静かな後悔
雨の音で目が覚めた。
カーテンの隙間から差し込む薄暗い光が、部屋の床に細く伸びている。
高橋 恒一は、ベッドの端に腰掛け、しばらく天井を見つめたまま動けなかった。
昨日も遅くまで仕事をしていた。
今日も同じだ。
子供たちが起きる時間には間に合わない。
妻の美咲は先に子供たちを起こして、朝食を用意しているだろう。
そのことを思うと、胸の奥に小さな痛みが芽生える。
ベッドから体を起こし、窓の外を見る。
雨はまだ止んでいない。街路樹の葉に降る水滴が、少しずつ落ちて道路に波紋を描く。
いつもなら気にも留めない風景が、今日はなぜか胸に沁みた。
朝食の匂いも、子供たちの声も、まだ届かない。
時計の針だけが、正確に、無情に時間を刻んでいる。
高橋は深く息を吸い込み、服に着替える。
スーツに袖を通すと、また一日の戦いが始まる感覚が押し寄せた。
電車に揺られながら、高橋はぼんやりと外を見つめる。
乗客たちは皆、スマホを見たり、新聞を読んだり、各々の世界に浸っている。
自分もまた、その中の一人だ。
だが、心の奥底で、何かがぽっかりと空いているような感覚を消せなかった。
ふと、昨日娘が描いていた絵のことを思い出す。
丸い顔、大きな目、口角が上がった笑顔。
文字で「パパ」と書かれた名前。
思い返すだけで、胸がぎゅっと締め付けられる。
「俺は…本当に、ちゃんと見てやれてるのか」
スマホで妻から送られた写真や動画を確認する。
運動会の写真、娘が手を振って笑っている。
息子も一生懸命走っている。
でも、その中で自分はどこにも写っていない。
見守ることさえできなかった、無力な父親の姿が浮かぶ。
会社に着く。
デスクには昨日の書類が山積みだ。
メールの通知がひっきりなしに鳴り、上司からの電話も絶え間なくかかる。
同僚は昼休みに楽しそうに話しているが、高橋の心はそこにはない。
仕事をこなしながらも、頭の片隅で子供たちのことを思う。
朝、ちゃんとご飯を食べたのだろうか。
昨日は早く寝かせてあげられただろうか。
いつも思う。もっと時間を作れたはずなのに。
昼休み、ふと窓の外を見る。
雨は小降りになっていたが、まだ水滴が道路に広がる。
目に映るのは、街の忙しさと、行き交う人々。
その中で、娘や息子と笑い合う自分の姿が、頭の中でふわりと浮かぶ。
その夢は、現実には遠すぎて、息が詰まるような感覚だ。
夕方になり、ようやく会社を出る。
外はまだ小雨が降っている。
街灯に照らされた濡れた道路を歩きながら、父親としての無力感がまた押し寄せる。
帰宅した高橋は、玄関で濡れた傘をたたみ、コートをハンガーにかける。
雨に濡れた靴も丁寧に拭きながら、ふとリビングを見回した。
静まり返った部屋には、夕食の香りもなく、テレビの音もない。
ただ雨の音が、外から漏れ聞こえてくるだけだった。
テーブルの上には、小さな画用紙や折り紙、色鉛筆の欠片が散らばっている。
昨日、娘が遊んだ跡だろう。
手に取るわけでもなく、ただ目で追う。
小さな手でぎゅっと握った鉛筆の跡、少しにじんだ絵の色。
見ているだけで、胸の奥に重い感情が押し寄せる。
弁当を手に取り、箸をつけようとするが、手が止まった。
一口食べれば空腹は満たされるのに、それより先に心が折れてしまう。
「ごめん…」
小さな声で呟く。誰も返事はしない。
それでも、どこかで聞いてくれると信じたくなる気持ちがある。
高橋はソファに沈み込み、背もたれに頭を預けた。
雨のリズムが静かに、しかし規則正しく心に刻まれる。
目を閉じると、子供たちの顔が浮かぶ。
運動会で全力で走る息子。
手を振りながら笑う娘。
二人とも、父親を必要としているのに、いつも後回しにしてしまった自分。
「俺は…何をしてきたんだろう」
一日の忙しさを言い訳にして、子供たちの時間を奪っていた自分を責める。
頭の中で「もっと遊んであげればよかった」「もっと笑顔を見せてあげればよかった」と繰り返す。
言葉にするたび、胸が痛む。
やがて、台所のほうから妻の足音が聞こえる。
「お帰り」と声をかけられるが、自然に返事ができない。
ただ頭を下げて、手に持った弁当を置く。
妻の優しさに触れるたび、自分がどれほど不器用だったかを思い知らされる。
夜も更け、子供たちは布団の中。
ふと、娘の寝息が聞こえてくる気がして、耳を澄ます。
その寝顔は、昨日の疲れや寂しさを知らないかのように安らかだ。
でも、その裏で、父親として自分が何もしてあげられなかったことを思い出す。
静かに立ち上がり、リビングの窓を開ける。
雨は止んでおらず、濡れた街灯が道路に反射して揺れる。
傘を持たずに、外の冷たい空気を吸い込む。
手のひらに雨粒が落ち、ひんやりとする感覚が、心に微かな刺激を与えた。
「このままじゃ、いけない…」
心の奥で、何かが小さく動いた。
具体的に何をすべきかはまだわからない。
でも、変わらなければならない、という意識だけが確かに芽生えた。
父親として、家族と向き合うための第一歩を踏み出さなければならない。
その夜、高橋は眠れず、リビングのソファで座り続けた。
外の雨音、遠くの車のライト、子供たちの寝息。
それらすべてが、胸の奥で絡み合い、静かな焦燥感と希望を同時に湧き上がらせる。
明日は、少しだけでも変えよう。
そう決意しながら、手を膝の上で握る。
父親として、まだ遅くはないはずだと、心のどこかで信じながら。
外は雨がまだ止みそうにない。




