第12話 四人目はお前だ
クラス代表を勝ち取った翌々日の日曜日。
今日はバイトがないが、テニスクラブは午前に利用客がいるとのことで午後からいつもの四人でテニスクラブで練習の予定になった。
番匠と大野を誘えばよかったかな。
そんなわけで、日曜日の午前、珍しく暇を持て余しつつネットの動画サイトでテニスの試合映像を眺めていると、笹篠から連絡が入った。
「勉強会?」
そういえば、やるって話していたな。
「図書館で――え、うちに来る気かよ」
確かにテニスクラブに行くんだから、図書館よりはうちのほうが近いけど。
まぁ、いいか。
「掃除でもしておこう」
一階のリビングに降りると我が家のマスコット、デブ猫のソノさんがのっしのっしと歩いてきた。
「ソノさん、俺の友達が来るから、掃除させてくれ」
ソノさんは俺の言葉を聞くと鼻を鳴らしてのっしのっしとリビングを出て行った。
来客があると構われるのを嫌って姿を隠すんだけど、いつもどこに隠れてるんだろう。白杉家最大の謎である。
カーペットの上をコロコロと粘着テープを転がしてゴミとソノさんの毛を回収。
喫茶店バイト仕込みのテクニックでテーブルを磨き上げ、お茶を入れているとインターホンが鳴った。
玄関の扉を開けると、私服姿の笹篠が立っていた。ボートネックのシャツにスリムジーンズの組み合わせ。
私服だとなおさら美人だな。
「おはよう……こんにちは、かな?」
時間は午前十時を回ったところだ。挨拶に悩む半端な時間である。
笹篠はむっとした顔を近付けてきた。
「おしゃれした女子が家に来たっていうのに、何か言うことあるでしょう?」
「半殺しを回避する方法を教えて欲しい?」
じろりと睨まれたので、観念する。
「今日も綺麗で、正直ドキッとしました」
「よろしい。お土産にクッキーを買ってきたわ。勉強しながら食べましょう」
「ちょうどお茶を入れたところだよ。まぁ、中に入って」
「お邪魔します」
笹篠はおずおずと玄関をくぐった。
松瀬本家ほどではないけれど、我が家も大概広い。造園業を営む関係上、広い庭を挟んで事務所が建っており、周囲をぐるりと生垣で囲んである。家そのものはさほど大きくないとはいえ、庭を突っ切ってくる関係で我が家に来た友達は玄関にたどり着くときには委縮しているのだ。
「笹篠は、うちに来るのって初めて?」
「未来で何度か来ているんだけど、慣れないのよ」
「ソノさんに会ったことは?」
「猫だっけ? 見かけたこともないのよね。本当にいるの?」
「いるよ。ソノさんは松瀬の親族の前にのみ姿を現す。それは、これから親族に入る者であっても例外ではないと言われているのだ」
「嘘よね。その嘘、何回かつかれたことがあるわ」
「我が家の鉄板ネタだからね」
実際は親族であっても姿を見せない。唯一の例外は海空姉さんだ。
どういうわけだか、ソノさんは海空姉さんに懐いている。
リビングに笹篠を通して、窓を開ける。
「さっきまで掃除をしてたけど、猫アレルギーとかないよね?」
「大丈夫よ。それよりも勉強しましょう。私が教えてあげるわ。伊達に未来から来てないもの」
「強くてニューゲーム状態なのか。ちょっとうらやましい。あ、教科書とか持ってこないと。悪いけど、先に始めてて」
「分かったわ。白杉が苦手な歴史から始めるから、ノートを持ってきて」
「……そこまで未来では知られていたのか」
暗記教科はどうしてもなぁ。
ひとまず、勉強道具一式を持ってくるため二階の自室へ上がる。
階段を上っているとソノさんの鳴き声が聞こえてきた。
珍しい。食事の催促以外では滅多に鳴かないのに。
何かトラブルにでも巻き込まれているのかと心配になって、鳴き声の出所を探して耳を澄ませる。
どうやら、俺の部屋らしい。
状況が分からないのでソノさんを驚かせないよう、慎重に、しかし速足で俺の部屋を目指して廊下を歩く。
すると、誰かの話し声が聞こえてきた。
「なー」
『にゃー』
「なーぁー」
『ににゃー』
話し声じゃないな。鳴き真似だ。
扉を開けると、ベッドに放置したスマホを覗き込んだソノさんがなーなーと話しかけ、スマホ画面に表示された『ラビット』がにゃーにゃー言っていた。
「――お前かよ」
『おっや、ご主人、いまそちらの猫さんと情報交換していたところですよ。笹篠さんがいらっしゃっているとか。やり手ですなぁ、にしし』
「ソノさん、スマホを壊さないでくれな」
「なー」
鳴き声のトーンからして、喧嘩を吹っかけているわけではないようだから大丈夫か。
『ちょいとご主人、お出かけの際にはスマホをお忘れなく。絶対ですよ、絶対!』
「へいへい。それじゃ、俺は勉強してくるから」
『保健体育ですか? 人間ってのはやらしい生き物ですねぇ。ラビットちゃんにはわからない感覚ですが!』
「大人しくしてろよー」
勉強道具一式を持って階段を降りると、すでに笹篠は勉強を始めていた。
美人の真面目な顔っていうのはどうしてこうも空間を格調高いものにしてしまうのか。見慣れた我が家のリビングがちょっとした美術館になっている。
笹篠が俺に気付いて顔を上げた。
「なに突っ立てるのよ。早く勉強を始めるわよ。テニスの練習ばかりで成績が落ちたなんて言い訳は許さないんだからね」
「その言い訳が許されるとは微塵も思ってないよ。試験範囲はどこだっけ?」
「ひとまず奈良時代をしっかりやっておけば、点数は取れるよ。人名とエピソードを踏まえて教えてあげるから、ノートを開いて」
「頼みます、先生」
「美人教師との個人授業よ? 授業料に期待しておくわ」
お昼を奢ることにしよう。
笹篠の教え方は丁寧というよりも面白さに振ったものだった。長屋王が唐に送った袈裟の刺繍の話とか。ネットニュースで話題になってたな。この人だったのか。
逸話交じりの笹篠の授業は、苦手な歴史でも興味深く聞けるおかげでそれなりに覚えやすい。
「でも、ここで名前が出る人って全員、この後死んじゃうんだよなぁ」
「歴史上の人物なんだから当たり前でしょうが。ノスタルジーに浸るには遠い過去すぎるわよ!」
「いやさ、歴史の授業って、この後死んだよねってつけるとどうでもよくならない?」
「ならないわよ! 死ぬまでにこの人たちがやってきたことの積み重ねが世界を作ってるんだから、ある意味死んですらないわよ!」
「あぁ、そういう見方もあるのか」
目から鱗。
まったくもう、とぷりぷり怒っている笹篠は時計を見て、教科書を閉じた。
「そろそろいい時間だから、テニスクラブに向かいましょう」
「途中でお昼でも食べていく? 勉強を見てくれたお礼に奢るよ」
「テニスクラブに軽食を出すカフェがあったでしょ。そこでいいわ。松瀬さんたちを待たせるのも悪いし」
「そっか。ちょっと準備するから待ってて。すぐ戻る」
勉強道具を片付けて、二階の自室へ向かう。
ソノさんがスマホの横で丸くなっていた。本当に珍しいな。ソノさん、バニーガール好きだったのか。
起こさないようにスマホを拾い上げ、ラケットや財布を持って部屋を出る。
ちらりとスマホの画面を見るが『ラビット』は出てこない。電池残量だけ確認して、ポケットに突っ込んだ。
家の戸締りを確認し、事務所で仕事中の両親に連絡を入れる。
「行こうか」
リビングの笹篠に声をかけて、連れ立って家を出た。
玄関もきっちり施錠。
「本番までもう一週間切ったけど、上達している感覚はないな」
初日や二日目はサーブの上達とかが成功確率という形で目に見えていたけど、今は何も感じない。
笹篠が苦笑した。
「ちゃんと上達してるって。今日はフォーメーションの確認を重点的にやるわよ」
「インストラクターの動画で見たけど、状況によって変えるものだろ?」
練習方針を話し合いながら、テニスクラブへの道を行く。
日曜日の昼間だけあって、子供連れの家族やカップルらしき男女とすれ違う。
どこからか、ビニール袋が飛んできた。バサバサと音をたてながら雑木林に吸い込まれて枝にひっかかる。
風にあおられているビニール袋を指さして子供が笑っていた。
「風が強いな」
「春一番は十数日前に過ぎたけど、この時期はやっぱり強いわよね。髪が乱れて嫌になるわ」
向かい風に顔をしかめて、笹篠が髪を押さえた。たなびく金色の髪がきらきらと春の日差しを反射する。
「ちょっと遠回りしましょうよ。風上に向かって歩きたくない」
有無を言わさず、笹篠が俺の手を取って横道にそれる。
俺も風上に向かって歩くのは嫌だった。前を歩いて風除けになるつもりだったけど、遠回りをして許されるなら防風林代わりに雑木林の横を歩けばいい。
「この風だとボールも流されそうだな。球技大会の当日はもうちょっと穏やかな風だといいんだけど」
「この時期の天候は読みにくいからね」
「うわっ、砂が目に」
「あははっ、あるある。試合中にそうなったらもう最悪よ」
本当に風がひどい。向かい風だと目を開けていられなかった。
だから、気付かなかった。
「――白杉!」
「……え?」
強く胸を押される感触。全体重を乗せたその勢いで俺は道路端に投げ出された。
重い車の走行音。砂が入って霞む視界を金属の塊が走り抜ける。
ドンッと何かがぶつかる音がした。
道の端から一段低いところにある雑木林に転がり落ちる。背中を強打して顔をしかめるが、それどころじゃない。
「笹篠!」
すぐに体を起こして道路に這い上がる。
人気のない道路の逆端に、笹篠が転がっている。
腕があり得ない方向に曲がっているのを見て、テニスができない、なんてどうでもいいことが頭をよぎった。
現実逃避だ。
「っ!」
笹篠に駆け寄る。真っ赤な液体が側溝を流れていた。
「おい、笹篠!」
声をかける。頭から出血しているのを見て、揺り起こそうとしていた手を慌ててひっこめた。
何が起きた?
いや、知っている。知っているはずだろ。分かってただろうが!
「轢き逃げ……」
道路上にトラックはおろか車の姿がない。さっきのトラックは笹篠を撥ね飛ばしてそのまま走り去ったのだ。
「……白、杉……?」
「笹篠! 意識はあるか。じっとしてろ。今、救急車を呼ぶから」
ポケットに手を突っ込む。焦っているせいか、スマホがポケットから上手く出てこない。
笹篠は俺を見て、報われたように笑った。
「やった。白杉、生きてる……よかった」
「なっ!? 良いわけがあるか! 球技大会だってあるんだぞ。病院に連れて行くからそこで大人しくしてろ!」
「……私の番でも、それか。白杉だなぁ」
笑って、笹篠が目を閉じた。
「おい、起きてろ! 息しろ!」
ポケットから取り出したスマホの電源を入れる。
直後、アプリが立ち上がった。
「っ邪魔だ『ラビット』、救急車を――」
『――ロールバックを行います』
淡々と『ラビット』が無機質に告げた直後――視界が切り替わった。
強風にあおられて、よろめく。
俺、いつの間に立ち上がった?
白いビニール袋が風に舞っている。
「ちょっと遠回りしましょうよ。風上に向かって歩きたくない」
声が聞こえて横を見れば、
「うん? どうかしたの、白杉?」
――笹篠明華がそこにいた。




