ハスミちゃん
ヒクヒク、ヒクヒク、ヒクヒク、ヒクヒク、ヒクヒク…。
時刻は夕刻。日はまだ高い。掃除という名の遊び時間は終わっており、各自部活なり帰宅なりしている。人影なき教室の黒板の前で、少年は泣いている。彼は私の肩に腕を回し、もはや自分で立つこともままならない。その姿は、精悍な高校3年生とは思えない、あまりにも情けない、見るに堪えない姿であった。恐らくは、高校野球においてカメラマン達が思わず歓声を上げてしまうような、そういう佇まいである。ときは5月の中旬で、ちょうど一週間後、夏の地方予選の組み合わせ抽選会が開かれる予定であり、私はその場に主将として出席するのだが、同じ野球部、かつ同じクラスの彼がこれほどに大泣きしているときに、のんきにキャッチボールやらバッティング練習やらしていられないと思い、いてもたってもいられずに野球部の練習を休み、こうして彼の右腕を預かっている。
彼がなぜこれほど大泣きしているのか。その慟哭の訳を聞けば、大人達はそんなことかと笑い飛ばし、彼と同じくらいの少年少女からは同情と羨望と嫉妬を買い、じじばばにとっては風同然で聞こえやしないだろう。すなわち、彼はフラれたのである。それは彼の高校生活史上最大の失敗であった。もしこれに成功していたならば、例えば彼が人生で一回もヒットを打っておらず三振ばかりしていることなど、彼にとって大したことではなくなるし、また周りの者も、誰もそれを揶揄したり、いじめの口実にすることはなくなるだろう。この重大事の成功は、彼の情けない高校生活が丸々肯定され、Aに殴られたことや、Bにパンツを下されたこと諸々云々のすべてが背景と化しさわやかな思い出話に変わることを意味した。もしこの世界に神様がいるとすれば、このチャンスはまさしく神の思し召しであったに違いない。しかし、その神の思し召しを悪魔―ハスミちゃん―はいとも容易く「ヤダ」の二文字で葬り去ってしまった。いつでも、神様はロマンを語り、悪魔はロマンを悪用する。悪魔は少年のロマンを瞬殺し、ロマンと引き換えに毒を盛った。そして彼は今、涙を止められない病にかかった。
果たして、これは失敗という名前で呼んでいい出来事か。否、全く否。これは策略である。悪魔にハメられたのである。彼は昨日、私にこう申していた。
「あのさ」
「なんだ」
「いや、えーと」
「なんだ、気持ち悪い。良いことでもあったのか」
「まあ、そんなとこかな」
「ほんとか、お前。なんだ、好きな人でもできたか」
「いや、好きな人ができたというか、あっちが僕のことを好きっていうか。」
「はは、気持ち悪い。お前のことを好きになるやつがあるか。せめて一回くらいヒットを打ってから言え、そんなことは。」
「いや、ホントなんだよ、ホント。最近、妙にハスミちゃんが僕の方を見てくるんだ。教室にいるときもよく目が合うし、外で体育しているときも、キャッチボールしているときも、遠くから彼女の視線を嫌でも感じるんだ。ホントだよ、ホント。」
「なんだ、そんなことか。ここは君の名誉のためにも言っておいたほうが良いと思うが、誰かが君を見ていたというのは、だいたい勘違いで、真実はむしろ逆さ。君がハスミちゃんのことを目で追いかけてるんだよ。」
「いや、僕も視線の話だけだったら、君に話そうとは一厘も思わないよ。もっと重大な証拠があるんだよ」
「はて」
「実は昨日、偶然ハスミちゃんと一緒に下校したんだ。ほら、部室にグローブ忘れて僕一人で取りに帰っただろ。ハスミちゃんも偶然、夜まで学校に残る用事があったみたいで、正門でばたりと会って。それで一緒に帰ったんだけど、途中あまりにも沈黙が続いて、耐えられなくなって、いざ夜の田舎道を走って逃げようとしたその時!彼女は僕にこう問いかけたんだ。『鈴木君、鈴木君って、好きな人いたりするの?』って」
彼と悪魔の会話はおおむね以下の通りだったそうな。
「鈴木君、鈴木君って、好きな人いたりするの?」
「え、あぁ、いやぁ」
「私ね、いないの」
「へぇっ」
「ねぇ、聞こえた?」
「あぁ、うん。そうなんだぁ、はは」
「なにー?なんか変?」
「いやいや、そういうことじゃなくて…。その…いないんだ」
「そう、いないの」
おおむね以上のような話をしたという(彼がその他興味のない会話の一切を海馬から抜き取ったことは大いに考えられる)。
この会話内容を聞いて、読者はどう思われるであろうか?確かに脈のありそうな気もする。自分には好きな人がいないとわざわざ彼に言ったのは、すなわち自分のことを好きになっても良いんだよの裏返しであり、すなわち彼が彼女を好きになっても彼女は決して嫌がりはしないよとの宣言に等しい。即ちこれ真なり。あれ、真なり?否否。真実はむしろ逆である。そんな好都合が男女関係に通ずるはずはない。僕たちが甲子園に出てしまうより好都合だ。こんな甘美な会話が成立するのはどこぞの青春ハーレムアニメくらいで、現実に起こることは一厘もないと言ってよいかもしれず、現実に起こったならば、それを額面通りに受け取ってはならないというのが男女の常識だ。しかしこの話を彼から聞いたちょうどその前日に、私はいやしくもそのような青春ハーレムアニメを夜な夜な見ていたのだった。結果、私の現実の半分程度はその青春ハーレムアニメに侵されており、彼の話を聞いてるうちに今歩いている道―彼と悪魔が一緒に帰った道―が、タカシがハルカに告白された散歩道にしか見えなくなり、私本来の冷静な判断力は影を潜めたのである。そのようなわけで、私は彼にこう言って返した。
「お前さん、それを先に言いなされ。私好きな人いなんです、って言われたんだろ。それはもう、私のこと好きになって、以外の意味は考えられないよ。これは確実だ。ハスミちゃんは確実にお前のことが好きだ。あとは伝えるのみ。戦は早く済ませるほうが良い。早速明日、告白してしまおうじゃないか。」
彼は、現実と妄想の区別がついていない私の助言を、噛みしめるようにして飲み込み、
「戦は早く、良い言葉だ」と呟いた。
そして今日、彼は無残にも散った。果報は寝て待て、という先人の言い伝えは的を射ていたんだなぁと、彼の泣く姿を見ながら思った。彼にはひどいことをした。私が一昨日、青春ハーレムアニメなど夜な夜な見て、タカシとハルカの恋などに思い煩わせていなければ、彼はここまで無残に散ることはなかったであろう。恋の三日天下とはこのことか(三日天下にしたのは無論私である)。しかし、しかし、おこったことは仕方ない、仕方ないのだ。この失敗の一因は私にあるのだから、あとでアイスでも奢ろうか。明後日はもう抽選会か…。
かの悪魔が私たちの目の前にいつの間にか現れていたのは、私が先のような事柄を回想、処理し、いつも通りの来る未来を見据え始めたときであった。
「ねぇ、何泣いてんのよ。」
悪魔は、私の方は見ず、泣いている彼に向って低い声で言った。
彼は相変わらずヒクヒクと泣いている。
「まさか、私がフッたから泣いてるなんて、言わないよねぇ?」
ヒクヒク、ヒクヒク。
「ねぇ、聞いてるんだけど。聞こえてるでしょ?」
私は激怒した。こんな屈辱があって良いはずはない。私は彼の御心の預言者として言った。
「おい、ハスミちゃん。今回の告白が彼にとって一世一代のチャンスだったことが分からないのか?これに成功すれば、彼の人生は一発逆転、真っ逆さまにひっくり返っていたんだぞ。」
「ねぇ、そんなこと私に関係ないじゃない。何、告白に失敗したのは私のせいです、とか言いたいの?」
「全くその通り、ハスミちゃんのせいだ。お前は彼のことを誘惑し、その気にさせておきながら、彼の勇気の告白を「ヤダ」の二文字で一蹴した。ハスミちゃんが全部悪い。」
「彼のことをその気にさせたとか、そんなこと関係ないわ。泣いているのは彼。私じゃない。彼が泣いているのは彼のせいに決まっているのよ。」
「好きじゃないのなら、なぜ彼を誘惑した?」
「知らないわよ、そんなこと。」
「気分で誘惑するなんて、ひどいじゃないか」
「気分で誘惑したらひどいんですか?私はそんな風には思わないわ。実際、彼に限らず、私がその気にさせた男は皆嬉しそうにしてたわ。まあ彼ほどのありさまは見たことがないけれど。ほっほほほ。」
「何、ハスミちゃんは彼以外も誘惑してたのか」
「そうよ、そうだわよ。このクラスのほとんどの男子はその気にさせたし、皆見事に引っかかって、彼と同じ道をたどったわ。ほっほほほ。」
彼女はそれまでの口調と変わらずに言ったが、翻って私はと言えば、ずっと感じていた右肩の重みがいつの間にか消え、代わりにこの教室全体からの見えない圧力がのしかかってくる。私はなけなしの勇気を振り絞る。
「ほとんどの男子とは、だいたい何人のことを言っている!」
「知らないわよ。」
「何人だ!」
「だから知らないわよ!まぁ15人くらいじゃないかしら?」
クラスの男子の人数は16人である。
「どういう風に!」
「そんな事も知りたいの?別に良いけどね。まぁ、今回みたく一緒に帰ったり、いきなり腕組んでやったり、逆壁ドン?してやったり、もっとすごいので言うとねぇ、あ、本当は彼にもやろうと思ってたんだけどね、…り、…り、あとはねぇ、…もしちゃったりね、ほーーほほほほほほほほー。」
聞くに堪えない、実に堪えない。悪魔の仕打ちはひどいものだ。隣で彼のすすり泣きがかすかに聞こえる。しかし、今泣くべきは、恐らく私の方である。私の方がひどい仕打ちを受けていたのである。しかし、泣くにも泣けない。僕は、彼と、彼女しか見ていない小さな世界においても、恥をさらして泣き叫ぶことのできない自分が情けなかった。こんな時でも、見てくれを意識してしまう。青春ハーレムアニメにどっぷりつかっているようでいて、実際はそんなことはなかったのだ。私は、今すぐにでも自分の脳をぶん殴りたくなった。彼を守るよりも先に、自分の尊厳を守らねばならない。想定外の展開。想定外の逆襲。想定外の動悸。クソ、クソ、クソ…。
「ねぇ、これってそんなに悪いこと?もうそろそろ泣き止んでよ。私イライラしてきたわ。彼の鼻を回し蹴りで鎮めたいくらい。」
悪いことだ、悪いことに決まっている!私以外のクラスの男子全員を誘惑するなんて!
私は彼女と一緒に帰ったことは愚か、一瞥の視線も感じたことはない。悪魔の餌食にすらならないことが、これほどの屈辱だとは!いじめもろくにされたことがない私は、そのような周りの非干渉をある種誇りに思っていたが、今ようやく目が覚めた!私は、あの悪魔を許してはならぬ!彼が彼女を許さない以上に、許してはならぬ!
ふと横を見ると、彼の涙の病は完治した。その目は生気を取り戻し、野望に満ちていた。彼女への攻撃性を秘め、拳が強く握られていた。
私は決意した。彼女が彼に回し蹴りをかますよりも先に、そして彼が彼女にストレートパンチを食らわせるよりも先に、私が彼女にドロップキックをお見舞いすることを。明日の練習試合よりも、まずは目の前の悪魔を粉砕せねばならぬ。誉高きこの私のために!
私は意を決し、関節という関節を曲げ、己の全体重を足の一点に乗せて大地を蹴り上げた。その一瞬の間に、彼女も私と彼に背を向けて、右足を振り上げているのが見えた。ずっと背中に感じていた彼の右手はいつの間に消え、彼が弓を目一杯引くように、右腕を振り上げているのを横目で確認した。
彼の迷いなきストレートパンチが、背中を再び我らの方に捻り返す彼女の肩口にヒットする。そのパンチは、彼女の回転軸をよろめかせ、頭の位置をずらすには十分だったが、倒すまではいかなかった。あるいは、彼女はそのパンチを予期しており、甘んじて受けたという程度のことかもしれない。いずれにしても、彼女の回し蹴りは頭の位置を変化させながらも続いていた。私はといえば、すでに跳んでしまっており、彼女の頭部の位置の変化に対応できず、誰もいない虚空に向かって両足を突き出している。体を宙に浮かせながら、蹴る方向を変えようと一瞬私の両足が、彼女の顔をすり抜けたのが見えた。勢い飛び込んだ私は、もはや頭が床にたたきつけられるのみか。ああ、無念。
思えば、私の方こそ、価値のない人生だったのかもしれない。彼は、多くの人に傷つけられて生きてきた。恥を顧みず泣きむせぶほどに。彼女は、多くの人を傷つけて生きてきた。悪魔と評されることも意に介さずに。私は、そのいずれでもない。私も多くの人を傷つけ、また傷つけられてきただろうが、その代償を払うことを忘れていた。というより、逃げていた。私は、三振をしない代わりに、セーフティーバントで卑しく生還することを喜ぶ、そういう男なのだった。その真の代償を、これまでの人生の不誠実に対する代償を負うのが、今なのかもしれぬ。彼、彼女によって目覚め、目覚めたことによって、これまで目覚めていなかったことに対する罰を受ける。振り返れば、私が一昨日、青春ハーレムアニメを夜な夜な見ていなければ、このような罰を受けなかったのかもしれない。ああ、無念。
体が浮くなどという生まれて初めての経験にたじろぎ、驚きのあまり上記のような回想が一瞬にして駆け巡り、「ああ、無念」と再度心の中で漏らしたその時、背中をハンマーで殴られたような鈍痛が走った。そのまま汚れた床にソフトランディング。
ふと横を見ると、彼は唖然として一人で突っ立っていた。体に蹴られた跡はなかった。見上げると、私と汚れた床の間の右足を抜き取り、見とれるような笑顔を私に振りまく彼女がいた。背中の鈍い痛みは強烈で、生まれて初めて、心臓に刺さった。呼吸ができない。息を吸おうとするとうめき声が鳴る。ヒクヒク、ヒクヒク。痛みは消えない。
気がつけば、日は沈み月が出始めていた。
「貴様ら!!こんな大事な時に、ハスミと何をしている!!」
丁度やってきた、クラスの担任且つ野球部の顧問は私と彼の頬をひっぱたき、彼女とともに夜の教室を抜け駆けていく。彼女の背中は、やはり悪魔のそれに見えた。
力の入らない関節たちを奮い立たせ、何とか立ち上がると、教卓の上に蓮の花が一輪置いてあった。悪魔の甲高い笑い声が聞こえた。ほっほほほ、ほっほほほ。