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第三章 2

                    1



「冬の大雪山には入れねえ。そんなことするのは死にたい奴だけだ」

「でも、このまま行くとその山なのでしょう」

「だから、少し暖かくなるまで待つ。常冬の地だが、少しは違うだろう」

 雨水の月といえば、二番目の月の後半だ。どこかで冬を越さなければならないということだ。

「なるべく街にいるようにしよう。しかし、あんたの目の色は目立つからな。よくよく注意しねえと」

 外套があるから、フードを被っていればベールをつける必要はない。外にいる時はそれでいいが、屋内にいるとなると話は別だ。

 ふと、自分はなぜ彼の言うことにこんなに素直に応じているのだろうと思った。初めは、逃げ出そうとすらしていたというのに。

 夕暮れが近くなってきた頃、大きな街に着いた。国という程ではないが、それに次ぐくらいの規模はあるだろう。

 宿を決めて食事をすませ、風呂屋に向かう途中でのことである。

 道のむこうから走ってきた身なりの貧しげな少年が、ヘクターにぶつかった。

「ごめんよ」

 少年はそう言ってすぐに走り去ろうとした。その襟首を、彼は掴んで少年を行かせまいとした。

「ヘクター?」

「いてててて。なにすんだよう」

「出しな」

 ヘクターは少年の瞳を覗き込んで、低く打ち据えるように言った。

「な、なんのことだよう」

「今、ったろう。俺の金だ。返しな」

「う……」

「早くしろ。痛い目に遭いてえか」

 またも低い声で彼が言うので、少年は懐に手をやった。そしてそこから革袋を出すと、それを道に放った。ヘクターが革袋を拾うのにまかせ、少年は走り去った。

 オルキデアは唖然として、その背中を見送った。

「あれは一体……」

「スリだよ。ありゃ、孤児だろう。よくあることだ」

 行くぞ、と言われて、オルキデアは慌てて歩きだした。

「ああした子供も、いるのですね」

「目に見えないとこにいるだけで、ごまんといるさ。俺だって昔は」

「え?」

「いや……なんでもない」

 自分だって昔は似たようなことをしていた、そうしないと食べていけなかったから――と言いそうになって、ヘクターは口を噤んだ。境涯の違うこの女にそんなことを言ったところで、どうなるというのだ。

 翌朝酒場で食事をしていると、数人の子供がうろうろしているのが見られた。それに思わず目をやっていると、

「客の残りの飯を、狙ってるんだ。そうでもしないと食べられないから」

 とヘクターがつまらなさそうに言った。オルキデアはそれを聞いて益々驚いて、なんとかしてやりたいと思った。しかし、

「やめとけ。一人助けたところで、百人を救えるわけじゃねえんだ。ぜんぶの面倒見られねえなら、最初から手を出すな」

 と、まるで自分の心を読んだかのようにヘクターが言うので、言葉を引っ込めた。

「中途半端な優しさは、残酷なものになるってことを知っておけ」

 彼は立ち上がり、手洗いに行くと言った。オルキデアはそれをそわそわとして待った。 子供が近くのテーブルに来て、客の隙を見て食べ物を掠め取ろうとしている。自分の皿は、空だ。

 ヘクターは手洗いから出てきてオルキデアの背中を見た。どうやら、誰にも話しかけられた様子はない。よしよし、と思っていると、その後ろから忍び寄る子供の影が見られて、彼は目を細めた。

「おい、待ちな」

 オルキデアの背後にいた子供を捕まえると、ヘクターはその腕を掴んだ。

「なにしようとしてた」

「あっ、あんた昨日の奴だな。商売の邪魔すんな」

「俺の連れだ。迷惑かけてもらっちゃ困るのよ」

「離せ」

「なにもしないと誓うか」

「ち、誓うよ」

 ヘクターは子供の手を離した。子供は酒場から走って出て行った。

「ヘクター」

「なんだ」

「なんとかしてあげてください」

 彼はオルキデアの方を見た。

「せめて、あの子だけでも」

「聞いてなかったのか。中途半端な優しさは」

「それでも、なにかできることはあるはずです。できることがあるのなら、しないと」

「あのなあ」

「お願いです」

 と大きな瞳で見つめられ、ヘクターは頭を抱えた。彼はしばらくの間そうしていたが、やがて自分自身との葛藤を終え、

「来い」

 と立ち上がった。そして街を走り回る子供たちの姿をみとめると、その後についていった。

「どこへ行くのですか」

「ああいった連中は、どこかを根城にしてるはずだ。そこに行くんだ」

 市場、裏路地、小路、様々な場所を抜けて、子供たちは走った。すばしっこい彼らに気づかれないように追いかけるのは、骨が折れた。

 しばらく行くと、街はずれに出た。子供たちは迷うことなく、その一番大きな建物に入っていった。どうやら、そこは廃墟のようである。

「あれだ」

 ヘクターはその建物のなかに入ると、子供たちの影を探した。女連れでこんなとこに来るのは俺ぐらいだ、と心のなかで愚痴をこぼした。

「兄ちゃん、なんの用?」

 頭上から声がして、ヘクターははっとしてそれに振り返った。

 梁の上に、子供が座っていた。一人ではない、何人もいた。

「お前らに話がある」

「大人は信用しないよ」

「俺はその辺の大人じゃねえ。下りてこい」

「話なら、ここでもできるだろ」

 口のよく回るガキだ。ヘクターは頭が痛くなった。

「スリをやめて、真っ当に働け」

 子供たちがけらけらと笑った。

「いきなりやってきて、お説教かよ。お呼びじゃないよ」

「こんな生活、いつまでもできるわけじゃないぞ」

「みんなでいれば、助け合える。誰かが病気になっても、みんなで助けるんだ。僕たちはそうやって生きてる。大人の口出しすることじゃない」

「とにかく、スリはやめとけ」

 いつだったかまだ幼い時、顔見知りの孤児仲間が金持ちから金を掏り取って指をすべて切り落とされたのを見たことがある。

「いつかひどい目に遭うぞ」

「僕たちは共同体だ。ひどい目に遭わせられたら、みんなで仕返しする」

「まともに働いた方が危険はない」

「子供なんか、誰が雇ってくれるっていうのさ。馬鹿言わないでよ」

 だめだこりゃ。ヘクターは説得をやめた。

「おい、帰るぞ」

「あの子たちを見捨てるのですか」

「あいつらは、立派に独立してる。俺たちの口出しすることじゃねえ」

「そんな……」

 オルキデアはさっさとそこから出て行こうとするヘクターを止めようとして、どうにもできないことに気がついた。

「せめて、なにかしてあげましょう」

「偽善だ。やめとけ」

「食事を振る舞うだけでも」

 しつこく食い下がってくるオルキデアを、ヘクターは振り返った。そして怒鳴りつけようとして、それができないことに気づいた。

 かつて、自分はあの少年たちだった。運がなくて、自分はああだった。もっと運があれば、こんな女に出会えていたかもしれない。

 そう思うと、無下に突っぱねることはできなかった。ヘクターは梁の上を見上げて、少年たちに言った。

「下りてこい。奢ってやる」

 子供たちは顔を見合わせた。

「どうした。食いっぱぐれてえのか」

 その言葉に、おずおずと子供の一人が下りて行った。それを追って、また一人が下りた。

 一人、また一人と、子供が下りてきた。

 先程話していた少年も下りてきて、まだ信用できないといった表情でヘクターを見ている。

「ここから一番近い食堂に連れていけ」

 子供たちはまたも、顔を見合わせた。

「早くしろ。二度は言わねえ」

 彼らは歓声を上げて走り出した。こっちだよ、とオルキデアの手を引く子も見られた。 貧民街の食堂とて、馬鹿にはできない。合計十数人の子供の食事代は、いい金額になった。

 金袋を見ながらぶつぶつ言うヘクターに、オルキデアは微笑んだ。

「ありがとうございます」

 彼は顔を上げて、オルキデアを見た。

「本当になにかしてくれるとは、思いませんでした」

「あんたのためにしたわけじゃねえ」

 決まりが悪くなって、ヘクターは金袋を懐にしまった。

「こうでもしなくちゃ俺の気分が悪かったからだ」

 がつがつと食事を平らげる子供たちの脇で、彼は安酒を飲んでいる。

「お前ら、親は」

「いないよ」

「みんな死んじゃったか、どこかに行っちゃった」

「それであそこでみんなで暮らしてるのか」

「そう」

「誰にも頼れないから、みんなで助け合うしかないんだ」

「腹がいっぱいになったら、帰れ。腹が減る前に仕事すんなよ」

 どうせ、彼らは空腹になったらまた誰かの懐を狙うだろう。自分のやっていることは偽善に過ぎない。

 しかし、この少年たちの境遇と自分の幼い頃のそれが重なって見えてしまっては、なにもしないというわけにはいかなくなった。

 それでも、夢中になって食事をする少年たちを見るとなぜか心が満たされた。こんなことは無駄だと頭のなかで言う自分と、一食でもいいから助けてやれと言う自分が、鬩ぎ合っている。

「兄ちゃん、ありがとよ」

「ありがとよ」

「今日は仕事するなよ。約束だ」

 そう言い含めて、ヘクターとオルキデアは貧民街を後にした。オルキデアはいいことができたので、満足そうである。その横顔を見ていると、苦々しい気持ちになった。

「あんた、わかってんのか。あいつら、明日になって腹が減ったらまたやるぞ」

「それは仕方のないことです。問題は、彼らに手を差し伸べる人間が一人でもいるのだということをわかってもらうことです」

「――」

「大人を信用しないで生きるというのは、とても辛いことです。どんな大人がいても、そのなかに少しでもまともな大人がいる、ということを彼らがわかってくれれば、それでいいのです」

 言葉が出なかった。

 もし俺が小さいときにこんな考えをする大人に出会えていたら、俺の人生はもうちょっとましだったのだろうか。

 そこまで考えが至って、そっと首を振る。どのような幼少期であれ、自分はあれを生き抜いてこうしている。今の暮らしに、不満はない。

 ならばそれでいいではないか。そう思い直して、宿に帰っていった。

 問題は、その次の日の夜に起こった。

 風呂屋にむかうヘクターとオルキデアの後を尾けている男たちがいた。

「あいつか?」

「へえ」

「女連れじゃねえか。畳んじまいな」

 男たちはその背後から忍び寄り、刃物を持っていきなりヘクターに襲いかかった。彼はそれにいち早く気づいて、側にいたオルキデアを突き飛ばしてよけた。

 そして男から武器を奪うと、その腕を掴んで辺りを見回した。

 三人の男たちに、囲まれている。

「なんだお前ら」

「あんた、昨日ガキ共に飯を奢ったってなあ。そん時に今日は一日仕事するなって言ったって? おかげで商売あがったりで、元締めが頭にきてんだ」

「なに……」

「それで元凶のあんたに、ちょっと挨拶してこいと言われたのさ」

 うつむいた拍子に、髪がはらりと顔にかかった。それで、彼の表情が見えなくなった。 搾取されていたのか。どうりで大人を信じないはずだ。

 ヘクターは顔を上げた。

 これは、俺の時よりひどい。

「そうかい」

 言うや、彼は掴んでいた男の腕をねじり上げた。ぼきりと嫌な音がして、腕がおかしな方向にむいた。男が悲鳴を上げる。

「じゃあ、俺がよろしく言っていたと伝えてくれ」

 そして、自分を囲んでいた男たちを目にも止まらぬ早さで倒していった。オルキデアはそれを、信じられないように見守っていた。

「行くぞ」

「え、あ、はい」

 風呂に入りながら、オルキデアはこれは一体どういうことなのだろうかと考えていた。 しかし、世間知らずな自分の頭では考えるだに無駄だ。だから二階で待つヘクターに、直接聞いた。

「さっきのひとたち、なんなのでしょう」

「ん? ああ……」

 ヘクターも、そのことを考えていた。自分の時は、子供だけで悪さをして、それで完結していた。誰にも頼れない代わりに、誰にも縛られていなかった。

 しかし、あの少年たちは違う。見ていられなかった。

「もうちょっとこの街に長くいることにした。ひと仕事するぜ」

「え?」

 翌日から、ヘクターはあちこちの酒場を巡ってこの街のことを調べ始めた。貧民街は貧しいがゆえに犯罪の温床になっていること、その元締めがいること、役人はみな、彼が恐くて取り締まれないこと、街の人間が迷惑していること。

 そんなことがわかり始めて、彼は宿に戻り酒場で腕を組んで考えた。

「ヘクター」

「なんだ」

「どうするのですか」

 彼は顔を上げた。

「あのガキ共は、元締めから搾り取られていた。そんなことじゃあ、いつまでたってもあそこから出られねえ」

「あなたが、なにかするのですか」

 オルキデアは幾分驚いて、そう尋ねた。他人のことは他人事、ひとの生き方に口を出さないヘクターが、いつも関係のない顔を決めこんでいる彼が、およそ自分から進んであの少年たちになにかしてやろうとするとは、到底思えなかったからである。

「俺は難しいことはわからねえから、正攻法で行く」

「正攻法?」

「あのガキ共にも、ちょっと協力してもらうか」

 彼は正面からオルキデアを見た。それに少し怯んで、オルキデアはなんですか、と聞いた。

「元締めに殴りこみをかける間、あんたは連れて行けねえ。ここでただ待ってるのも危ないから、店の主人に頼んでおいた」

「暴力はだめです」

「殴らないとわからねえ馬鹿っていうのも、この世には存在するんだ。殺しゃしねえよ」 ヘクターはあの貧民街の建物に行って、子供たちと話をした。そしてあることを頼むと、昼前には帰ってきた。その間オルキデアは酒場の主人と共にいて、はらはらしながら彼の帰りを待っていた。

「話がついたぜ。今夜だ」

「危ないことはやめてください」

「なんも危なくなんかねえ。ちょっと暴れるだけだ」

 夕方になって、ヘクターは街に繰り出した。それを見張っている誰かの目が付きっきりで監視しているのも承知で、出かけて行った。

 そして娼館を見つけるとそこに入り、妓を選んで部屋に入った。

「けっ、娼婦かよ。女を連れてるって話だが、景気がいいこった」

「最中に狙えば、どんな腕っこきだろうと歯は立たねえはずだ。行くぞ」

 彼を見張っていた男たちはそう吐き捨てると、ずかずかと娼館に入っていった。彼らの顔を見ると、主も黙って奥に引っ込んでいった。

 そしてヘクターの入っていった部屋の扉を乱暴に開けると、そこには娼婦と絡み合っている彼がいる――はずであった。

「な、なんだ」

「どこにいやがる」

「こっちだよ」

 後ろから声がかかって、振り向こうとした途端に顔を殴られた。ヘクターは二人組をあっと言う間に倒してしまうと、女から縄を受け取って彼らを縛った。そして窓から顔を出すと、口笛を吹いて合図した。

 表に出ると、少年が一人そこにいた。

「よし、頼むぜ」

 少年は彼に笑いかけると、路地を走り始めた。ヘクターはそれを、黙って追いかけた。 貧民街に顔が利かないと抜けられない道を、少年は黙々と進んでいった。どの小路にもどの曲がり角にも、少年たちは必ず立っていて、案内の少年とヘクターが通ると、知らぬ顔をして後の者が通れないようにした。

「ここだよ」

「ありがとよ」

 ヘクターは案内の少年に帰んな、と言い置くと、その分厚い扉をバタンと開けた。

 なかには馬鹿でかい男が一人いて、どうやらそれが一人目の用心棒のようだった。

「なんだてめえは。どうやってここまで入ってきた」

「元締めに用があるんだ。通してくれとは言わない」

「んじゃどうすんだ」

 男が吠えるようにして襲いかかってきた。屈んでそれをよけると、腹に一発拳をお見舞いした。

「こうやるんだ」

 辺りを見回すと、廊下のむこうに扉があった。ヘクターは迷わず、そこに入っていった。 男が四人、賭け札をしていた。彼らはヘクターを見ると顔色を変えて立ち上がった。

「なんだこいつは」

「やっちまえ」

 ヘクターは腕利きの賞金稼ぎだ。傭兵でもある。今まで、数えきれない修羅場をくぐってきた。戦場に行ったこともあった。

 貧民街で子供を食い物にしている男の手下など、太刀打ちできるはずもなかった。

 あっという間に四人を倒すと、あちこちの部屋から叫び声が聞こえてきた。騒ぎを聞きつけて、男たちがこちらへ来ようとしている。

 ヘクターはそこで初めて剣を抜いて、その冷たい刀身に指を這わせた。

 オルキデアには殺しはしないと言ったが、そうも言ってられないかもしれない。そんなことを思いながら、彼は次々とやってくる手下たちを気絶させていった。その内の何人かとは、血を流さなければならない事態にまで発展した。

 そしてとうとう通路の行き止まりまで来ると、彼は最後の扉を静かに開けた。元締めはそこで金を数えている真っ最中で、外の騒ぎなど聞こえていない様子だった。

「なんだお前は」

「子供たちにスリをやらせて、その上前をはねてるな。俺はそういう、汚ねえ男が大嫌いでね」

「その分あそこで暮らしていけるようにしてやってんだ。文句はねえはずだ」

「そういうのは、衣食住の面倒を見てから言いな」

 元締めの側にいた、ひと際大きな男が立ち上がった。

 その殺気に、鳥肌が立った。

 これは、今までの雑魚とは一味違う。

 ヘクターはその男とじりじりと向かい合って、間合いを詰めた。男はむき出しの山刀を持っていて、それをちらつかせながら近づいてきた。

 山刀とヘクターの剣が噛み合って、火花が散った。

 何度か斬り合って、刃と刃が激突した。男と睨み合いながら、体格で劣るヘクターは力任せに押しやられた。

 男はにやにやと笑いながら、こちらへ詰め寄ってくる。ヘクターは奥歯を噛んで、踏み込んだ。そして男の懐に飛び込むと、その腕を握っている山刀もろとも切り落とした。

 たちまち、男が絶叫を上げた。

 それには見向きもせず、ヘクターは元締めに迫った。

「ま、待て。金ならある」

「金なら、俺もある。あんたの金に用はねえ」

 ヘクターはぎらりと光る剣をその喉元に突きつけて、青い目に殺気を迸らせて言った。「ちょっと眠っててもらうぜ」

 そして、剣の柄で元締めを殴ると気絶せしめ、そこにある金すべてを片づけて懐にしまった。

 翌日の朝、大通りの入り口に逆さ吊りにされた男が発見された。男は両足を左右から開く状態で全裸のまま吊るされており、街の人間は彼を指差して大笑いしたという。

「どうだい殺さなかったぜ」

 それを遠くから見て、ヘクターは腕を組んで得意顔でオルキデアに言った。彼女は少し困った顔になって、

「殺さなければいいというものではありません」

「なんだ、文句があんのか」

「やり方というものがあったはずです」

「これであの元締めはこの街にはいられなくなる。裏の世界っていうのは話が伝わるのが早いから、あいつは近隣じゃもう悪事はできないはずだ。殺さないなら、これが手一杯だよ」

「奪ったお金は、どうするのですか」

「ああ……」

 ヘクターはにやりと笑って、それに応じた。

「それなら考えてある」



 貧民街の一番年長の少年を連れて、ヘクターは『鉄銀行』にやってきていた。

 受付は相変わらず、頭取がお会いになりますと言って彼を座らせた。その男はヘクターの連れている少年をじろりと見たが、特になにも言わず、二人を部屋に通した。

 この街の『鉄銀行』の頭取も両脇に男を従えて、三人で机に座っていた。

「お連れ様のいる方とは、お話しはできませんな」

 そう言って帰されそうになるのを、ヘクターは遮って言い返した。

「まあそう言うな。今日は顧客を紹介しに来た」

「なんですと?」

「この子が、金を預ける。有り金はここだ」

 ヘクターは懐から革袋を取り出して、机の上に無造作に置いた。

「名前を言いな」

 囁いて少年をつつくと、子供は弾かれたように姿勢を正した。

「へ、ヘンリー・スチュワート」

「この方が金を預けると?」

「そうだ」

「それは、この方の意志なのですかな」

「そうだ」

 三人の男たちは顔を寄せ合って小声で話している。少年は緊張した場の空気についていけずに、怯えた顔でヘクターを見上げている。

 真ん中にいた男が、こほんと咳をした。

「いいでしょう。では、ここに署名を」

「今日、いくらか持っていきますかな」

「それには及ばねえ。金は全額預ける」

「よろしいでしょう」

 男たちはまたひそひそと小声で話し合って、それから少年を手招きして彼と固く握手を交わした。

 これで、契約は成立である。

 建物から出てくると、ヘクターは少年に言った。

「いいか、あの金は大事に取っておいて、誰かが病気になったり困って困ってどうしようもねえ時だけに下ろして、いざって時のために貯えておけ。それ以外の下らないことには遣うんじゃねえ」

「いいの?」

「いいも悪いもねえ。元はと言えばお前らの金だ」

 そう言って、貧民街のあの建物まで少年を送っていった。オルキデアは銀行の入り口で彼らを待っていて、黙ってそれについてきていた。

「これであの子たちも少しは大人を信用するようになるだろ」

 オルキデアはにこにこと笑って、ヘクターを見上げた。

「なにをにやにや笑ってやがる」

「人が好いですね、ヘクター」

「なんだと」

「なかなかここまでできるひとはいませんよ」

「あんたが押しつけるからだ。ほんとは嫌だったんだ」

「あの子たち、これからどうなるんでしょう」

「またスリに戻って、今度は自分たちだけで稼ぐようになるだろう。俺ができるのはここまでだよ」

 とんだ偽善だ。

 そう胸のなかで呟いて、ヘクターは歩きだした。

 あの子たちは、かつての俺だ。誰にも頼れなくて、苦しくてひもじくて無力感だけが身を苛む毎日。困っている誰か全員を助けることはできない。

 しかし、できることは些少ながらあるのだというオルキデアの言葉が、滲むように身に染みてきた。

 柄にもないことをしてしまった。

 太陽がまぶしくて顔を上げると、冬の空がきらきらと晴れ渡っていた。



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