いい加減、機械の体を諦めたから別れたという半分ウソの話を事実にするのをやめてほしい。
懐かしアニメランキングだとか、名作アニメ特集をやると出てくる作品群。
これらは大体「王道物」が基本となる。
その中でほぼ毎回出てくる存在が「銀河鉄道999」だ。
筆者も非常に好きな作品の1つであり、「理想の主人公像の1つ」が主役を務める作品である。
あらすじはwikipediaなどを参照してもらうとして、私が今回この話を通して文句を言いたいのは。
「鉄郎がメーテルと別れた理由が間違っている」という点だ。
別に卓袱台を本編中ひっくり返したことが無いというような話をしたいわけではない。
今や999は殆ど再放送も無いため、勘違いされがちであるが違うのである。
確かに999の出だしとは「無料で機械の体にしてくれる星があり、そこへ向かう」というのが当初の目的だった。
999はその目的地アンドロメダへ向かう移動手段であり、劇中では「舞台装置の1つ」として活躍する存在である。
問題はラストの展開である。
大体特集の時には「機械の体を諦めた」というナレーターなどによる前フリがあってメーテルとの別れのシーンが出るわけだが、
これが大きな間違いだったりする。
確かに機械の体は諦める。
これは事実だ。
だがその機械の体を諦めるのは「6話ぐらい前の段階で決意している」のは殆ど知られていない。
当時見た人間はあまり意識していないか語らない。
実際に鉄郎がメーテルと別れた理由は、これまで旅をしてきて生命の大切さや交流を理解した鉄郎が「地球に戻って戦う」と言い出したことによるものだ。
車掌相手に「地球に戻り、人として生きる」というのだ。
それに対し車掌は「それは機械の体を求めて旅をするよりももっと辛い選択ではないか」と鉄郎の覚悟を見定めようとする。
それに対し鉄郎は「母が育った地だから」と、劇中ではヤマトクルーなど大勢の地球の偉い人や力を持ったものが地球を捨てていく中、「戻って地球で生きる」という決意を固めたことでメーテルと別れる事になるのだ。
これがメーテルと別れた本当の理由。
後述するようにメーテルにとって鉄郎は必殺兵器というか秘蔵っ子のような存在であり、隠し刀のような存在である。
そのメーテルが最も求めたことは「母星への愛と戦う勇気」の2つ。
それを満たしかけ、戦士として覚醒しつつあったために1度別れるという選択肢を選んだのだ。
メーテルは他にも候補となるべき存在を育てており、鉄郎はその一人でしかないが、最終的に戦士として覚醒した鉄郎が再び選ばれることになる。
TV版では地球に戻る鉄郎と新たな希望を生み出そうとするメーテルが別れる所で終わるのだ。
そしてこの決意は後に「車掌」の人生の選択にも関わってくる重要な話である。
すこし話を戻したい。
当初の鉄郎の話である。
999を知っている大体の人が鉄郎に抱くイメージというと2つのパターンがあると思う。
「ワリとイケメンで目上の者にも丁寧な言葉遣いを使う」というキャラクターと、
「ナーバスで短気ですぐ怒って、協調性が無く、誰に対してもタメ口」というキャラクターだ。
知らない人が上記の言葉を聞くと「上が劇場版で下がTV版?」と思うかもしれない。
それは残念ながら大間違いだ。
下は「当初の鉄郎で、上は劇場版とTV版中盤以降から劇場版二作目の鉄郎」というのが正しい。
劇場版は元々同一世界線の総集編という扱いだが、劇場版を見ると思われる殆どの者は「中盤以降の鉄郎」のイメージをもっていたためにあえて劇場版では最初から成長した姿にしたのだ。
実際には90話以上かけて成長していったのが鉄郎なわけである。
TV版の成長はとにかく精細に描かれている。
特に当初の鉄郎はすさんでいる。
とにかく人を信用しない。
おまけに地球人と「大人」に対するイメージは最悪である。
それまでどういう生き方をしてきたのかがよくわかるが、鉄郎は大人に騙され続けていたので「大人は裏切るもの」というイメージしかない。
恐らく鉄郎が機械の体を求めたのも「大人になりたくない」「大人になる前に子供のまま留まってやる」といったような意思があると思われる。
それを最も強調するのが「地球に親切な人間なんていない! 地球に最期まで戦うような大人はいない!」という後に盛大なブーメランを食らう言葉である。
最期まで守って欲しいからこそ彼は少年なりの叫びをするわけだ。
こんな台詞を吐いたのはトランクなど旅の荷物を無くした惑星がまるで昭和の古き良き日本のような姿をしていて、「彼らだって地球にいる人達だって悪意のある人達ばかりじゃない」的な台詞をメーテルが言った際に反論した時だったと思う。
序盤は本当にそんな感じなので少々イライラするが、様々な出会いや文化の違いを理解し、段々成長していくわけだ。
そしてそのうち協調性を得て大人と協力して活動したり仕事したりするわけである。
そんな鉄郎は終盤の時点で「いやあ機械の体はもういいんです。でも地球に戻るかどうか」といった話をしだすようになる。
そのあたりからメーテルの表情が変わっていき、そして地球に戻ることを決めるわけだ。
ここで999は幕を閉じるが、スタッフが「どうしてもちゃんと完結にもって行きたい」とスポンサーを説得して生まれた続編が999にはあり、それこそが「劇場版二作目」である。
ここの冒頭から15分ぐらいまでは恐らく、「アニメ史上最も哀愁が漂いつつも、感動するシーン」である。
冒頭、地球でレジスタンス活動をするもの達が出てくる。
そこにいるのは40どころか50は過ぎたであろうおじさん達と、成長した姿の鉄郎。
(一応言うとTV版から成長してもこんな姿になるが、劇場版からだとあんまり成長した感じがしない)
あれほど全否定していた「大人達」が実際に存在していたことにまず驚く。
2番目に驚くのはTV版と比較するとあまりにも荒廃した地球にだが。
劇中、徹郎は疲れてしまい、オッサン達に「先に行ってくれ」というが、オッサン達は鉄郎を見捨てたりはしないというのにまたくるものがある。
森山周一郎声のオッサンが「気力を失ったりするな」とまるで父親のように奮い立たせるのだが、あえて手を貸さないというのが男らしい。(一人で立って歩けと論している)
そこから物語が始まっていくのだ。
起承転結の起の部分においては、鉄郎に対し、決死の思いで手紙を届ける者が来る。
そしてその手紙を受け取った鉄郎はメーテルからの導きにより、「999が再び地球にきているかもしれない」事を知り、荷物を取り揃えて「一人ででも行く」といって立ち上がる。(ちなみにこれ自体は敵の罠だったりする)
周囲の大人は「999なんて来ていないかもしれないがそれでもいくんだな?」と聞き、頷く鉄郎を見たオッサン達は「俺たちの倅を送り出してやろうじゃないか」といって、己の命を燃やしながら999に鉄郎を乗せるのだ。
この時点での鉄郎はすでに覚悟を決めているので、「999に乗れ」とメーテルに言われたら、迷うことなく999に乗るぐらいことが出来る男に成長している。(大事なことなので2度言うが、これは敵の罠であり、999自体がこの罠に引っかかっている)
その鉄郎がどれだけ地球に対して強い思いを抱いているかというと、999に乗って離れる際「逃げるんじゃない」と2回も心の中で繰り返しながら泣くのである。
数少ない大切な、最も必要としていた者達の姿を心の中に刻み込んで地球を脱出するのだ。
その一方で鉄郎を見上げるオッサンは「ここは我々の星だ、だから戻ってくるまで死ぬな」と言って事切れる。
筆者はこの一連のシーンを超えうるアニメを他に知らない。
というかTV版から連続してみた場合、この冒頭15分を超える冒頭シーンを持つアニメはこの世に存在しないと思う。
冒頭15分に、90話以上使った一連の成長の物語と、そして主人公の願いのようなものから何から何まで全て詰まっている。
これほど素晴らしい劇場版の出だしが他にあるだろうか。
いや、無いな。断言できる。
ディズニーやピクサーがいくらがんばった所で、単なる劇場版ではこの15分の重みは再現できない。
長編から王道の続編だからこそ映えるのだ。
昭和の傑作たるさらば宇宙戦艦ヤマトも出だしは凡庸にすぎない。
精々「あっ、地球が青い」「ヤマトが最初で最期の地球の海を航行してるシーンがあるな」(実際には本編でもイスカンダルなどに海があるせいで普通に船っぽく航行しているシーンがある)ぐらいだ。
まあ全体的に見ると最終評価では逆転するのがさらば宇宙戦艦ヤマトなのだが。
一方の999は全体から見ると二作目はそこまで傑作というわけではないが、演出の細かさは随一だ。
細かいシーンはというと、車掌が「鉄郎さんお待ちしておりました!」というシーンについてだが、敵の弾幕の中で彼は棒立ちだけどよく見ると「999の電磁バリアー」が敵の射撃を完全に防いでいたりとか、
あとはなんてったって、鉄郎が脱出した後、再び地球周辺の映像が出るが「地球を救うために表向きは地球を捨てた事にしている男」であるハーロック一味が乗るアルカディア号の一部と印象的な船首のドクロが一瞬出てくる。
後に何度か登場するハーロックだが、彼がそこにいた目的はある男と交わした約束による鉄郎の援護である。
あたかも999は平然と地球圏を脱出しているが、実際には設定資料集にある通り、「ハーロックが周辺で暴れて敵を一掃したため何とか脱出できた」のである。
あえて戦士として歩む鉄郎本人に楽をさせない一方で、本質的な鉄郎の戦いを邪魔する集団は劇中、文字通り「一切を根こそぎ轢き殺していく」(ちょっと通りますよで敵を全滅させていくが、初見の場合だと本当にただ海賊行為として自由に飛び回っている最中、偶然にも鉄郎の近くを通り過ぎただけに思えるが、終盤でハーロックの行動理由が全てわかるようになっている)
本当はそのシーンを入れたかったが作画と尺の問題でオッサンが見上げた先にアルカディア号があり、それを暗喩するシーン止まりとなったのだ(その後2回、援護に来るので地球にて最初の1回目の援護があったことは見直せばわかるように作っているわけである)
まさにそのような完璧な作りをした冒頭故にここまでならば本当に名作である劇場版二作目であるが、この後の展開はやや中だるみしてしまい、中盤以降まで加速しないのが残念なポイントである。
承の部分がややボヤけているからと思われる。
しかしアンドロメダに到着して以降は一気に物語が加速し、そして再びメーテルと再会、そして因縁の敵と決着を着けて再び別れる。
アンドロメダと機械の体の秘密など、劇中不明だった要素が次々明らかとなり、最終的に鉄郎の選択が正しかったこととメーテルの行動理由が判明するようになるわけだ。
ラストで再びメーテルと別れる事になる鉄郎だが、両者は立場故に共に歩めないというのも悲しきも王道らしいツボをおさえた演出と言える。
そんなわけでいろいろ語ってしまったが、大事なのでもう一度言うけど「鉄郎は人間として地球で生きようとしたからメーテルと別れた」
この作品を見たならばこれだけは覚えてほしい。
この鉄郎の姿は最終的に車掌の人生選択を変えるからな。
車掌は実は肉体を捨てて機械にしようかどうしようか迷ってて、幽霊みたいな状態になんだけど劇場版二作目で「私も鉄郎さんの姿を見て人間として生きる事に決めました」ってラストで暴露する。
これは当時すでに販売されていたTV版の設定資料集を見た者だけが知っている車掌の秘密を2作目で解決しようとラストにねじ込んだもの。
まあ、機械連中がどういう生き方をしていてどういう存在なのかわかったらそりゃあ「機械の選択肢」なんて鉄郎に関係なく選択肢から消えるのだが、それは本編で見て欲しい。
後余談だが、999をある程度知っていても劇場版の冒頭シーンで理解できないといわれる部分がある。
劇中、機械連中に対して特に有効な「戦士の銃(見た目はただのリボルバーだが、ビームのようなもものを撃てる)」またの名を宇宙竜騎兵を使っておらず、メーテルからの連絡を経てトランクごと地面から掘り出してそこから初めて使い出すという演出である。
「なぜ最も有効で強力な銃を使わないのか?」という話だが、これは説明不足。
wikipediaでは「威力が変動する」と書かれているが、コイツは「所有者の能力に呼応して威力が変化する」という設定なんだから威力が変動して当然。
劇場版二作目でつかってなかった理由は複数あり、
1つは「非常に強力な必殺武器であり、所持者ゆえに敵に集中的に狙われてしまうのを避けようとした」(敵にも鉄郎の名は知れ渡っているが冒頭のシーンでは誰が鉄郎なのかレジスタンスである地球人もいまいちわかっていないように、身を隠している)
2つ目「戦士として未熟だと感じた鉄郎自身が戒めなどを込めて使用を避けた」
3つ目「コスモドラグーン自体は無敵の銃であっても手入れなどが必要なただの機械であり、集中的に狙われて破壊されるリスクを考えるといざという時のために温存しておいた」
これらの理由によるもの。
劇中、コスモドラグーンは過去最高クラスの威力を発揮し、アンドロメダの施設を完全に破壊することが出来るぐらいになっているのだが、これは「一流の戦士として覚醒した鉄郎によってリミッターが外れた」影響によるもの。
ちなみに設定だけでは「常時リミッターが外れている」とされているのはエメラルダスとハーロックの2名。
ただし両名は強すぎてコスモドラグーンを頼る描写が全く無いのでコスモドラグーンの威力がわからない。
武器がコスモドラグーンしかない鉄郎だけが真の威力を劇中で発揮してみせたわけである。
元々コスモドラグーンは「手持ち式波動砲」であるので、腕が無く、かつ戦士として正しい心を持っていない者が使うとリミッターがかかるようになっている。
このリミッターが無い状態故に二作目では「当たれば一撃必殺の最強武器」として活躍する。
劇場版一作目やTV版を見た人は「威力高すぎない?」と思うかもしれない。
サイコガンほどではないが、どうも威力自体は本人の意思によって調節できるようだ。
サイコガンとコスモドラグーンどちらが欲しいかといわれた筆者なら「間違いなく後者」だと言うと思う。
やっぱリボルバーでしょ。
ちなみ余談だが松本先生本人が大昔言ってたことがあるが、「サイコガンとコスモドラグーンどちらが強いかなんて不毛だ。コブラがコスモドラグーンを使ったら誰も止めることが出来ないからな」「コスモドラグーンは結局は拳銃でしかないが、サイコガンは違う」といったジョークを発したことがあるが、両者どちらが強いかについては結論を出せないという。
上記の話にはいろんな意味を込められていると思われるけど、まあコブラなら2つ持てても不思議じゃないよね。
コブラの話題にしたので最期の余談だが、冒頭シーンの旅立ちシーンのBGMはアニメ版のコブラでも使われてる。
意外な関係があった両者。
あとがきの余談。
999で一番自分勝手でかつ真面目なのはC62-48こと999の機関車。
999に車掌しかいないのは運転手が機関車本人だからなのだが、車掌の言うことを聞かずに定刻どおり出発するぐらいダイヤに対して生真面目。
その理由は「銀河最速」という「999の看板」を背負っているという自負によるもの。
劇場版二作目では追い抜かされたりなんだりで泣いたりする。
ヒロインよりヒロインらしいのが999の機関車。




