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冬の海



「俺と結婚してくれないか?」


 顔を真っ赤にして言われたプロポーズの言葉。

 人生の一大イベントだというのに、私は驚かなかった。

 行ったことのない高級なレストランと、緊張でガチガチになった彼の様子。

 付き合って半年という時間もあるからだろう。

 会った瞬間、何となく雰囲気で察していた。

 

 返事をしない私に、彼が不安そうな目を向ける。

(嬉しいよ。ちゃんと嬉しい。けど……)

 私は少しだけ眉を下げて、微笑む。


「返事をする前に、お願いしたいことがあるの」

 彼が真剣な目で、「何?」と問う。


(ああ、頭がおかしいと思われるかも……でも……)

 私は震える唇で言葉を紡いだ。



「夕方の海辺を一緒に歩いて欲しいの」


 

***



 翌日の夕方、彼の車で海を目指す。

 二人の間に会話はなく、彼が好きな音楽が車中の沈黙を埋めていた。

 

 出発してから二十分で車は近くの海辺へ到着した。

 車から降りれば、冷たく強い風が髪を揺らす。 


 潮の匂いと、波のさざめく音。

 大きな夕日と、見渡す限りの広い海。


(ああ、この景色だ……)

 私は目に涙を滲ませる。


「ねえ、どうして、海に行きたいなんて言い出したんだ? 今は冬じゃないか」

 風の冷たさに、彼が寒そうに腕を組んで肩を震わせた。

 私は、彼に向かって微笑む。


「冬だからよ。冬の海じゃなきゃ駄目なの」

「どうして?」

 彼が困惑したような表情を浮かべた。


 私は目を伏せ、彼に背を向けて砂浜を歩き出す。

 靴が砂に埋まり、足跡を残す。

 私は彼を振り返った。


「一緒に歩いてくれたら、教えるよ」

 彼は困惑したまま、歩き出す。私より大きい彼の足跡が砂浜に描かれた。

 並んだ二つの足跡。それが嬉しい。


「……私ね。一年前、人生で一番辛いんじゃないかっていう時期だったの。何やっても駄目だった。仕事も、恋も、友だちや両親との関係も、頑張っても頑張ってもうまくいかなかった」


 仕事で、頑張って時間をかけて自分が作ったものを同僚に奪われてしまった。同僚の手柄になり、私が作ったものは私の手から離れた。頑張ってもいつも評価されない。ミスを押し付けられ、貧乏くじばかり引かされる。

 恋人も、私より違う子を選んだ。浮気をしたことを責めれば、「お前に魅力がないのが悪い」と私を責めて嘲った。

 友人とも勘違いからすれ違って不仲になって、連絡が取れなくなった。共通の友人に有りもしない悪口を言いふらされて私は孤立した。

 両親は従姉妹は結婚して子供もいるのにと、結婚していない私と従姉妹と比べて責めた。


 色々なことが一気に押し寄せて、私の精神状態はめちゃくちゃだった。

 頑張ってきた全てを否定されたようで、どう生きれば良いのか分からなかった。

 出口の見えない迷路に閉じ込められたようで、息苦しくて、怖くて、不安で……こんなに辛いなら、もう終わりにしてしまいたいと思った。


「どこまでも寂しく、誰もいない冬の海を私は一人きりで歩いた」


 私は目を閉じる。

 一年前、私はこの海辺にきていた。

 コートを適当に羽織って、財布だけを持って訪れた。


 今日で、終わりにしようと思った。

 何一つうまくできない自分が情けなくて。

 周りが上手に生きているのに、どうして私は下手くそな生き方しかできないのだろう。

 

 歩いてきた道。振り返れば、足跡は一つだけ。

 私は、一人だ。


 迷子の子供のように不安でクシャクシャに歪めた顔を上げる。


「その時に見た夕日がとても綺麗だったの」


 冬の海。誰もいない、冷たい風の吹き付ける中。広大な海に沈みゆく夕日が、橙色に染まった空が、とても美しかったのを、今でも覚えている。

 圧倒されるようで、けれど、包み込むような優しさがあった。



 振り返ると、彼が真っ直ぐな目で私を見つめて立ち尽くしていた。


「私、思ったの。もし、私が生きて、この冬の夕方の海辺を一緒に歩いてくれる”誰か”がいてくれるのなら」


 震える唇。涙で滲む視界。


「私の人生、全て報われるんじゃないかって……」


 辛いことも、一人だと嘆いたことも。足跡が一つではなく、二つなら。隣で一緒に歩いてくれる誰かが居てくれたのなら、それだけで……。


 二人の間に、少しだけの距離。


 立ち止まったままの彼に、私は眉を下げて笑いかける。

「なーんて。ただの感傷なんだけどね……」

 誤魔化すような笑みと言葉。

 

(そう。これはただの感傷。意味不明だと思われているだろうな……。何を言っているんだよって笑われるだろうな……)

 

 私は、怖かった。

 人との関係で裏切られて、傷つけられて、ボロボロになった過去が、私の心を凍らせる。

 もし、勇気を振り絞って打ち明けた私の想いを、大切な彼に否定されてしまったらと考えると、とてつもなく怖い。

 

 顔を俯かせた私の視界に、彼の靴の爪先が映る。いつの間にか、近くまで来ていたらしい。


「でも、それが君の大切な感情なんだろう?」

 彼の言葉に、私は驚いて顔をあげる。


「君が大切にしているものを俺も大切にしたい。君が望むのなら、何度だって、一緒に冬の海辺を歩くよ。君の隣で」


 彼は私の手を掴み、真っ直ぐに私を見つめた。


「俺と一緒に、人生を歩いてくれませんか?」


 私の目から涙が零れ落ちる。

 顔を覆って嗚咽を漏らす私を、彼が抱きしめてくれた。

 


 人生は辛くて悲しくて投げ出したくなるようなことがある。

 自分の人生は報われないのだと絶望することだってある。

 けど、その全てが報われたと思えるような、そんな幸せだってあると信じたい。


 あの日、泣きながら生きることを選んだ私が作ってくれた未来を、手にした今この時のように。


 誰か一緒に見る冬の海は、どこまでも優しくて温かく感じた。




読んでいただき、ありがとうございます。

他にも短編や連載小説を投稿しています。読んでいただけたら、幸いです。

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