掲示板の小さな気づき
朝の空気はひんやりとしていた。
広場の石畳には、まだ人影がまばらだ。
高橋はガルドの屋台の準備を手伝いながら、昨日のことを思い出していた。
文字。
昨日は掲示板の文字を一つ一つ目で追った。
まだ流れるようには読めない。だが、値札や簡単な単語なら、少しずつ意味が分かるようになってきている。
「今日は掲示板を見てこい」
屋台の荷を並べながら、ガルドが言った。
「商人にとって、あそこは重要だ。町の動きが全部集まる」
「わかりました」
高橋はうなずき、広場の端にある掲示板へ向かった。
朝早い時間でも、何人かの人が紙を眺めている。
木の板には何枚もの紙が張られていた。
依頼、売り買い、町からの知らせ。
高橋はゆっくりと文字を追う。
「……パン屋、粉不足……?」
まだ完全には読めない。
だが、いくつかの単語は理解できる。
別の紙を見る。
「北門……野菜……高値」
その下には日付らしい数字。
高橋は眉をひそめた。
(北門で野菜が高い…?)
もう一度別の紙を見る。
「南の村……収穫……遅れ」
断片的な情報だ。
だが、頭の中で自然と整理が始まる。
これは、昔の仕事の癖だった。
営業部で資料を読んでいた頃、
バラバラの数字や文章を見て、状況を考えることがよくあった。
(もしかして……)
野菜が高い。
収穫が遅れている。
つまり――
「供給が少ない…?」
小さくつぶやく。
その時、後ろから声がした。
「何をぶつぶつ言っている?」
振り向くと、ガルドが立っていた。
「すみません…」
高橋は少し慌てる。
「掲示板を見ていたら、野菜が少ないのかなと思って」
ガルドは腕を組み、掲示板を見る。
そして、小さく笑った。
「ほう」
「それが分かったか」
高橋は驚いた。
「やっぱりそうなんですか?」
「ああ」
ガルドは頷く。
「南の村の収穫が遅れている。だから町に入る野菜が減っている」
「商人なら、その程度は読む」
高橋は少しだけ安心した。
自分の考えは、間違っていなかったらしい。
ガルドは続ける。
「今日は少しだけ野菜を多めに出す」
「値段も、ほんの少し上げる」
高橋は思わず言った。
「需要が上がっているから…ですか?」
ガルドはニヤリと笑う。
「その通りだ」
そして軽く肩を叩いた。
「君は変わった考え方をするな」
「悪くない」
高橋は少し照れた。
元の世界では、ただのサラリーマンだった。
特別な能力があったわけじゃない。
だが――
ここでは、その経験が少しだけ役に立つ。
「よし、戻るぞ」
ガルドが歩き出す。
「屋台を開ける時間だ」
高橋は掲示板をもう一度見た。
まだ文字は完全には読めない。
理解できるのも、ほんの一部だ。
それでも。
少しずつ、この町のことが分かってきている。
(まだ帰る方法は分からない)
妻と子供の顔が浮かぶ。
(でも…)
ここで生きるために、
学ばなければならないことは、まだ山ほどある。
高橋はガルドの背中を追い、屋台へ戻った。
広場には、朝の人の流れが少しずつ増え始めていた。
屋台に戻ると、広場にはすでに人の流れができ始めていた。
朝の市場は思っていた以上に忙しい。
パン屋、肉屋、布を売る商人。
荷車を押す農民や、買い物袋を持つ主婦たち。
人々は慣れた様子で屋台を回り、品物を見て歩いている。
ガルドは野菜を木箱から取り出し、丁寧に並べていく。
「高橋、そこの値札を並べ直せ」
「はい」
高橋は木札を手に取り、並べ替える。
まだ完全に読めるわけではないが、昨日よりは理解できる。
リンゴ。
パン。
玉ねぎ。
ゆっくりと文字を確認しながら、値札を置いていく。
「……これが三枚で、この値段」
小さく声に出して確認する。
元の世界では、資料を読むときによくやっていた癖だった。
ガルドは横目でそれを見ている。
「声に出して覚えるのか」
「ええ……その方が覚えやすくて」
「なるほどな」
ガルドは少し面白そうに笑った。
やがて最初の客が来た。
「リンゴを二つくれ」
高橋は値札を見る。
そして頭の中で計算する。
「銅貨四枚です」
客は銅貨を出す。
高橋はそれを受け取り、慎重に確認する。
銅貨の重さや刻印も、少しずつ覚えてきた。
「ありがとうよ」
客はリンゴを受け取り、去っていく。
高橋は小さく息を吐いた。
ガルドが言う。
「落ち着いているな」
「緊張してます」
「そうは見えない」
ガルドは野菜を並べながら続けた。
「普通、町に来たばかりの人間はもっと慌てる」
「君は観察してから動くタイプだ」
高橋は少し考えた。
確かに、昔からそうだった。
会社でも、新しい仕事を任されると、
まず周りのやり方を見て覚える。
急いで動くより、全体を理解する方が効率がいい。
それはサラリーマン時代に自然と身についた癖だった。
昼前になると、客の数はさらに増えた。
「パン三つ!」
「玉ねぎはあるか?」
「このリンゴ甘いか?」
次々と声が飛ぶ。
高橋は慌てそうになるが、
一つ一つ順番に対応する。
「はい、少々お待ちください」
「こちらになります」
計算。
品物。
お金。
頭の中で順序を整理する。
不思議なことに、仕事をしている間だけは、
異世界にいるという現実を忘れる。
ただの仕事だ。
ただの店番。
まるで会社で業務をしている時のようだった。
昼の忙しさが落ち着いた頃、
ガルドが水袋を渡してきた。
「飲め」
「ありがとうございます」
高橋は水を飲み、息をつく。
ガルドは広場を眺めながら言った。
「北には森、南には農村、東には街道がある」
「旅人も多い町だ」
ガルドは続ける。
「だから時々、君のような人間も現れる」
高橋は少し黙った。
「……やっぱり、いるんですか」
「ああ」
ガルドは普通のことのように答えた。
「別の世界から来たと言う者は、昔から時々いる」
「長く残る者もいれば、どこかへ消える者もいる」
高橋の胸が少しだけ強く打つ。
「消える……?」
「戻ったのかもしれんし、死んだのかもしれん」
ガルドは肩をすくめた。
「そこまでは誰も知らん」
高橋は広場を見つめた。
石畳。
行き交う人々。
異世界の町。
(戻れる可能性は…あるのか…)
はっきりとは分からない。
だが少なくとも、
自分だけの出来事ではないらしい。
その事実だけでも、わずかな希望になった。
「高橋」
ガルドが声をかける。
「はい」
「考えるのはいいが、手も動かせ」
見ると、新しい客が立っていた。
高橋は慌てて立ち上がる。
「いらっしゃいませ」
そしてまた、屋台の仕事に戻る。
まだ分からないことばかりだ。
この世界のことも、帰る方法も。
それでも。
ガルドの屋台の下で働く日々は、
少しずつ高橋をこの町に慣れさせていくのだった。




