プロローグ
夜の空は暗く、ぽつぽつと雨が降り始めていた。6歳の娘は、和室の小さな机に座り、色鉛筆を握った手を少しぎゅっと強く握りしめていた。
今日は七夕。学校で短冊を書き、笹に飾る日だ。
机の上には友達の話を思い出す。
「おもちゃほしい」「犬がほしい」「ケーキ食べたい」――みんなは笑顔で書いている。
娘も最初はそうしようと思ったけれど、鉛筆が止まってしまった。
自分の願いは、誰かに笑われそうで、言えない。
でも胸の奥では、誰よりも強く思っている。
鉛筆を握った手が震える。小さな紙に、そっと書く。
「パパが、やさしいパパになりますように」
紙に文字を書くたび、少し胸がチクッと痛む。
パパはいつも仕事で忙しい。
休日もほとんど遊んでくれないし、話す時間も短い。
でも、大好きだから、信じたい。
いつか、きっと変わってくれると。
小さな紙を握りしめ、窓の外の雨音を聞く。
ぽつぽつと降る雨が屋根を叩く音が、心の奥を静かに揺らす。
窓の外の夜空は星も見えず暗いけれど、娘の小さな願いは、心の中で光っていた。
「お願い…届いてほしいな…」
そっと目を閉じる。
今日もパパは帰ってきていない。
紙に書いた願いが、少しでも届くように、心の中で繰り返した。
娘の手が短冊の端を握り、紙を笹の枝に結ぶ。
笹の葉が風に揺れて、小さく「カサカサ」と音を立てる。
願いが夜空へ飛んでいくように見えた。
小さな胸が、ほんの少し温かくなる。
その時、遠くの空に一瞬だけ光が走ったような気がした。
それはただの雷かもしれない。
でも娘は、心の奥で確かに感じた。
――きっと、パパのところまで、この願いは届く。
静かな夜。雨の音と、紙を結ぶ小さな手の震えだけが、部屋に残る。
そして、この小さな願いが、父親を異世界へと導く、静かで確かな始まりだった。




