初めての仕事
高橋は商人の男――ガルドの屋台の横に立ち、緊張しながら説明を聞いた。
「まずは品物の数を確認し、値段を計算するんだ。正確さが一番重要だ」
広場の喧騒が少し遠く感じられる。
屋台にはパン、野菜、果物、乾物などが整然と並び、ガルドが指示を出すたびに客がやってくる。
初めての仕事に、高橋の手は少し震えていた。
「じゃあ、君。リンゴを三つ買う人が来たら、いくら払うのか計算してみろ」
高橋は静かにコインを思い浮かべ、頭の中で計算する。
「三つで五デナール…一つなら二デナール…なるほど」
声には出さず、指で空中に数をなぞるようにして確認した。
するとガルドが頷く。
「よし、その調子だ。次は実際に計算してみる」
客が近づいてくる。小さな女の子と母親だ。
「パンを二つください」
女の子が母親の手を引きながら言う。
高橋は頭の中で数を確認し、口に出す。
「二つで六デナールです」
女の子の母親が小さな銅貨を差し出す。
高橋は少し手が震えながらも、正確に受け取り、パンを渡した。
その瞬間、胸の奥に小さな達成感が広がった。
観察していただけでは得られない、実際に役立つ感覚だ。
ガルドは横で微笑み、声をかける。
「悪くない。君には計算の才能と、冷静に数字を扱う能力がある」
高橋は自分でも驚いた。
知らない町に突然放り込まれ、まだ状況を完全に理解できない中で、こうして役割を与えられることが、思った以上に心地よい。
時間が経つにつれ、少しずつ客の対応にも慣れてきた。
リンゴの束、パン、野菜――物の種類によって、コインの数を計算する手順を覚えていく。
数を間違えそうになることもあるが、ガルドがすぐに助けてくれる。
広場の通りを見渡すと、子供たちが遊び、犬が駆け回り、屋台の掛け声が響く。
高橋はその中で、静かに役割を果たす自分の姿を感じた。
「観察しているだけじゃ、何も始まらない…こうして動くことで、この町の生活が少しずつ理解できるんだ」
夕方になり、広場の光が柔らかく傾いてくる。
高橋は手元の計算用具を片付け、ガルドと一緒に屋台を整理する。
一日の終わり、疲れはあるが、心地よい充実感が胸に残った。
初めての仕事を通じて、この町で生きるための感覚を少しずつ掴んだのだった。
夕暮れの広場。屋台の整理を終えたガルドは、高橋を静かに見つめた。
「ところで、君はどこから来た?」
高橋は少し戸惑った。
この世界で自分のことを話すのは初めてだ。
「ええと…私が住んでいたのは…遠く離れた国で、現代の世界、地球と呼ばれるところです。職業は会社員で…妻と子供が二人います」
ガルドは眉をひそめることもなく、静かに頷いた。
「ふむ、なるほど。外国から来たのではなく、他の世界から来た者、というわけか」
高橋は息を整える。
「でも…どうして、ここに?」
ガルドは軽く笑った。
「それは誰にも完全にはわからん。だが、こういうことはまれにある。異世界から人が来ることは、まれだが、まったくないわけではない」
高橋は驚く。
「まれに…?」
「そうだ。君のように、他の世界の者が突然現れることは、過去にも何度かあった。皆、最初は戸惑い、すぐには生活に馴染めなかったが、時間をかけてこの町の生活を学び、生きていった」
高橋は静かに頷く。
自分が異世界に来たことが、決して完全な異常ではないと知り、少し安心した。
ガルドは広場を指さした。
「さて、君が生きていくには、まずこの町を理解することだ。ここはリューネン、城下町の外れにある小さな町。人口は三千ほどで、市場や井戸、橋、掲示板など、日常生活に必要な設備は揃っている」
高橋は町を見渡す。石畳、木造の建物、行き交う人々、屋台――
「なるほど…この町には生活のリズムがあるんですね」
ガルドは頷き、続ける。
「通貨はデナール。銅貨は日用品、銀貨は高価な取引に使う。夜間は門が閉まること、井戸や橋の使用は順番があること、掲示板の情報は必ず確認すること――生活の基本はこのルールに従う」
高橋は頭の中で整理する。
自分がどこから来たのか、なぜここにいるのかはまだ完全には理解できない。
しかし、ガルドの言葉と目の前の光景を照らし合わせることで、異世界での生活の土台が少しずつ見えてきた。
「まれに異世界から来る者…自分もその一人として、この町で生きるために学ぶしかないんだ」
高橋は深く息を吸い込み、夕暮れの広場を見渡した。
異世界リューネンでの生活はまだ始まったばかりだが、町の名前と基本を知り、生活の仕組みを理解したことで、少しずつこの世界に順応する実感が芽生えたのだった。




