第14話 スケープゴート
テニスクラブに到着すると、海空姉さんと迅堂が嬉しそうに席を立った。
「先輩!」
「巴!」
駆け寄ってくる二人が未来人暴露をする前に、俺は口を開く。
「二人とも、お昼は食べた?」
とりあえず、落ち着いてくれ。
借りてきた猫みたいに静かな笹篠が俺の右腕を掴んで離さないので、そのまま併設のカフェに四人で向かう。
笹篠の状態を見ても、誰も原因を尋ねようとしないのが印象的だった。
人気のないカフェの隅のテーブルに座り、コーヒーとサンドイッチを全員で頼んで一息つく。
笹篠は相変わらずで、ぐすぐす言っている。気を利かせた迅堂が濡らしたハンカチを持ってきた。
「これは、テニスの練習どころではなさそうだね」
海空姉さんが苦笑する。
俺も同感だ。
「俺がトラックに轢かれそうになって、驚かせちゃったみたいでさ。とりあえず、落ち着くまで待ってくれ」
「あぁ、そうしよう」
海空姉さんはお手伝いさんの一人を呼んで、もう一台の車を回してもらえるよう手配する。笹篠たちを送っていくためだろう。
濡らしたハンカチを眼から離した笹篠がようやく口を開く。
「心配かけちゃったわね。もう大丈夫よ。迅堂さん、ハンカチは洗って明日返すわ」
「明日は元気な先輩でいてくださいよ。調子狂っちゃいますし」
「生意気ね。でも、ありがとう」
泣いてエネルギーを使ったのもあってか、笹篠はサンドイッチを一つ取ると食べ始める。
ひとまず笹篠は元気を取り戻しつつあるようだ。
迅堂が俺を見る。
「トラックに轢かれそうになったんですよね。どこで?」
「コンビニ近くの歩道橋の脇、横道に入るところだ」
方向を指さすと、迅堂は「あそこかぁ」と小さく呟く。
俺と笹篠のトラック事故を回避する、いわば正解ルートだ。迅堂もどこか感慨深そうだった。
「ただ、トラックは走り去ったし、ナンバープレートには泥が跳ねていて何もわからなかった」
未来の記憶は話せないため、言葉を選びながら情報を共有する。
海空姉さんが目を細めた。
「泥跳ね?」
「そう、ご丁寧にたっぷりと」
「……そうか」
海空姉さんは笹篠と迅堂を気にしてそれ以上は話さず、コーヒーに口を付ける。
海空姉さんのことだ。泥跳ねの情報があれば、事故ではなく事件だと推測するはず。
ちょうどその時、お手伝いさんの一人がテーブルにやってきて海空姉さんに報告する。
「お嬢様、お車を回しました」
「ありがとう。彼女たちを送って欲しい。私は巴と本家に戻る」
「かしこまりました」
笹篠が俺の腕を掴んでくる。
「白杉、今日はもう家を出ちゃだめだからね。念のため――」
「安心しなよ。外に出たくても海空姉さんがゲームに付き合わせて放してくれないからさ」
「それなら、いいんだけど」
笹篠は渋々折れて、手を引っ込めた。
過保護になってる。
残りのサンドイッチを四人で平らげ、席を立つ。
テニスクラブの外に出ると、入り口にお手伝いさんが運転する車が二台、停まっていた。
「笹篠さんと迅堂さんは前の車に乗っておくれ。住所については伝えてある。今日は帰ってゆっくりするといい」
海空姉さんが笹篠たちの背中を押して車に乗せ、扉を閉める。
心配そうに見てくる笹篠たちに手を振って、俺は海空姉さんと共にもう一台の車に乗り込んだ。
滑らかに動き出した車の中で、俺は何度かバックミラー越しに後方を確認する。
海空姉さんが横で悠々とスマホを弄っているから、ひとまず安全だとは思うのだがやはり落ち着かない。
「巴、今日は我が家に泊まるように。白杉の家にはボクから連絡しておいた」
「分かった」
俺は二つ返事で頷く。
俺の命が狙われている可能性がある以上、当然の処置だろう。
運転席のお手伝いさんが海空姉さんをちらりと見る。
「お嬢様、今夜は親族会議です」
「分かっているよ。巴にも出席してもらう」
「巴様を? 服はいかがいたしましょう?」
「白杉の家に連絡したから、後で受け取ってきて」
「かしこまりました」
海空姉さんが俺を見る。
「詳しい話は部屋でしよう。ボクも少々混乱しているからね」
「俺も、状況を整理しておくよ」
狙われる心当たりとか、ね。
何事もなく松瀬本家の門をくぐれた時は少し拍子抜けして、ため息がこぼれた。
隣の席で海空姉さんが小さく笑う。
「こんなに緊張している巴の姿を見たのは久しぶりだね」
「仕方がないだろ」
車を降りて家の中に入る。いつもよりお手伝いさんが多い。親戚が数人、慌ただしく動いていた。親族会議の準備中だからだろう。
「お嬢様、おかえりなさいませ」
「ただいま。巴と部屋にこもる。誰も近付けないでね」
「かしこまりました」
海空姉さんに連れられて本家の奥にある海空姉さんの部屋へと向かう。
庭の遅咲きの梅がすっかり散って、緑の葉が青々と茂っていた。
「……さて、巴、シュレーディンガーのチェシャ猫を覚えているね?」
部屋に入るなり、海空姉さんは開口一番そういった。
「覚えてるよ。理解しきっているとはいいがたいけど。未来人の前で未来人の話をしてはならないって禁止事項として覚えてる」
「その認識で正しいよ」
海空姉さんはベッドに座り込んでアルカイックスマイルを浮かべた。
「正確には、情報の齟齬を起こさないことが重要になる。未来人のボクが現代人の巴と未来の話をしても大丈夫なのは、巴がボクの観測した通りの現代人だからだ。逆に、この瞬間に未来から来た巴が自分は未来人であると表明してしまえば、ボクの経験した過去の経験と矛盾してしまい、ボクの未来の記憶と人格が吹き飛ぶ」
海空姉さんの説明を聞き、俺もアルカイックスマイルを浮かべる。
「質問、未来人、例えば海空姉さんの手で、俺が海空姉さんと一緒に過去へ来た場合、海空姉さんに対して俺も未来人だと表明したらどうなる?」
海空姉さんが我が意を得たりとばかりに笑みを深めてくすくす笑う。
「解、シュレーディンガーのチェシャ猫が発動し、ボクは未来の記憶と人格を失うが、巴は無事だよ。巴は過去でボクが未来人だと観測済みだからね」
「それじゃあ、もう一つ質問したい。海空姉さん、どうやって未来から過去に戻ってきたの?」
「いい質問だね」
海空姉さんはベッドの上で脚を組み、パソコンを見た。
「タイムリープの方法だけど、実を言うと偶然の発明だよ。理論的なものはボクにもさっぱりなんだ。よくわからないけど、使える。それも、おそらくは誰にでもね」
「麻酔みたいなものか」
なぜそれが起こるのかは分からないけれど、有用なら使うことを厭わない。
海空姉さんにとっては、俺の死の運命を回避するという目的を叶えられるのならそれでよかったんだろう。
「具体的な手順を教えておこうか。使用するのは『ラビット』が入ったスマホだ」
俺はスマホを入れたポケットを上から押さえる。
過去に戻る直前に聞いた『ラビット』の音声を思い出す。
『――ロールバックを行います』
あれはやはり、『ラビット』が何かをしたのだろう。
いや、『ラビット』というより、それを遠隔で操作した人物。
俺は海空姉さんを見る。
海空姉さんは肩をすくめた。
「そんなに熱い視線を注がれると恥ずかしくなってしまうよ。ボクは巴の頼れるお姉さんだけど教えるにしたって順序ってものがあるんだ。慌てちゃだめさ」
海空姉さんはアルカイックスマイルで続ける。
「具体的な手順は、ユーザー手動でラビットのアプリ内時間を飛びたい過去の時間に戻し、過去会話データを読みこむために更新を行うというもの。いわば、ロールバックだね。この操作をすることで『ラビット』がロールバックを行います、と発言するようにも設定してあるよ」
海空姉さんは遠い過去を懐かしむように目を細めた。
「ボクがタイムリープした時もこの方法だった。死んでしまった巴との会話を保存しておきたくてね。ラビットの更新を受け付けないように設定、アプリ内時間を戻すことで新規の会話に上書きされないようにしたんだ」
「会話、ね?」
「会話、さ」
「今日、ソノさんが『ラビット』と話をしてたんだ」
「ふふっ、巴の『ラビット』は特別仕様なんだ。ボクがスマホで何時でも話しかけられるおまけつきなんだよ」
謎が解けて、俺はため息をつく。
やっぱりそうか。
あの意味深な発言もロールバックも会話BOTアプリ『ラビット』ではなく、それを裏で操作していた海空姉さんのものだ。
理由は単純明快。死の運命を回避するため、俺自身が情報を持った状態で過去に飛ばしたかったから。
「回りくどいなぁ。最初から言っておいてほしかった」
「ごめんね。巴を驚かしたかったというのも本当だけど、大きな理由は保身のためさ」
「保身?」
「そう。『ラビット』の中身がボクだと分からなければ、巴のスマホが何者かに奪われて、その何者かが過去に戻ったとしても、ボクがそれを指摘して一方的に『シュレーディンガーのチェシャ猫』を発動できる。ボクは何者かが未来人だと観測できるけど、何者かは『ラビット』を操作する正体不明の誰かが未来人であることまでしか観測できない」
「隠れ蓑ってことね」
俺がトラック事故などで死亡するのを幾度となく観測してきた海空姉さんが、犯人を想定して行動した結果がこの回りくどい状況か。
「なら、俺は今後も『ラビット』を操作する誰かについては秘密にしておくべきってことか?」
「そうとも。それから、これはあくまでも仮説だけど、覚えておいて欲しい。事実として、『ラビット』のテスターは巴を除いて十人いる。つまり、未来人もまた、十人までは存在しうる」
聞き捨てならない情報なんだけど。
……『ラビット』を持っていることが未来人の条件の一つ。
他に過去に戻る方法がないとも限らないけど、現状ではほかにない。
つまり、笹篠や迅堂も『ラビット』を持っているのか?
あの二人がテスターだとして、こんなに身近にテスターがいるか?
作為を感じる。
具体的には、目の前で意味深に笑っている海空姉さんの作為を感じる。
まさにチェシャ猫。
俺の死を回避するために俺に『ラビット』を渡したくらいだ。直接メールを送り付けるなりして、笹篠や迅堂にも『ラビット』を送り付けたんだろう。
「十人のテスターの素性は分かってるのか?」
「それが困ったことに、ネットでアルファ版を公開して先着十名にテスターを依頼したから、全く分からないんだ」
テスターの件と笹篠や迅堂の件は別か。
未来人同士だといまいち、情報共有が難しいな。
海空姉さんが笑顔を引っ込めて、口を開く。
「次はこっちの番だよ。巴、今日のトラック事故についてだけど、ナンバープレートに泥が塗ってあったというのは間違いないのかい?」
「間違いないよ。運転手の顔も分からなかった。帽子を目深に被っていて、マスクもつけていたから」
「季節柄、花粉症対策でマスクをつけている者も多いから断言はできないけれど、素性を隠そうとしている節があるね」
『ラビット』を隠れ蓑にしていただけあって正解にたどり着くのが早い。
「ボクが知る限り、巴か笹篠さんが今日、トラック事故で死亡する。そして、外出せずに巴の家にいた場合、巴の家が燃えてしまう」
「えっ家が?」
迅堂が言っていた焼死のことか?
いや、時期がおかしい。
海空姉さんは俺の疑問を知ってか知らずか、話を続ける。
「放置されていた空のペットボトルが太陽の光を集めてしまって、出火したというのが捜査結果なんだけど、きな臭いね」
「放火の疑いあり?」
「トラック事故が運命の収束でないのなら、何者かの悪意によるものと考える方がつじつまが合うよ。常々疑問に思っていたのさ。トラックは追尾機能でもついているようだってね」
この事件の裏に犯人と呼べる者がいるのなら、その目的は気になるところだ。
「ただ、経験上、今日を超えればトラック事故は起きないはずなんだよ。巴か笹篠さんの死亡をもって、トラック事故は終わる。ボクが観測したことがあるのは笹篠さんが巴を庇って死亡した場合の未来だけだから、今回もそうとは限らないけど……」
「一度失敗した作戦をもう一度とは考えにくい?」
「それもあるけれど、わざわざ巴の家に放火するのであれば、今日事件を起こすことが目的ともとれる。犯人についてはボクも調べてみるよ」
「未来人が味方っていうのは、心強い」
「やめてくれよ。ボクが何回、君たちを死なせてしまったと思っているんだい? 皮肉にしか聞こえないよ」
「……ごめん、そんなつもりじゃなかった」
「あっ……こちらこそごめんなさい。八つ当たりだったね」
気まずい空気が流れ、海空姉さんがコホンとわざとらしい咳払いをする。
「話は以上。今後も気を付けて人生を送ること。それじゃあ、ゲームでもしようか」
あからさまに話題を変えて空気の払拭を狙う海空姉さんの提案に、俺はすぐさま乗った。
「何のゲームする?」
「うーん、人生ゲームにしようか」
皮肉じゃねぇか。




