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偽の王の真の意味。(もう一人の主人公と監督が言う真の意味)

まず最初に言いたいことがある。


「スタジオジブリ第一作は天空の城ラピュタ」だからな!

「ナウシカ」は「宮崎駿作品」でしかない。


ラピュタの後、本格的にやるために「スタジオジブリ」というのを作ったのが始まり。

まぁスポンサー含めて殆どメンバーは変わっていないから同一と見てもいいけど。


第二回の今回はラピュタについて殆どの者が知らない話についていろいろ話すとしよう。


まず1つ、ラピュタは現在では人気作品だが当時は大したことがない。

興行成績的に言えば「まぁちょっとはがんばったんじゃない?」程度。


商業としてジブリが成功したのは「魔女の宅急便」であり、商業的に成功させるために犠牲になった者達がいる。

特に犠牲者として有名な1人としては「この世界の片隅に」の監督についてはジブリに対してまとめられた資料である「宮崎駿全書」だったかな?(後で題名がわかり次第補完)にて語られていたことがあって、


そこでは「彼が考えて描いていたイメージボードの街並みなどの描写は宮崎駿を超えていた」という話がある。


これらが実際にどれほどまでに煮詰められて演出できていたかは「この世界の片隅に」の状況をみていただければわかると思うが、彼が作ろうとした魔女の宅急便の町並みのスケッチはなぜか未だに1枚も資料が見つからない。


当時の製作状況を考えればかなりの部分まで出来上がっていたはずなのだが、それらについてのジブリのコメントも見当たらない一方、当時のジブリ関係者が「ジブリ史」だったか「宮崎駿全書」だったかそんな題名で資料本を出していた際に「彼が描いたイメージボードも多数存在する」ことを肯定していた。


一方でそれらの絵自体を筆者は見たことが無い。


当時の状況を知るような人間(筆者はまだ20代なのでそれを知る人間)から聞いたことがあるのだが、魔女の宅急便は宮崎監督が描写するにあたり、これらの町並み描写がリセットされた経緯があるという。


その上で「ストーリーなどの筋書きは概ね同一のもので宮崎監督なりの脚色が加わっただけ」だという。


そのあたりは片渕監督の作品を見るとなんとなくそんな感じはするのでそうなんだろう。

話がズレてきているが、今回はその「イメージボードなどに関わる一連の設定の裏にある真実」である。


話を天空の城ラピュタに戻そう。

当初こいつはNHKによる新たなTVアニメとして計画され、原案が作り上げられていた。

それがアニメ映画という形になり、原案の方は塩漬けになった後に「ふしぎの海のナディア」という形でNHKによってテレビアニメに作り直された。


今回語る話はその原案部分ではなく、「天空の城ラピュタ」というアニメ映画の方向性になったあとの話。


まず重要なことが1つあって、実は「当初の天空の城ラピュタは勧善懲悪ものではなかった」ということがある。

まぁ実は「劇中語られていない」だけで勧善懲悪ものではないのだが。


実はラピュタにはいくつもの設定が作られたうえで「尺の都合上カットされた」話がある。

それらは「原画集」や設定資料集にて補完できるが、


特に筆者が見て欲しいのが「ムスカの手帳」である。


まとめサイトにあるとおり、ラピュタは「当初ムスカを中心に野望と絶望を描く物語」だった。

シータとパズーは因縁があって巻き込まれた立場にあるが、

これらは「これじゃ駄目だろ」ってことで路線変更させられている。


しかしそれらに関する設定などは綿密に寝られ、徳間書店などからその内容を記された資料が販売されている。


特に劇中ムスカがペラペラめくっているあの手帳は、その内容が公開されていたりする。


そこで劇中語られなかった設定があるが、それは

1.ラピュタが滅んだ原因はHIVのような流行病によるもの

2.シータの一族はその状況になったら「ラピュタを放置して逃げた」

3.偽の王というのはそのせいで混乱した国をまとめ上げ、地上に降りた上でその病気を克服したムスカの一族に対して与えられた「誉れ高き称号」であり、「偽の王」は別段悪い意味で与えられたものではない。(つまり血縁関係がありながら王としての資格がなぜかなかっただけで本物以上だったという意味)

4.ムスカ一族の周囲には元天空人が多数おり支援者として協力している。

5.ムスカが野望を抱いた原因は「パズーの父親のせい」

6.ムスカの最終目的は「ラピュタの技術を解析し、世界に広めること」だが、それは劇中所属していた「国」ためではなく、ましてや利益の独占でもなかった。あくまで「高度すぎて失われたテクノロジーの復活」こそが真の目的。



宮崎監督は公開当初よりムスカを「もう一人の主人公」と主張してきたが、実は劇中正式設定として存在しつつも一切語られなかった設定があったのだ。

これらは資料集と上記徳間書店によるムック本に近いムスカの日記帳などにより補完できる。


また原画集にあるように最後の最後までカットしたくなかったシーンがあり、実は「玉座でシータを糾弾するシーン」がある。


本来ならムスカは自身がなぜ「偽の王」なのかを語る予定があったのだ。

だが尺とストーリーイメージの維持によってこれらはカットされた。

そのせいで世間では「ムスカはジブリ作品史上、唯一の絶対悪なキャラ」みたいに言われるが、実際はそうではない。


これらの設定をみると彼がシーターが発した言葉に激高した理由がわかると思う。

筆者のように手より言葉が出るような者だと。


「いやロボットがああなって整備できなくなって死んだのも、全部お前の先祖が国民放置して逃げたからだろ?」という話で、可哀想なロボット達も糞もないだろと言ってしまうかもしれない。


「大地でなければ生きていけない」とかいう台詞も「いや大地で生きていくために努力したのこっちだから!」という話で、本当によく「射殺」しなかったなと思ってしまう。


子供の頃、シーターの台詞は「まったくだ、はやくバルスで死んでしまえ」であったけどこれらを見るとムスカは本当に救われない男だなと思う。


当初よりムスカは敗北することが確定していたが、それでもイメージは大幅に変わったはずだ。


ただ、重要なことは「劇中、上記の設定は様々な部分で仄めかしている」ということがわかる。


例えば支援者がいるといった話は「しばらくは二人で暮らす」とあるが、「軍」という存在を排除しているシーンで「しばらくは二人で」というのは完全に矛盾している。

しかしその裏では「同じ派閥の協力者達」を含めた者達がおり、それらと合流するという意味があった。


資料を見る限り元ラピュタ人は「ムスカのように野望を抱いた派閥」と「城に戻らずとも技術を継承したり復活させよう」と試みるタカ派とハト派がいることがわかっているが、彼らが世界にどう影響を与えているのかはわからない。


ただ、少なくとも「1つの国家の軍において特別扱いにさせられる」ような権力を持っているということはわかる。


というか劇中出てくる黒服2人がそうなのか?と思ってしまうが、彼ら2名に対する設定がなぜか存在しない。


だが彼らはラピュタの技術に特段そこまで驚いた様子もなかった事から、可能性は十分ある。


ま、少なくとも他にもラピュタ人はいて、そしてムスカ側には多数そういった人間がいる一方で、国民放置で逃げたシータ側はあんな辺境の山奥でコソコソ暮らしていたわけだ。


そりゃ「見つかったら処刑もの」だからね。

全く何やってるんだか。


ちなみに他にもギリギリまで構想されたがカットされたものがいくつかあるのだが、

1.パズーがフラップターの操縦訓練を受ける

2.終盤はフラップター無双


当初の企画段階から何度もイメージボードに出るが、パズーがフラップターを操縦するという構想はあった。

というか、製作前段階の配布資料をネット上でアップロードしている人もいるが、元々ラピュタは「フラップターに乗って飛行する少年または少女を描きたい」と考えていた。


この時点ではまだストーリーも固まっていないが、実は公開前の試写会にて宮崎監督が謝罪したことがある。

それは構想段階でいくつか資料をすでに出していた宮崎監督は「フラップターの羽は全て手書きで蝶のように舞うよう描く」と主張していたのを「ハチのようなボカした描写」に変更したことだった。


本当は全て羽が動く姿を高速で描写しようとしたが、そうすると目の錯覚で気持ち悪くなるのでフラップターの羽の制動が修正されたという。

当時の試写会をしる者はそれを知っているが、実はこの頃の宮崎駿はアニメ演出の研究に熱心でそういう個人研究に基づく技術資料を秘匿すること無く公開していたのだった。


本来のフラップターはそんなモスラ映画のモスラが飛行するようなものを考えており、実際にそんな羽の動きを示した資料が存在する。


その上で主人公に乗せたかったのだ。


これらは最後の最後まで考慮されたが結局採用されなかった。

ドーラ一家が訓練する描写も入れようとしたが、残念ながらその前段階の「タイガーモス号の修理などに携わる」という部分で終わる。


またラピュタ突入もグライダーになってしまった。


あまりにも無理がありすぎるグライダーでの突入は「本当はフラップターで終盤まで大活躍だったんだけど尺と製作時間などによってカットされたから」である。


しかし、その設定の名残はちゃんとある。


劇中、パズーの家には彼が組み立てている羽ばたき機が存在する。

これはグライダーだが、パズーはシータにおもちゃの模型のタイプを飛ばしている。

当初の構想ではこれらをドーラ一家が目撃、それがフラップターの操縦訓練などへ繋がるフラグとする予定があったが、それらの描写が消滅してもパズーらしいイメージとしてあの組み立て中のグライダーはそのまま描かれている。


それと、筆者が説明されなかった上で語っておきたい設定は時系列の整理かな。

劇中出てくる乗り物である「ゴリアテ」「タイガーモス号」「フラップター」の3者は最高速や移動距離が設定されている。


これによってシータの発言やドーラの言葉、日の出までの描写などから、あの要塞都市と鉱山都市までの距離や、経過時間、ラピュタまでの経過時間と移動距離などが大体わかるようになっている。


そういう距離感覚まで練って作られたのが初期のジブリ作品の特徴といってもいいだろう。


それ以外に失われた設定というと、「構想当初の段階ではシータは海賊の娘」であり、ドーラはシータの母親という設定だった。


当初よりドーラ一家は登場予定なので、「シータの所属が違う」だけであるが、劇中「若い頃にそっくり」だとかいうわけわからない話はこの設定の名残だ。


「ああなるの?」なんてツッコミ入るが、当初はアレが母親である。


フラップターの羽などが「ロボットと同じ人工筋肉が使われている」という設定もこの設定の名残である。

本当は元ラピュタの王族なのだからそりゃ技術継承できてておかしくない。


仮にシータを海賊にさせて王族にさせると「なんでドーラ一家があんなに飛行石に詳しいの?」という矛盾は全て解消するわけだが、シータとドーラ一家は割と最初の方から切り離されている。


ただし、「パズーは海賊に入る」という設定と「海賊団と一緒にラピュタを追う」という設定は「ラピュタ」という構想が生まれてからすでにあった。


実際設定資料集には「背が低いだけのナウシカ」にしか見えないシータの絵がいくつもある。


また、これらの設定の名残のせいで「ドーラの夫」が「ラピュタ人ではないか?」と思われるが、ドーラの夫にそれらが言及された資料はない。

あくまで「天才発明家」であり、「一連の発明品を全てこさえた」という設定があるだけ。


恐らく「シータが海賊でドーラが母親だった」とする資料を見た者が創作した設定だと思われるが言及はない。


ただしそういった設定でもないとドーラが飛行石に詳しすぎるという理由の不明の解消は難しいとはいえる。

まー、ドーラ一家の周辺にそんな者達がいた可能性はあるが。


さて、それでは今回は最期に2つの話で締めくくるが、実はラピュタの前日譚が「ハウル」ではないかという話の補完をしたいと思う。


これらは「天空の城が出てくるから」なんて単純な理由ではなく主張されているが、それには明確な理由がある。


まず1つ、そもそも「ハウルの動く城」とは本来は天空の城、つまり劇中ラストに登場したような存在だ。

そしてさらに言うと「ハウルは元々ローファンタジーに属するものであり、劇中「ハウルはファミコンゲームをやるような1980年代後半頃の描写がされている」のが原作である。


ハウル自体はもっと残念なイケメンだったりするのだが、劇中ではそこまで原作と違和感があるような人物描写はない。

概ね原作どおりだ。


ただし大きく乖離するのがあの劇中の世界観の描写。

あんな中世ヨーロッパのような姿ではない。


ハウルの動く城は、簡単に説明すると「ハリーポッターの世界に戦争とハウルと天空の城がある」と考えてもらえればわかりやすいだろうか。

基本的にはそんな「ローファンタジー」な世界である、


それがあんな姿になったわけだが、実はあのアニメ映画の方の街並み「ラピュタ王国のイメージスケッチ」とほぼ同じだったりする。


劇中、ラピュタ王国の描写はOPで断片的にしか見ることができない。


だが設定資料集にはもっと細かい街並みがイメージスケッチとして存在し、それらは「ほぼハウルの街並み描写そのまま」


その上で重要なのが「劇中ソフィーが操縦して城まで戻ったオーソニプターはラピュタ王国の描写としてイメージボードとして登場させていたものと同一」であり、「空を飛ぶ前のラピュタ王国の戦艦」もハウルには出てくる。


これらはルパン三世に「勿体無いから出した」とあるようなロボットと同じような繋がり程度と思われるが、「ハウルは前日譚」とする根拠としては十二分の説得力はある。


となると「魔法使い」なる存在がラピュタにいてもおかしくはないが、魔法使いは諸悪の根源の影響によって激減しているからラピュタで存在が否定されていてもおかしくはない。


ただ面白いのは「ラピュタに魔法使いはいた」と推定すると、実は他の作品も複合的にくっつくことだ。

ジブリ作品には他にも魔法使いがいる。


それは「紅の豚の主人公」と「魔女の宅急便」の主人公だ。


紅の豚は劇中の台詞からすると誰かに魔法がかけられたのかと勘違いされがちだが、フェラーリンの話からわかる通り「本人が望んであの姿になった」のであり、「マルコ・パゴッド」こと「ポルコ・ロッソ」は普通に「魔法使い」である。


となると、ハウル(不明)→ラピュタ(1880年頃)→紅の豚(1926)→魔女の宅急便(1960年代)と見ることができるかもしれない。


「なんでフラップターは半世紀後に消滅してるんだよ!」なんて思われるかもしれないが、あくまで推論の話。



それとこれが本当に最期の話だが、「ラピュタこそ史上初めて映画フィルムを特典として観客に配布した存在なのだ」「なぜならラピュタこそ……」


冗談はさておき、記録上、アニメ映画の特典に関してはだれが最初にやったかは不明だ。

だが、少なくとも「ラピュタ」が史上初めて劇中の映画フィルムを特典にして配布した。


興行収入も観客動員も大したことがないので実物が見つからないが、出てきたらものすごい価格がつくはず。

あの頃のスタジオジブリは「観客と共にアニメについて明日を夢見る集団」だったので、観客と共にアニメを作るというスタンスがあり、そういうことをやっていた。


ちなみにアニメ業界において「フィルムを特典にする」というのを史上初めてやったのは「宇宙戦艦ヤマト」が「設定資料集」の「特典」として付与したのが史上初。


ラピュタはあくまで「史上初めて映画館で映画用フィルムを特典にした」映画。


この「宇宙戦艦ヤマトのフィルム」については「ゆうきまさみ先生」や「庵野監督」とかがものすごい値段の資料集を買う話で出してた気がする。


ちなみに記録が間違っていないなら配布されたフィルムは「僅か1コマ分」なので今日の3コマ~4コマの状態ではない。

当時のモノがどっかで売られていたりするんじゃないだろうか。


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