初めて見る力
昼を過ぎた市場は、朝とはまた違う賑わいを見せていた。
朝は食材を買う人間が多かったが、この時間になると客層が少し変わる。
仕事の合間に立ち寄る職人や、遅めの買い物に来る町の人たちだ。
ガルドの屋台の前にも、ぽつぽつと客が訪れていた。
「玉ねぎ二つ」
年配の女が言う。
「はい、銅貨六枚です」
高橋は袋を開き、玉ねぎを入れる。
この作業にもだいぶ慣れてきていた。
最初の頃のように値段を確認して戸惑うことも少ない。
客は銅貨を六枚置き、玉ねぎを受け取る。
「ありがとうよ」
女はそう言って去っていった。
高橋は銅貨を箱の中に入れる。
カラン、と軽い金属音がした。
その様子を見ながら、ガルドが言う。
「手つきが自然になってきたな」
「まだまだです」
高橋は苦笑する。
だが確かに、最初に市場へ立った日とは違う。
体が少しずつ、この仕事を覚えてきていた。
その時だった。
市場の奥――広場の方から、妙なざわめきが聞こえた。
最初は小さな声だった。
だが、すぐに周囲の空気が変わる。
「おい」
隣の魚屋の男が顔を上げた。
「なんだ?」
高橋もつられて広場の方を見る。
人が少しずつ同じ方向を見ている。
ざわめきは徐々に大きくなった。
「煙だ」
誰かが言った。
次の瞬間、黒い煙が空へ上がるのが見えた。
「火事か?」
市場の空気が一瞬で緊張する。
高橋は思わず身を乗り出した。
広場の端にある屋台の近くだった。
荷車に積まれていた干し草が燃えている。
炎はまだ小さい。
だが、風が吹けば広がる可能性がある。
市場には木箱や布も多い。
燃え広がれば大変なことになる。
「おい水を持ってこい!」
誰かが叫ぶ。
人が慌ただしく動き始めた。
だがその時だった。
人混みの中から、一人の男が前に出てきた。
灰色のローブを着た中年の男だった。
高橋はその男を見て、少し違和感を覚える。
男は慌てる様子がなかった。
燃えている荷車の前で静かに立つ。
周囲の人が少し距離を取る。
男は炎をじっと見た。
そして――
ゆっくりと右手を前に出した。
高橋は思わず目を細める。
何をするつもりだ?
男の口が動いた。
「……水よ」
低く、小さな声だった。
次の瞬間。
高橋は自分の目を疑った。
男の手の前の空間が、わずかに揺れた。
まるで空気が歪んだように見える。
そして――
そこに水が現れた。
何もなかったはずの空間に、
突然、透明な水の塊が浮かび上がった。
それは拳ほどの大きさだったが、次の瞬間には一気に膨らむ。
水は球のような形になり、そのまま炎へ飛んだ。
バシャッ!!
勢いよく水が干し草にぶつかる。
白い蒸気が上がる。
火は小さくなったが、まだ完全には消えていない。
男はもう一度手を振る。
今度は詠唱のような言葉を短く呟いた。
再び空間が歪む。
そしてまた、水が現れた。
二度目の水が炎に落ちる。
ジュッ……!
音を立てて火が消える。
煙だけが残った。
市場は一瞬静まり返った。
そしてすぐに、あちこちから声が上がる。
「助かった!」
「火が消えた!」
「魔法だ!」
高橋は、言葉を失っていた。
(今の……)
目の前で起きたことが、まだ理解できない。
水が、空中から現れた。
それが火を消した。
理屈では説明できない。
だが確かに、今見た。
高橋は隣にいるガルドを見る。
「……今の」
声が少し震えていた。
ガルドは特に驚いた様子もなく答える。
「水魔法だ」
当たり前のような口調だった。
「魔法…」
高橋はもう一度広場を見る。
ローブの男は周囲の人間に声をかけられていた。
「さすがだな!」
「助かった!」
男は軽く手を振っている。
まるで特別なことでもないような態度だった。
高橋はまだ信じられない気持ちだった。
(本当にあるのか…)
魔法。
ゲームや小説の中の話だと思っていたもの。
それが今、目の前で使われた。
ガルドが言う。
「そんな顔をするな」
「初めて見たんです」
高橋は正直に言う。
ガルドは少し笑った。
「まあ普通の人間は滅多に使えん」
「町に何人かいる程度だ」
高橋は広場を見ながら呟く。
「すごいですね…」
ガルドは肩をすくめる。
「便利ではある」
「だが、ああいうのは仕事じゃない」
そして屋台を指した。
「こっちが仕事だ」
ちょうどその時、客が来た。
「リンゴ四つ」
高橋は少し遅れて反応する。
「あ、はい」
袋を取り、リンゴを入れる。
さっきの光景が頭から離れない。
魔法。
水。
この世界の力。
だが――
客にリンゴを渡しながら、高橋は思う。
自分は魔法使いではない。
今やっていることは、ただの商売だ。
それでも、確かに分かったことがある。
この世界は、自分が思っていたよりずっと広い。
市場のざわめきの中で、高橋はもう一度広場を見た。
ローブの男は、すでに人混みに紛れていた。
だが、高橋の胸には確かな実感が残っていた。
この世界には――
魔法がある。
それを初めて知った日だった。
火が消えたあとも、市場のざわめきはしばらく続いていた。
燃えていた荷車の周りには人が集まり、何人かが濡れた干し草を片付けている。
ローブの男は礼を言われながら、照れくさそうに頭をかいていた。
「大したことじゃない」
そんな声がかすかに聞こえる。
高橋は屋台の前に立ったまま、その様子をぼんやり見ていた。
「おい」
ガルドの声で我に返る。
「ぼーっとするな」
「あ、すみません」
高橋は慌てて姿勢を直す。
だが、頭の中はまださっきの光景でいっぱいだった。
空中から現れた水。
炎を消した力。
どう考えても現実離れしている。
それでも、この町の人たちはそこまで驚いていない。
まるで、日常の出来事の一つのように受け止めている。
その時、隣の魚屋の男が笑いながら言った。
「久しぶりに見たな」
高橋はそちらを見る。
「よくあるんですか?」
男は肩をすくめた。
「火事なんて滅多にないがな」
「魔法使いは町に何人かいる」
ガルドも横から言う。
「さっきのは水魔法だ」
「水が出せるだけでも十分だがな」
高橋は広場を見ながら言った。
「誰でも使えるんですか?」
魚屋の男が吹き出した。
「そんなわけあるか」
「使えるやつは生まれつきだ」
ガルドは腕を組んだ。
「それに訓練もいる」
高橋は小さく頷いた。
(やっぱり特別な力なんだな…)
魔法。
この世界では確かに存在する。
だが、誰でも使えるものではないらしい。
その時、客が来た。
若い男だった。
「リンゴ六つくれ」
「はい」
高橋は袋を広げる。
リンゴを一つ、二つ、三つ……。
袋に入れながら、ふと考える。
(もし自分が魔法を使えたら…)
さっきの水の魔法。
火を消す力。
もしあれが使えたら、どんなことができるのだろう。
そんなことを考えながらリンゴを入れていると、
「七つ入ってるぞ」
ガルドが言った。
高橋は手を止めた。
「あ、本当だ」
一つ戻す。
客は苦笑した。
「新人か?」
ガルドが答える。
「そんなところだ」
客は銅貨を置き、リンゴを受け取る。
「まあ頑張れよ」
そう言って去っていった。
高橋は少し恥ずかしくなる。
「すみません」
ガルドはため息をついた。
「魔法に気を取られるのは分かる」
「だが仕事中だ」
「はい」
高橋は頭を下げる。
市場の空気は、すでにいつも通りに戻り始めていた。
火事騒ぎはもう終わったらしい。
広場では別の屋台が客を呼び込んでいる。
「安いよー!」
「今朝届いた野菜だ!」
商人たちの声が響く。
高橋はその音を聞きながら思った。
(不思議だな…)
魔法なんて、普通なら大騒ぎになるはずだ。
だがこの町では違う。
人々は少し驚き、
少し騒ぎ、
そしてすぐ日常に戻る。
つまりそれは――
この世界では、魔法が当たり前に存在しているということだ。
ガルドが玉ねぎを並べ直しながら言った。
「高橋」
「はい」
「今日の売れ行きは悪くない」
屋台を見ると、リンゴはかなり減っていた。
玉ねぎも半分ほど売れている。
「夕方までにだいたい売れるだろう」
高橋は少し安心する。
「それは良かったです」
ガルドはふと広場の方を見た。
「さっきの魔法使いだが」
「はい」
「たまに市場に来る」
高橋は驚く。
「そうなんですか?」
「ああ」
ガルドは短く答えた。
「この町に住んでいる」
高橋はもう一度広場を見る。
だがローブの男の姿は見えない。
(同じ町に…)
さっき目の前で見た魔法。
その力を持つ人間が、この町に住んでいる。
市場で買い物をしているかもしれない。
普通に歩いているかもしれない。
そう思うと、この町が急に少し違って見えた。
ただの市場ではない。
ただの町でもない。
ここは――
魔法が存在する世界の町なのだ。
高橋は屋台の前に立ちながら、静かに息を吐いた。
まだ知らないことばかりだ。
魔法。
この町の仕組み。
この世界のこと。
だが少なくとも一つだけは分かった。
自分が来たこの場所は、
思っていたよりもずっと不思議な世界なのだ。
市場のざわめきの中で、
高橋はその事実をゆっくりと実感していた。




