第三章 3
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街を出ると、また森を抜けなけばならなかった。
雪が、ちらちらと降っている。
白い息を吐きながら、オルキデアはそれを珍し気に見ている。
「こりゃ積もるかもな。早く次の街に行かねえと」
段々と雲が分厚くなってきて、天気が怪しくなってきた。雪はどんどん激しくなっていき、吹雪いてきたと思った時、彼方に街の影が見えた。
「助かった。街だ」
これでは、馬も小屋に入れなければならない。フーチを別の部屋に入れてもらい、宿を決め、暖を取るために暖炉の側で座って酒場で食事をして、やれやれと一息いれた。
「明日には吹雪も収まるだろう」
そんなことを話して二階へ行き、朝を待って眠り、さて翌朝になってみれば、気持ちのいい快晴である。
すっきりと目が覚めたので、気分がよかった。
「よし、行こうぜ」
雪が大分積もっているが、馬で行けない程ではない。支度をして出発して、道を行った。 しかしである。
少し行ったところで、大きな河があったのだ。
その河が氾濫して、渡れないのである。橋が崩壊していて、見るも無残だ。
近くには、村落らしきものはない。
「なんだこりゃ」
河の水はごうごうと唸り、今にも襲いかからんばかりにうねっている。これは、歩いて渡ることはとてもではないができないだろう。
「どうするのですか」
「どうするってったって、近くの村かなんかに行くしかねえな」
しかし、一番近い集落はどうやら、あの街のようである。そこで街に戻ると、同じように足止めをくらった旅人が大勢いるようだ。
「あれお客さん、戻って来なすったか。橋が壊れちゃったら、当分はあっち側に行くのは無理だね」
「なんとかならねえか」
「あっち側の近くの街には、鳩の施設がないんだ。だから、こっちから鳩を飛ばして、あっち側の鳩の施設に飛ばして、それで職人を呼んでもらうしかないんだよ」
「まだるっこしいなあ」
そこへ、誰かが青い顔をして、
「大変だ。医者はいないか」
とやってきた。
「どうした」
「妊婦がいるんだ。それが、なんだか様子がおかしくて」
ヘクターは宿の主人と顔を見合わせた。
「ここへ運べ」
大きな腹の女が、二人の男に支えられて運ばれてきた。脂汗をかいて、暴れんばかりに苦しんでいる。
「おれの妻なんだ。もう臨月なんだが、なんか変なんだ。産まれそうなのに、出てこない」
「出産なら、何度か立ち合ったことあるぜ」
「あんた、ちょっと診てみてくれ」
そこでヘクターが内診してみると、
「うん?」
なにやら、様子が変である。
「こりゃあ……」
「なんだ、言ってくれ」
「こいつは、逆子だ」
「逆子ってなんだ」
「赤ん坊ってのは、ふつう頭から出てくる。あんたのガキは、足が先に出てきてる。こりゃ、難産だ」
「なんとかしてくれ」
「腹を切って出すしかない。俺は医者じゃないから、そんなことはできない」
「切ってくれ」
「無理無理無理無理」
「頼む。助けてくれ」
「むりだってば」
「ヘクター」
「無理だよ」
「せめて、医者を連れてきてくれ」
「河の向こう岸にいるんだろ? 河は氾濫してる。どうしろってんだ」
妊婦が絶叫した。今にも死にそうな叫び声だ。男が、縋るような目で見てくる。
その潤んだ瞳に、ヘクターの仏心が出た。
「うー」
彼は考えた。考えに考えた。ない知恵を絞りに絞った。
考えろ。俺は医者じゃねえ。だから、あの腹は切れねえ。いや、切れる。切れるが、その後の始末ができねえ。赤ん坊は出せるが、母親は見殺しにしちまう。それはだめだ。考えろ。
頭がくらくらする。ぐるぐると考えが巡る。ぐらぐらしてくる頭のなかで、色々なことを思った。
塔の上、砂漠の駱駝、草原の騎馬民族、弓の競争、スリの子供たち。
待てよ、弓? 確か、俺は弓をもらったな。
ヘクターは自分の荷物を振り返った。
イルから受け取った、この弓。
なにかに使えはしないか。
考えろ、考えろ、考えろ。
「――」
閃いた。
「いいぜ、医者を連れてくる」
「ヘクター?」
「向こう岸に綱を渡して、俺が行く。そこで医者を探して、連れてくる。すぐに行ってくるから、もう少しだけ待っててくれ。待てるな?」
と、妊婦に尋ねると、脂汗を滲ませながらも女はこくりとうなづく。
「よーし。じゃあちょっと行ってくる。あんたはこの女の手を握ってやっててくれ」
とイルにもらった弓を掴み、フーチに飛び乗り、街の人間と共に河までやってきた。
そして向こう岸の樹を慎重に狙い定めて矢を放ち、それが当たると、綱を渡した。
「いいぞ。しっかりと持っててくれよ」
「へ、へい」
ヘクターは共に来た街の人間と側にあった樹にその綱を縛りつけると、するするとその綱を伝い、ごうごうと唸る河の上を渡り始めた。
慎重に慎重に。少しでも手を滑らせたら、落っこちるぞ。
河の幅は思ったよりも広く、少しでも顔を落とすとそこには水があった。汗が顔を伝う。 何十分にも何時間にも思われる長い間を焦りながらも慎重に、しかし迅速に行きながら、ヘクターは綱を渡っていった。そしてとうとう向こう岸に着いてしまうと、急いであちら側の街へ走って行った。
そこはそんなに近くはなく、彼は馬もないのによく行った。
そして街に到着すると、大声で医者を探した。幸運にも医者はすぐに見つかって、急いたヘクターは医者を背負って街を出た。妊婦は、命の危機にある。待ってはくれないのだ。 そして河まで急行した彼は、医者を背負ったまま綱を渡った。
そしてフーチに乗って、馬を飛ばして街まで帰った。
妊婦は、絶叫に絶叫して彼を待っていた。
「ヘクター、もうだめです。お腹が破裂してしまいます」
「麻酔の用意がない。木の切れ端を持ってきて、口に咥えさせるんだ。あんた、手を握ってやっててくれ。男はみんな出て行ってくれ。部屋を消毒する」
医者が腕まくりをして、お湯を沸かしてくれと怒鳴った。
女たちが湯を沸かし始め、オルキデアが妊婦の手を握り締めた。
ヘクターはへとへとになってそこに倒れ、そうして辺りは夜になろうとしていた。
赤ん坊の泣き声で、彼は目が覚めた。
なんだ。どうした。産まれたのか。
彼はそこに飛び起きた。
「ヘクター」
オルキデアが微笑みながら自分を覗いている。
「産まれましたよ」
「……」
「母子ともに、健康です。お母さんはちょっと弱っていますが、無事ですよ」
「そいつはよかった」
彼はほっと息をついた。
「大活躍でしたね」
「へっ」
ヘクターは起き上がって、辺りを見回した。板の間に寝ていたので、身体が痛い。
「それよか、腹が減った。なにか食いたい」
「ご主人に言って、朝食を頼みましょう。みな疲れていますから、なにか作ってくれるでしょう」
オルキデアはカウンターに歩いて行って、主人に朝食を注文した。そして、昨夜の凄絶な出産の様子を思い起こしていた。血まみれの赤子、断末魔の叫び、切り刻まれ、そして縫われていく腹。
母親の手を握りながら、人間とはこんなに力が出るものなのかと驚愕し、こんなに叫ぶものなのかと驚嘆する一夜であった。
医者が下りてきて、食事をするヘクターに言った。
「あんた、私を帰してくれるかね。ついでに街に戻った時に職人に言って、橋を直すよう言っておくよ。一週間もすれば元に戻るだろう」
「やれやれ」
ヘクターは疲れた身体を励まして、医者を向こう岸の街に送っていった。職人がやってきて、橋を修理した。幸運にも彼らは腕がよかったので、医者の言葉通り、十日ほどで橋は元に戻った。
こうして二人は河を渡ることができたのである。




