第29話 最善の未来
床次さん達はずっと、宮納さんや大塚さんのスマホを探していた。
今回『ラビット』のサーバーを手に入れて強制的にアプリのアンインストールを行えるようになったため見逃したのだろう。
しかし、宮納さんと大塚さんのスマホはGPSで特定されないように隔離してある。ネットワークを使った『ラビット』の強制アンインストールを免れているはずだ。
「いまでも過去に戻れる……」
「全員がチェシャ猫の危険性を理解したうえで過去に戻る方法は見つかったみたいだね」
海空姉さんは暢気にお茶に息を吹きかけて冷ましつつ、ちらりと俺を見る。
「巴の言う明華さんと春さんがいつ一般人に戻るか分からないね」
「それもあるけど、確認しておきたいことがあるんだよ。海空姉さんは何時頃までの記憶がある?」
海空姉さんは俺の質問に、パソコン画面のカレンダーを表示させる。
「四月十三日、巴が高校二年になった日だね。『ラビット』そのものは四月三日に完成しているけど」
テスターを募集して配る時間があったくらいだから、あの始業式よりも前に出来上がっていたとは思っていたけど、十日も前だったのか。
「前ボクは四月十三日に戻ったことがあるようだね。でも、それがどうかしたのかい?」
「今年の夏の事件で、決定打になった『ラビット』の登録台詞があるんだ。それは、四月三日に登録されていたらしい」
海空姉さんの記憶は四月十三日まで残っている。登録日の四月三日時点に戻ったことがあるのならば、記憶の最後は四月三日のはずだ。
海空姉さんはあの夏の事件の詳細を知らないと話していた。何故、『ラビット』に台詞が登録されていたのか不思議で仕方がなかったが、いくつかの仮説ができる。
「一つ目は、登録台詞が四月十三日に設定されていたという仮説。つまり、『ラビット』が話した四月三日に登録という部分が嘘」
「嘘をつく意味があるのかい?」
「ないね。だから、この仮説は捨てる」
一番簡素な仮説だが、状況にそぐわないし。
「二つ目は、海空姉さんが四月三日に戻って台詞を登録し、チェシャ猫で記憶を消されて一般人になり、十三日にまた未来人になったというもの」
だが、これも成り立たない。
「海空姉さんが台詞を登録するには、俺から事件の詳細を聞き出さないといけない。それをした時点でチェシャ猫で記憶が飛ぶから、これは成り立たない」
「または、いまのボクが情報を聞き出して過去に戻るってこともできるね」
「そうだね。最後の仮説は、俺が四月三日に戻り、セリフを登録した直後にチェシャ猫で記憶を失った」
俺が未来人の存在を知ったのは四月十三日だ。それ以前の俺は未来人を知らなかったため、チェシャ猫の影響を受けてしまう。つまり、他の未来人と同様に記憶を失うリスクがある。
「……巴、四月三日の記憶はあるのかい?」
「春休みだよ? 自分の家か本家でゴロゴロしていたはずだ。何をしていたかって記憶がない」
俺の答えを予想していたのか、海空姉さんは「そうか」と呟く。
海空姉さんの感覚では十日前だ。俺よりもずっと鮮明に記憶が残っているらしく、俺を見つめて海空姉さんは続けた。
「巴は四月三日にボクの部屋を訪ねているよ」
「やっぱりか」
「もっと言うと、ボクが部屋を出ていた間にクッションを枕に寝ていた」
記憶がないが、言われてみれば確かに本家で寝ていた気もする。
「俺って、あんまりクッションを枕にしないよね?」
「ボクもその時は珍しいと思ったよ。ゲーム三昧で寝落ちしない限り、巴はこの部屋で寝ないからね」
四月三日に戻ってきた俺は『ラビット』に台詞を登録後、この部屋でチェシャ猫に襲われて昏倒したってことか。
「でも、なんでチェシャ猫に襲われたんだろう?」
「もう一つ、疑問があるね」
海空姉さんが人差し指を立てて、続ける。
「どうやって、四月三日に戻った?」
「それは宮納さんや大塚さんのスマホ……だと無理か」
四月三日は『ラビット』の完成日。
過去に戻るには、アプリを操作して過去のデータを呼び出すロールバックをしなくてはならない。
つまり、スマホでは『ラビット』をインストールしたその直後までしか戻れないのだ。
「サーバーを使って戻ってる?」
今からでも可能な方法だ。宮納さんや大塚さんのスマホで昨日に飛び、本家にまだ残されているサーバーで四月三日に飛べばいい。
だが、過去の俺がチェシャ猫に襲われた形跡がある以上、少なくとももう一人、サーバーを使って過去に飛んだ人物がいる。
その相手は、俺にチェシャ猫をけしかけるような人物。
「床次さんたちが四月三日に戻っている……?」
「しかも、巴と相打ちになったんだろうね。だからこそ、今日まで接触がなかったんだ」
当日分の記憶が綺麗になくなったから、俺と同様に違和感なく日常に戻ってしまったのか。
「ボクは一年の空白があるけど日常に戻れるよ」
「床次さんたちは引きこもりじゃないよ」
引きこもりでも、一年分の記憶が消えても平然としている海空姉さんが凄すぎる。
海空姉さんはむっとした顔で俺を睨む。
「言っておくけどね。ボクは巴がいるから深刻にならないんだからね?」
「交渉が失敗していたら俺は死んでたと思うけど、そうなったらどうしてた?」
「そうだね。巴を殺した輩を探し出すことに全力を尽くして、経済的に締め上げて、そいつの周囲の人間を破滅させていって、絶望するそいつに笑顔で味方の振りをしながら近づいて――」
「ストップ、ストップ!」
怖いわ!
海空姉さんの闇がこれ以上深まらない内に話題を戻す。
「床次さん達が過去に戻った目的は、『ラビット』を拡散される前にサーバーを奪取するためかな」
サーバーごと『ラビット』を奪えば、誰にもタイムマシンの存在を知られることなく国が占有する世界線が誕生する。
この世界線にいる限りは関係がない。
だけど、過去に戻ってテスター募集を止めて全員が記憶を有した状態でクリスマスを超えて年越しする最高の未来を手にするなら、戦う以外の道がない。
「巴、ひとつ言っておきたい」
海空姉さんが改まって俺をまっすぐに見据え、続けた。
「おそらくこの世界線から続く未来は悪いものではないはずだ。明華さんと春さんとやらは生きていて、記憶も保持したままだ。巴も同様だし、ボクだって記憶は失っているものの死んではいない。このまま『ラビット』を忘れて日常に戻る選択も可能だ。よく考えた方がいい」
確かに、この先の未来は海空姉さんが交渉して記憶を犠牲に導き出した、最善の未来だ。
もしも過去に戻り、床次さんと対決して負けたなら、またはこの世界線での過去のように相打ちになったなら、ずっと悲惨なことになる。
「俺は……」
俺はどうしたい?
俺一人の命をかけるだけなら、こんなに悩むことはない。
だが、おそらくこの世界線での過去の俺は、一人で戻って来て、相打ちになっている。
そもそも、最高の未来を手に入れるには全員で過去に戻らなくてはならない。
俺以外にも、明華と春、海空姉さんの命が掛け金になってしまう。
海空姉さんが交渉の末に手に入れた、全員生存のこの世界線から、また命懸けで最高の未来を目指すのか?
俺一人で決められることじゃない。
その時、俺のスマホにメール着信が入った。
一瞬、床次さん達に動きが気取られたのかと焦ったが、画面に表示された名前を見て安堵する。
「明華か……」
メールには、いまから会いたいと書かれていた。




