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大人にならないとわからないアメリカ野郎のよさ。

子供の頃に見た時と大人になって見た時で評価がかわるキャラクターはかなりいると思う。

筆者の場合、ジブリ作品の評価がほぼ逆転した。


昔は大好きだったパズーとシータはこの作品で前述する話から完全にイメージが「独善的なガキ」に変わった。


そもそも宮崎駿の本質は独善的だと思う。

アニメ版のナウシカを見てみるとそうだ。

周囲の人間が優しくなかったら喚いているだけで終わりそうだ。


なんていうか姫様の人望がある理由があまり理解できない。

10代も後半に差し掛かると、ナウシカに対してはお前将来の族長候補なのになんでそんな危険な真似してんの?って思うようになる。


アニメ版では割とアスベルの方がまともだ。

彼が一団を攻撃したのは何も妹を連れ去られた復讐ではない。

劇中、ペジテは占領状態。


アスベル達は反抗勢力として戦い続けているのだ。


これを追い払わないとペジテが壊滅するのは間違いないので行動に正当性がある。

劇中台詞を見てみればわかるが、ナウシカ達が当初向かおうとしたのはペジテではない。


「あの山の向こうに仲間がいる」ということで、反抗勢力の基地か隠れ家のような場所に向かおうとしていた。

その道中、煙がペジテの方から出ていてペジテ方面に方向転換したわけである。


そこでペジテが崩壊した事を始めて知り、その後でブリックが登場。

劇中登場するこのブリックの集団はその仲間の一部なわけだ。


つまり、族長の血を持つ者の一人として終始一貫した行動ではある。

筆者がアスベルが好きなのはそういう部分を含めた彼の行動力と純粋さである。


一方、人望がありそうなのは漫画版のナウシカの方だ。


漫画版のナウシカは殺人に関して躊躇が無い。

トルメキアから召集された際も割と普通に族長代理として恥じない態度で臨んでいる。

ただそのナウシカの良さも中盤までで、中盤以降はやはり独善的だ。


なんていうか、「単なる族長がまるで人類の代表」みたいにモノを語る姿が好きになれない。

なんで背伸びする必要性があるんだ?と思う。


多分これが宮崎駿の本質だと筆者は思ってる。

数々の言動から、アレこそ彼の本当の姿であり、今までの成功は実力があって周囲のサポートがあってこそであろうと思う。


そして本人はそれを自覚してる。

それも完全に。

自覚した上で我慢すればそれを覆い隠すことが出来る。


ここで少しだけ映画の話をしたい。

筆者の父は映画監督を本気で目指していた頃もある人間だった。


だから幼い頃から映画についてはいろいろ熱く語っていたが、その中で最も主張していたのは「自分が若い頃は稼ぐために媚びるものは映画とは言わなかった。黒澤だって晩年はアニメに負けるような状態だった」ということを何度も子供の自分に言い聞かせていた。


だからといって黒沢監督は否定されないのだと。

しかし今後はそうではなくなり、ある程度媚びなきゃいけなくなると。


宮崎駿もまた、割と娯楽作品として世に送り出したものはキャラクターが独善的ではない。

娯楽作品として送り出されたのはトトロ~千尋に至るまでのものだ。


トトロでは独善的なキャラクターはメイに閉じ込められている。

劇中メイは本当にうざったいキャラだけど、言動と行動原理はナウシカやパズー、シータとさほど変わらない。


精神年齢が低いだけだ。

アレが成長して妙な知識をつけると「人は大地を離れては生きていけないのよ!」とか言い出す。

サツキと違って間違いなくそういうタイプ。


スピンオフというか事実上の続編であるメイと子ネコバスがまさにそうなりかけてたしね。

あのスピンオフ、見てみるとわかるがメイが少し成長している。


まるでもう1名自分の下に妹がいるかのような様子だ。

この様子を見ると本当にそういう将来像が見えてくるのだ。


それでトトロの後の作品である魔女の宅急便、紅の豚、もののけ姫、千と千尋までの作品においてはこの「独善的」というキャラクターは影に隠れる。


媚びている感じはしないが、少なくとも「宮崎駿の本質」というイメージは薄れ、エンターテイメント作品として成立しようとがんばっている感じがする。


筆者はこの一連の作品の主人公達が好きだ。

もののけ姫はちょっと例外的なシーンがあったけどね。


もののけ姫のアシタカは劇中、たった1つだけ気に入らないシーンがある。

それは「里に下りたのは失敗でした。2人も殺めてしまった」という台詞。


終始一貫して他者に問いかけつつ自分の考えを行動で示して2つの矛盾した存在を成立させようとしたアシタカにおいて唯一筆者が「完全なる汚点」だと思う台詞だ。


なんでこんな第三者的なもしくは言い訳ちっくな物言いなんだろう。

タタリ神に矢を射った時は覚悟していたはずだし、その後も明らかに覚悟して矢を放っているがこれは違うのか?


ここの台詞は「覚悟を決めていたとはいえ、人を殺めるとこうも尾を引くのですね」この方が彼らしいんじゃないの?

一応それまで殺人経験はなかったわけだから、この方がしっくりくる。


恐らく初めての殺人で動揺していたのかもしれないが、どうもあのキャラクターのイメージに合わない。


そんなアシタカには裏設定というか、割と気づいていない人がいるので一応言うが、彼は「女好き」だ。


見てみれば終始一貫した態度で男と女に接しているのがわかる。

女性に対しては「自分から話しかけるのが基本」な一方、よほどの事が無い限り「男には話しかけない」


唯一の例外はジコ坊だけだったりする。


そのジコ坊ですらも「直視しない」というか、「男に対しては目を向けて話しかけない」

なんていうかまるで彼の顔は「男自身(卑猥な表現が似合わないが、同じ意味)」だなとすごく思う。


女性に対しては積極的に目を向けて話しかけるが、それ以外はうつむいているかあさっての方向を向いている。

「なんでだよ!狼とかはちゃんと見ていたじゃないか!」と思ったそこのアナタ。


モロ一族にオスはいない。

その一方でイノシシの集団に「メスはいない」

「ヤックルはメス」


もの凄く一環してる。

さすが跡取りが必要なほど衰退した部族の唯一の若者だね!


オッコト主にすら直接顔を向かないとか本当に凄いが、劇中顔を向けて男に対して話しかけるのは例外のジコ坊と、「どいてくれ」とゴンザに話しかけた時だけである。


彼の目は女性の顔にしか向かないらしい。


なんてことを話していたら本題からズレてきているが、筆者が今の状態で宮崎駿のジブリ作品で最も好きな作品はと言われたら「紅の豚」と「魔女の宅急便」である。


前者も後者も主人公は背伸びしない。

だから好きになれる。


そんな中で今回話題にしたいのは、本質的には豚と同じだったアメリカ野郎ことカーチスの話。

カーチスについては豚が彼が離陸するシーンを見て「あの野郎いい腕してやがる」と言っていたが、どうもネット上などを見ると「なんで豚が最期に彼を撃退に誘ったのか」わかってない人が多い。


なのでここで解説してみたいと思う。


まずカーチスについてだが、実は彼、豚と戦闘は同じである。

「人を殺さない」というのは終始一貫している。


一番最初は実際の描写は省かれた豪華客船襲撃時に豪華客船が雇っていた用心棒の2名。

この2名をカーチスはあっさり撃墜しているが、2名は殺していない。


エンジンを撃ったからである。

実際に描写していないのになんで言い切れるんだ?と思う人がいるだろうが、カーチスは豚との戦闘で最期まで「エンジンしか狙っていない」のだ。


その上で2名は脱出して生還。

これはあの機体の構造上「真横を高速ですり抜けようとする航空機に対し、エンジンだけを射抜く」という大日本帝国軍のエースでも数名しか可能ではない必殺技を用いているからである。


彼の恐ろしいまでの腕前が理解できる。

重要なのは、用心棒の1名が振り向いた時、カーチスはまだ「射撃していない」こと

ギリギリまで距離を詰めて命中精度を上げたわけだ。


その上で明らかにあの局面「狙いはエンジンと機体後部」なのがわかる構図となっていること。


そう考えると、2名は脱出の言葉からどうなったかは想像に容易い。


また、ポルコがミラノへ向かう貨物列車で見ている新聞記事は「撃墜したが行方不明」と書いてある。

本人は「死亡を否定」しているというのが重要。


無論、「撃墜した後に無人島でくたばった」可能性もあるから「あの野郎生きてやがった!」と言うわけだが、少なくとも「殺した」とは思っていない。


この撃墜時の戦闘で彼は、空族を説得して1vs1に持ち込んでいるが、この理由の1つに「集団で倒したら迂闊に殺しかねない」可能性があったからというのは宮崎駿が後年語ってたりする。


その上でこの戦闘でも「終始エンジン狙い」


だからこそポルコは電話でジーナに対し、「また会おうぜってよ」って言うわけだ。

自分と同じような意識をもった人間がいたことにポルコ自身はアメリカ野郎を大層気に入っているのである。


その上で飛行艇乗りとして勝負をしたいとも思ってるわけだが。


リベンジマッチにおいてもわかるが、アメリカ野郎は激高した状態でも終始エンジン狙い。

一方それはポルコも同じ。

割と周囲の被害を省みないカーチスであるが、そこだけは一環している。

だからこそ「狙ってくる場所がわかっている」から、殆ど攻撃を回避されてしまっているわけだが。


まあそうなるとあのリボルバーのシーンだけは意味不明だけどね。

当たらないと思ってたんだろうかよくわからない。

あそこだけは筆者的には完全に意味不明。


最初からスパナとかを投げておけと。


まぁそれはさておき、この姿勢があったからこそ「一緒に追い払うか?」と誘うわけだ。

他の連中にはそんな事は言わないだろうが、カーチスの場合は「自分と同じ」だからこそそういうことを言う。


子供の頃にはそういう演出がわからないため「なんか凄いステレオタイプなキャラだなあ」と思う反面「なんで最期に誘うんだろうか」と思ったが、冷静に1つ1つの細かい描写を見てみるとわかりやすい。


こういった気持ちいいまでのキャラ付けは千尋まで続いたものの、それ以降は再び独善的キャラに戻った。


ハウルのソフィなんかもあんなことを王宮で話したら即処刑されてもおかしくない。

だからこそハウルが裏でコソコソついてきていて、すぐさま救援に来るわけだが。

王子も含めてアレに惚れてる描写があったけど、当時をしてソフィのどこがいいのか筆者にはわからなかった。


そんな独善的キャラの究極系は風たちぬだろう。

もう次郎は本当に協調性とかが無い。

庵野監督が少しだけ宮崎駿という男が出てきている男が次郎だと言っていたけど、本当に少しだけなのか疑問だ。


あの次郎の独善的イメージはナウシカやラピュタの時点で私にはあったのだが。


他と何が違うのだろう。

キャラ付けとしてそれが徹底されているから?

よくわからない。


まぁとりあえず最期に、もし仮に筆者が宮崎監督と話すことが万が一あったら聞いてみたいのはやっぱアシタカのあの台詞だろうなと思う。

あの台詞だけはどうしても納得できないからだ。


ところで最期に余談というか追記だが、以前ラピュタに関する話で「ハウルの都市のイメージはラピュタ」と説明した。

その際私は「設定資料にある」という旨の話を述べたが、面白いメッセージをもらった。


「実はその設定資料の描写、短編として映像資料としてジブリ美術館で公開していたことがある」のだという。


「空想の空飛ぶ機械たち」という題名の作品だ。


これはラピュタの前日譚に近い作品で、豚の集団がラピュタが浮かぶ前の古い形式の航空機を開設するというもの。

そこに出てくる都市、つまりラピュタ人が空を飛ぶ前の状態の姿が「ハウルまんま」だという。


いや、まあ設定資料集がそうだったからそうなんだろうけど、映像化していたのは知らなかった。


ちなみに知らせてくれた人曰く、ラストで明らかに「成長したパズーと見られる男」が出てくるらしい。

どこかで見ないといかんね。

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