切り、掲示板へ向かう。
朝早い時間だが、すでに何人かの人が紙を読んでいた。
高橋は端に立ち、張り紙を見る。
ゆっくりと文字を追う。
――北門
――荷運び
――日当 銀貨一枚
高橋は目を瞬かせた。
(……読める)
完全ではない。
だが意味は分かった。
荷運びの仕事。
北門。
日当、銀貨一枚。
次の紙を見る。
――南の村
――小麦
――不足
これも理解できる。
高橋は小さく息を吐いた。
(少しずつ読めるようになってる)
最初にこの町に来た時は、
掲示板はただの紙の塊にしか見えなかった。
今は違う。
言葉が意味を持って見えてくる。
その時、後ろから声がした。
「どうだ」
振り向くと、ガルドが立っていた。
「少し読めます」
高橋は正直に答える。
「全部じゃないですけど」
ガルドは掲示板を見てから言った。
「どれが読めた」
高橋はさっきの紙を指す。
「荷運びの仕事です。北門で」
ガルドは少し目を細めた。
「……ほう」
そしてもう一枚の紙を見る。
「こっちは?」
「小麦が不足してるって書いてあります」
しばらく沈黙があった。
そしてガルドは小さく笑った。
「ずいぶん早いな」
高橋は首を傾げる。
「そうですか?」
「普通はもっと時間がかかる」
ガルドは言う。
「君は覚えるのが早い」
高橋は少し考える。
覚えるというより――
整理しているだけだ。
会社で資料を読むときと同じ。
単語を拾い、意味を繋げる。
それだけだった。
ガルドは背を向ける。
「戻るぞ」
「客が来る時間だ」
高橋は掲示板をもう一度見た。
文字。
言葉。
情報。
この町で生きるための大切なもの。
まだ帰る方法は分からない。
だが、少なくとも今は――
この町を理解することが、自分の一歩になる。
高橋はガルドの後を追い、屋台へ戻った。
朝の市場は、すでに人の声で満ち始めていた。
屋台に戻ると、広場の人の数はさらに増えていた。
朝の市場は、まるで川の流れのようだ。
人々はそれぞれの目的を持ち、屋台から屋台へと動いていく。
パンを買う者。
野菜を選ぶ者。
商人と値段を交渉する者。
高橋はその様子を見ながら、ガルドの横に立った。
「リンゴを五つ」
客が言う。
高橋は値札を確認する。
「五つですと……銅貨十枚になります」
客は銅貨を差し出す。
高橋は一枚ずつ確かめながら受け取る。
銅貨の色。
刻印。
重さ。
この世界の通貨にも、ようやく慣れてきていた。
客が去ると、ガルドがぽつりと言った。
「最初に会った時とは別人のようだな」
高橋は苦笑する。
「まだ全然ですよ」
「ここに来たばかりの頃は、右も左も分からなかった」
それは本当だった。
あの日、目を覚ました時。
見知らぬ天井。
知らない町。
理解できない状況。
正直、頭の中は混乱だらけだった。
だが今は違う。
まだこの世界のことは知らないことばかりだが、
少なくとも市場の一日は理解できるようになってきている。
ガルドは野菜を並べ直しながら言う。
「市場は町の縮図だ」
高橋は聞き返す。
「縮図?」
「そうだ」
ガルドは広場を指した。
「農民が作る」
「商人が売る」
「町の人間が買う」
そして少しだけ声を低くする。
「そして金が動く」
高橋は広場を見渡した。
確かにそうだった。
ここではすべてが繋がっている。
農村。
市場。
町の生活。
掲示板に書かれていた情報も、
すべてこの流れの中にある。
「だから掲示板は重要だ」
ガルドは続ける。
「物が足りない。余っている。仕事がある」
「全部あそこに出る」
高橋は頷いた。
さっき読んだ紙を思い出す。
小麦不足。
荷運びの仕事。
ただの張り紙ではない。
町の状況そのものだった。
その時、屋台の前に子供が来た。
まだ十歳くらいの男の子だ。
「リンゴ一つください」
高橋は値札を見る。
「銅貨二枚だよ」
子供は小さな手を開いた。
銅貨が三枚ある。
高橋は一瞬考えた。
「一枚おつりね」
リンゴを渡す。
子供は嬉しそうに受け取った。
「ありがとう!」
そして走っていった。
それを見て、ガルドが言う。
「子供の客も大事だ」
高橋は笑った。
「会社でも似たこと言われました」
「会社?」
「昔働いていた場所です」
ガルドは少し不思議そうな顔をしたが、深くは聞かなかった。
しばらくして、市場の忙しさは落ち着き始めた。
昼の時間が近づいている。
高橋は屋台の横で、ポケットから紙を取り出した。
新しい言葉を書き足す。
小麦
荷運び
北門
そして少し考えてから、もう一つ書いた。
市場
文字を見つめながら思う。
この町に来たばかりの頃は、
ただ生きることに必死だった。
だが今は違う。
少しずつ、この場所が理解できてきている。
その時、ガルドが言った。
「高橋」
「はい」
「午後は仕入れに行く」
高橋は顔を上げる。
「仕入れですか?」
「ああ」
ガルドは頷いた。
「市場だけが商売じゃない」
「どこで何を買うかも、商人の仕事だ」
高橋の胸が少し高鳴る。
今までは屋台の仕事ばかりだった。
だが――
町の外側の流れを知る機会かもしれない。
「ついて来い」
ガルドが歩き出す。
高橋は紙をポケットにしまい、その後を追った。
市場の広場を抜け、二人は石畳の通りを歩いていく。
高橋にとって、この町はまだ知らない場所だらけだ。
だが確実に一つだけ言えることがある。
この世界での生活は、
まだ始まったばかりなのだった。




