第三章 4
それは暮れも差し迫る頃のことであった。
ヘクターとオルキデアは小さな街に身を寄せて、年を越すことにした。
「この辺りじゃ、森に行って玄関口に吊るす杉の樹を探す。小さな枝を伐ってきて、それを吊るして新年を迎えるんだ」
「なぜそんなことをするのですか」
「魔を祓うからだとされている。森には魔物が出る。人は古くから魔を畏れ、祓ってきた。 杉は魔を祓い、清めると言われているからな」
「私のいた森には、そのような伝承はありませんでした。新年には、鈴を飾ってその音色で新しい年を祝いました」
「ところ変われば、だな」
砂漠では、どのような伝承があるのだろう。彼のいた砂漠では。ふとそんなことを思ったが、尋ねるのはやめておいた。なんだか、聞くのが憚られる気がした。
と、表が騒がしくなった。見ると、壮年の男と若者が言い争いをしているようである。 言い合いの声は次第に高くなり、大きくなって掴み合いにまで発展し、壮年の男が若者を突き飛ばすまでになった。
「なぜです。なぜ私をそこまで邪険にするのですか」
「なぜも是非もない。金のない男に娘をやるつもりはない」
「確かに私は金はない。しかし必ずいつか成功してみせます。そしてお嬢さんを」
「黙れ黙れ。エイミーは他の、もっと甲斐性のある男のもとへやると決めている。二度と娘に近づくな」
壮年の男は一方的に言うと、突き飛ばした若者を放っておいてそのままずんずんと立ち去ってしまった。若者はそこに座り込んだまま、茫然とそれを見送った。
オルキデアはそれを、唖然として見ている。
「よくあることさ」
ヘクターはつまらなさそうに言った。
「金のない男が、金持ちの娘と恋をした。父親がそれを気に入らなくて、二人の仲を引き裂いた。日常茶飯事だよ」
「そんなによくあることなのですか」
「よくあるってことでもないけど、珍しくもないさ」
さあもう寝よう、とヘクターに促されて、二階へ行く。オルキデアは若者から目を離すことができず、それに注意がいったまま、名残惜しそうに立ち上がった。
それは、食事の前に風呂屋へ行こうとした時のことであった。
角を曲がったところでなにやら思い詰めたように道のむこうを見ている男がいるので、オルキデアはそのあまりの様子に思わず立ち止まった。そして、彼女には珍しく声をかけたのである。
「あの……」
すると男は、オルキデアの金色がかった緑の瞳の色にぎょっとして顔を上げ、
「は、はい」
「どうか、なされたのですか」
「い、いえ、あの」
「なにか、お悩みでもあるのですか」
「おい、行こうぜ」
「でもヘクター」
「他人のことに首を突っ込むな」
「ですが、困っておられるようですし」
「やめろって」
ヘクターとオルキデアが言い合いをしていると、男は困ったようにそれを見て、
「あ、あの、喧嘩しないでください」
「あんたは黙ってろ。だいたい……」
「す、すみませんすみません」
男は平身低頭である。
「とにかく、お話を聞かせてください。なにか、力になれるかもしれません」
「あのなあ」
「いいのですか」
「構いません。いいでしょうヘクター」
男の顔が、少し晴れたものになった。よほど誰かに話を聞いてほしかったものと見える。 苦虫を噛み潰したような顔になるヘクター、満足げなオルキデア、顔色のよくなった男、三者三様の様子を経て、三人は近くの食堂へ移動した。
「私は、ゾーイといいます。商人の見習いをしています。街から街へ移動して、行商をするのが生業です。そのお客様の一つがアイビーという名前の家で、その家のお嬢様がとてもよくしてくださって、よく出入りする内にとても親密になっていったのです」
「ああ、あんたこの前親父さんと言い争いしてた男か」
ゾーイはうなづいた。
「エイミーとは、将来を誓い合った仲です。私はその内、自分の店を持つつもりでこつこつ金を貯めています。小さくてもしっかりとした、堅実な店をやっていくつもりで。でも彼女の父親はそれが気に入らないらしくて」
「当ててみせようか。親父さんはでっかい店の持ち主で、一代で店を大きくした成り上がりだ。誇りも高い。そんな男と娘を添い遂げさせるつもりはないんだろう」
「はい……」
しゅんとなってしまったゾーイを見て、オルキデアは彼が気の毒になった。
「ヘクター」
「そらきた。嫌だよ」
「なんとかしてあげてください」
「いやだってば」
「そんなこと言わずに」
「俺になにができるんだ。なにもできないだろ」
「考えてください」
「考えるのは苦手だ。だいたい、それはこの男がやることだろうが」
オルキデアはゾーイを見た。
「彼女は、家に閉じ込められています。とても高い場所で、石なんか投げられない、高い高い場所なんです。声も届かないから、夜内緒話もできないんです」
「文は届けられないのか」
「監視が行き届いていて、私からの連絡はいかないようになっています」
「うーん」
ヘクターは腕を組んだ。恋路を邪魔された恋人たちが一組。女は高い建物の上にいる。 監視がいて、付け文はできない。
「窓はあんのか」
「あります。彼女はいつもそこから外を眺めていて、私はその姿を見ることしかできないのです」
ヘクターはにやりと笑った。
「ヘクター?」
「閃いたぜ」
彼はそう言って、また荷物を顧みた。
「兄弟にもらった弓が、また役に立つ」
三日後、ゾーイはその窓の外に立って、娘が窓辺に来るのを待った。そして彼女がやって来ると、大きく手を振って注意を引いた。娘が彼に気がつくと、ヘクターが隣に立って弓を引いた。ゾーイは娘に手振りで退くように示した。
娘が窓から身を引くと、ヘクターは窓を狙って矢を放った。それは過たず窓のなかに入って、結ばれた文を娘に届けた。娘はそれを拾って広げ、中身を読んだ。
七日後、新月の夜に、計画は実行された。
年も明けた暗い暗いそのゆうべ、引き裂いた敷き布を伝って、窓から娘が下りてきたのである。
「エイミー?」
暗がりから、探すような声がした。
「ゾーイ?」
不安げな声がそれに応じる。物陰から人が出てきて、走り寄ってきた。
ゾーイが娘に抱きつくと、娘がそれに応じた。
「よかった……もう会えないかと思っていたわ」
「僕こそ、君はお父さんに従うかと思っていたよ」
「そんなことないわ。私、父よりあなたの方が大事。父も大事だけど、あなたも大事よ」
「ついてきてくれるかい」
「どこへでも行くわ」
二人は微笑み合った。
「おめでとうさん。街道を行くと捕まるから、南に行きな。そこからまっすぐ、裏道を目指すんだ。砂漠に行け。ヘクター・メディテラネの紹介だと言えば、商売もやりやすくなるよ。ただし、リンズって街には行くな。そこの大物と俺は、今まずいことになってる。 そこに行って俺の名前を出すと、ひどい目に遭うぜ」」
「なにからなにまで、ありがとうございます」
「ご恩は一生忘れません」
「忘れていいよ。行きな」
恋人たちが闇に消えていくのを、オルキデアは微笑んで見ていた。そしてその笑みを、彼女はまっすぐにヘクターに向けた。
「な、なんだよ」
「人が好いですね、ヘクター」
「またそれか」
「だって」
「だってもへったくれもねえ。それより、立ちっぱなしで身体が冷えた。風呂だ」
「まだ終わっていません」
「寒い寒い。温まろうぜ」
「誤魔化さないでください」
「うー今夜は冷えるなあ」
「待ってくださいヘクター」
また雪が降ってきたようである。




