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とある男の抜刀術にはきちんとした意味とものすごく深い理由があったのに……(後編)

さて、武士の説明が長くなったせいで2話に切り分けたわけだが、この時代の「武士」。

一応、名ばかりのような存在も含めて、浪人であっても様々な権利を与えられていた。


その1つが「切捨御免」などに代表する、上の立場としての権利だ。

一般的にこの各種権限を表す言葉を「苗字帯刀(みょうじたいとう)」という。


「何故苗字だけでなく苗字帯刀?」と思った人、それは時代劇が完全に間違っているだけなのだ。


時代劇をみると商人や農民は刀など一切持たず、なんていうかやられるだけの弱者とされることが多い。

しかしこれは完全な間違い。


江戸時代にはこのような商売がある。

「刀貸し」である。


これは地方などに出張する際にお金のない農民や商人が文字通り護身用に刀を一時的に藩や商人より借りるもの。


つまり、「割と一般人も帯刀」しているのだ。

この一般人の帯刀は秀吉の頃からずーーーーーっと続いていて、案外みんな刀を持っていた。


苗字帯刀のいうのは言わば「苗字を持つ」ということと「長さの制限無く刀を帯刀すること(実際には日本刀自体に長さ制限が生まれ、どんどん短くされたが、その範囲内では無制限)」そしてそれに合わせ「切捨御免などの資格を持つ者」だからこそ「苗字帯刀」という。


ただ苗字を持つわけでもない、ただ「帯刀する」というわけでもない。

だから「苗字帯刀」と一連の資格が呼称されるわけ。


資格が与えられた者は幕府などから認められ、「苗字」が与えられ区別される。

単純な一般人とは「苗字」で区別していたわけだ。



まぁようは商人や農民連中もそれなりにお金があるなら「とりあえず護身用に」と刀を携帯していたわけであり、帯刀以外で区別する必要性があって上記のような状況となっていたわけだ。


武士の中にはそこに目をつけ「道場」を開いてこういった連中を鍛えて生計を立てる者もいた。

江戸後期になると農民も旅行を楽しんだりする文化が生まれたりするわけだが、そういった時に族に襲われても対応ができるようにと案外需要があったわけである。


そしてこの江戸後期においては後にこれが寺子屋などに進化したりもしたし、さらにはそこに通ってる者が「新撰組」などと名乗るような事にも繋がるわけだ。


つまり、「刀」というのは案外みんなもってて、時代劇の刀をもってない農民とかは完全な間違い。

ただし「長さの制限があった」←これが重要だ。


座頭市を思い出して欲しい。

彼が持っているのは基本的に「長ドス」である。

刀よりは短い。


なぜ彼が「長ドス」なのか。


それは「あの時代、一般人が携帯を許された武器の中で最も長いのがあの長ドスだったから」である。


前回筆者はこう書いた「座頭市は、あの時代をリアルに描くために抜刀術を用いた」という話。

抜刀術だけでなく、そもそも「基本武器」自体が時代に合わせたものだったのだ。



ではなぜこの武器を用いて抜刀術を基本戦術としたか。

それは「先制攻撃を許されたのは武士だけだったから」である。


女版を除いた全ての座頭市シリーズを見て欲しい。

これだけは一貫した演出がある。

それは「座頭市は完全な敵陣以外で絶対に先制攻撃をしない」のである。


これは「座頭市がそういう性格だから」ではない。


「武士以外は理由無く先制攻撃してはならない」という法が存在したからだ。

ただし「苗字を持つ者でも理由有り無しに人を攻撃した場合、反撃して相手を殺しても殺した側は罪に処されない」という法も同時に存在した。


切捨御免はあたかも「無差別殺人」を許可しているように思えるが、「反撃されて殺されても文句は言えない」という法的拘束もちゃんとされていたわけである。


ちなみにその「先制攻撃」の条件は「刃が少しでも見えたら」


これでもうわかったであろう。

なぜ座頭市が抜刀術を用いるか。

それはつまり、「法的に許された状況において、最強の戦術が抜刀術しかなかったから」だ。


この演出、本当に徹底されている。

劇中、勝新太郎の座頭市は徹底的に「相手が刃を出すまで攻撃しない」


一部例外はあるが、これは本当に徹底されて演出されている。


ただし「刃を出すまで」が重要。

「先制攻撃は抜いた時点で」ということなのは武士も変わらない。

つまり不必要に刀を抜けば「殺されても文句を言えないのは武士も同じ」


江戸幕府としては武士という立場を利用して職権乱用されては困るので、こうしたのだ。

つまり法的なルールの下では農民以下も武士もある意味では対等で、あくまで「武士は先に抜いてもいい」ってだけ。


これは族のようなそれこそ「ドスの利いた」ようなヤクザもそうで、だからこそヤクザはアレコレ挑発して相手に抜かせるようにしていたわけだ。

ヤクザの「かかってこいコラァ!」みたいな感じの一連の挑発行為は、江戸時代から現代まで引きずっているわけである。


迂闊に抜いた場合、最悪一団が藩などによって皆殺しになるからその辺りは当時から弁えていたといわれる。


というか、「長ドス」を帯刀したあの「ステレオタイプ的江戸時代版ヤクザ」の姿こそ、「あの頃の割と普通な見た目の格好」だ。


それはさておいて、劇中では勝新太郎による最期の作品のラストで「先に抜いたのはそっちだぜ」という台詞で幕を閉じるが、最期にこの演出と台詞をもってきたのは「座頭市とはこういう男であり、こういう世界なのである」というのを証明したかったからだ。


ちなみにこれは北野武版でも徹底されている。

一方で芸人であるビートたけしであるが、彼は公開前の特番でも周囲に説明したとおり、劇中使う長ドスの長さなども吟味しており、また劇中でも「先制攻撃のような不意打ちをしたのはただの下人だけ」で、それ以外は浪人含めて「先制攻撃は一切しない」


長ドスについては重量も長さもとにかく吟味され、演じる上で違和感がない重量の模造刀を何本も作って模索した一方、あの劇中使われた長ドスは「全ての作りにおいて当時存在した物を再現した」もので、素材も吟味されている。


あのために何本も当時の長ドスを収集しており、北野武の自宅にそのコレクションがあるぐらいだ。(波紋など、造りなどを確認するため、少なくとも10本以上はかき集めたという。)


こういった歴史関係の実情は「勝新太郎作品を見て疑問に思ったのでとにかく資料を集めた」というが、そういう演出をきちんと理解した上で引き継いでいる。


劇中、浪人の一人と飲食店で決闘まがいの状況になるシーンがある。

この状況では浪人が抜刀しかけた音を確認してすぐさまこちらも抜刀しかけて戦闘準備開始の状況となる。


ここで監督の演じる座頭市は「一度抜刀しかけて刃を見せたのに、あえて納刀している」のにお気づきであろうか。


これは監督が特にお気に入りと称するシーンの1つだが、実はカメラでよく見えないだけで「刃を完全に見せているか音だけで確認しきれなかったので、ヤベッって思いながら刀を納めている」らしい


例えばここで浪人が「こいつ先に抜いたぞ」と叫んで飯屋の店主が証人になったら、座頭市のストーリーはここで終わるのだ。

だが浪人はあえて何も言わないから、次に座頭市は「アンタも血のにおいがするなあ」と言った訳だ。


彼は「強い連中と決闘」がしたいのであって「座頭市を陥れたいわけではない。」それを表す台詞こそ上記のものなのだと北野武は説明している。

演出家として本当によく構成された一連のシーンだなと思う。


このシーン、割と重要だったりする。


2回目の本番の決闘の際は同じ音がしても「抜いていない」

これは1回目の時点で「まだ抜かない」という浪人の癖を見抜いたため。

逆にここで完全に抜くと投げてくる刀もしくは投げてくる刀の後に対応できないが、意外な駆け引きである。


一方で浪人が小刀を投げた理由は、「そうしてくる可能性がある」と見越した不意打ちであった。

この時点で座頭市が抜いて投げられた刀を逆手で切り上げしつつはじき返したならば、もう一方の本来の刀で、彼が得意である袈裟斬りで勝負がついており、負けていたというのを公開後に国外のインタビューにて応えているが、北野武という人間が国外で評価される理由はここにある。


ようはアレは「達人同士の戦い」だったのだ。(最初の1回目を含めて駆け引きが生じた唯一の敵が浪人のアイツだった)

彼が刀を抜きかけ、小太刀を投げる間にお互いに達人同士の読み合いがあったわけだが、


なぜ日本でそういう説明をしないか?

「君達はそういう所に目をつけたりしないでしょ」という本人の言葉が的を得ているんじゃないかな。


話を勝新太郎に戻すが、劇中、勝新太郎の座頭市は「抜刀術は必殺技ではない」と劇中主張したりしているが、これも「ルールの下ではこの戦闘方法が有効なだけ」というのを認めているからである。


これだけの世界観とリアリティを確立して展開されるからこそ、座頭市は他の時代劇と比較しても図抜けて面白いのだが、恐らく今の若い世代の大半は先制攻撃しない理由などをさっぱり考えていないと思う。


実際は敵陣のど真ん中では先制攻撃するし抜刀術も使わないことが徹底されて演出されているのだが、彼が普段抜刀術を使うにはこんな奥深い設定があったわけだ。

北野版でもこの演出は共通。


いかに北野版が本来の座頭市をリスペクトし、「たんなる模倣」ではない作品として努力しているかがわかる。


ちなみに余談だが、切捨御免や先制攻撃については基本的に「武士が下級の者に対して行う方法」として許されただけであり、武士同士の戦いにおいて突然の先制攻撃は許されていない。


時代劇においては身を隠して先制攻撃して暗殺するシーンなどがあるが、これは「バレたら切腹」だからである。


そう簡単に苗字帯刀している者達は決闘はできないのだ。


そのため、「戦いたいけど刀は抜けないのでどうしよう」なんてことで生まれたのが「鞘当」

気に入らない者同士がコソコソ裏で決闘するが、その意思表示にいきなり刀を抜くと「かかったなアホが!藩にいいつけてやる!」とかいうことになりかねないので、そういうことをした。


例えばそれは浪人同士でも何も考えずに刀を抜けばその地域を自治する者に捕まって罪に問われる。

なので、そう簡単に刃は出す事が出来ない。


鞘当されても動じないというのは相手にその意志がないことである。


まぁ、無くても恨みたっぷりなら暗殺まがいの事はされるので「殺すという意思表示」の現れである。


この場合は「武士として裏で決闘に望むか」「いつ来るともわからない暗殺を待ち望むか」、ヘタをすると相手がそれなりに立ち回れる人物だと決闘にまで発展する可能性もあるが、そのような事例も歴史上実際にあったとされる。


ところでこの一連のエピソード、その話をきいて後に映画の演出を差し替えて特別編に導入した男がいる。

ジョージ・ルーカスである。


ルーカスが日本の時代劇好きなのは有名だ。

彼が不動の地位を確立するに至った作品であるスターウォーズシリーズにおいてはダースヴェイダーに三船敏郎を採用する予定もあったぐらいだ。


そんなルーカス、この話を知ったのはEP4を作ったかなり後の話。

勝新太郎が先制攻撃をしない事実を知った彼は深い感銘を受け、あるシーンを差し替える。


ファンの間では「ハンが先に撃った(Han shot first!)」としてネタにされるシーンである。


そもそもなんで最初は先に撃つ演出だったのか。

それは「米国では先に撃つのが当然という文化」であり、西部劇の一シーンを連想させる一連の展開だから当然「先に攻撃が当たり前でそうした」のである。


クリント・イーストウッドの作品などをみてもらえばわかるが、西部劇においては「先に撃つ」というのが当たり前だ。


相手が危険と判断したら先に撃ってもOKなのは現代でも米国で認められた法律。

無論、「それなりの条件」が必要だが、不用意に他人の庭先に入った際にライフル銃で狙撃されて殺されても文句が言えないのは米国。


まさに米国の歴史と国家自体のスタンスに繋がっている。

その癖先制攻撃された事を何年も騒ぐ姿勢について筆者は「いい加減にしろ」と言いたいけどね。

独立戦争含めて一連の近代米国戦争においては基本的に先制攻撃しといて、遠いアジアの島国にされたら騒ぐのは国としてどうなのか。


私はそこが理解不能だが、とにかく米国においては先制攻撃が「美学」というか「そうしないと死ぬだけ」というのが常識化していた。


しかしルーカスは勝新太郎の座頭市や日本のそういった実情を知ると、深い感銘を受けると同時に「ハン・ソロはそういう男であるべきだ!」と思ったのである。


特別編によって先制攻撃が修正された際、ルーカスは「時代劇ならこうだ」と語っていたのだが、ようはそういうことなのだ。


当然あっちには様々な時代劇や当時の日本情勢に詳しい者達がいたので、それを理解した上で「どの時代劇だ!」と彼にツッコミを入れた。


当然である。

日本においても不意打ちという文化はあるので、「別に修正しなくていいだろ」と思った者がいたのだ。


特にEP5でのダースヴェイダーに対しての先制攻撃が修正されていないため、違和感を感じた者も多いのだ。


とある二次創作ではそれがネタにされ、「なぜ抜刀もしないのにブラスターを撃った!時代劇なら私が抜刀せずに座ってるだけなんだから先制攻撃禁止だろ!」とヴェイダーが批判する作品があるが、


これについての修正も見解も示されていないのは確かに不思議である。


さて、スターウォーズの話はこの辺にして、座頭市についての裏話。

2つほどあるのだが、1つは「座頭市は基本的に時系列順に作品画展開されている」という謎設定がある。


つまり、明らかに若そうに見える香取の座頭市が現状では「最も年老いた世界の描写」とされているが、実はあの「ザ・ラスト」晩年の座頭市が描かれているのはあんまり知られていない。


「いやどう見ても30代ぐらいじゃないか」と思ったそこのアナタ、見た目がそう見えるだけで50代過ぎぐらいの設定なんだよ。


北野版の時点で40代過ぎという設定だったが、勝新太郎が最期に演じた座頭市と北野版はさほど年齢設定が変わらない。

というか勝新太郎作品は中期以降、ほぼ作品内の座頭市の年齢と勝新太郎の年齢が紐付けされている。(劇中の座頭市は実際の勝新太郎より若い設定)


北野はイコール。

よく「北野版はなんか衰えているように見えるなあ」といわれるが、見えるじゃなく「衰えている」設定なんだから間違ってない。


おかしいのは香取のものだけだが、劇中それを仄めかされているシーンが多々あり、一応あんな見た目で「壮年」という設定だったりする。


座頭市シリーズで最弱にしか見えない香取版だが、カリオストロの城と同じく「晩年の姿」を演出しているのだ。


「なんで香取なんだよ!千葉真一とかいただろ!」と思った人、「こち亀みたら大人の事情が影響したとわかるだろ?」と言っておく。


「まーもうそんなことはないだろう」と思った人、残念だが座頭市の版権は2017年12月で切れたので、今後どんな原作イメージレイプ作品が出るかわからないぞ。


一応言うと、綾瀬はるかの座頭市はどの時代にも俗していないパラレルだが、他は演技している者が違うだけでずーっと一直線に時代が過ぎていて、横のつながりがある設定。


あと勝新太郎の座頭市についてだが、「劇中真剣を用いたシーンがいくつもある」というのは少々有名な部類の話だろうか。


それに纏わる不幸は話もあるが、それはwikiでも見てもらうとして、私が特に好きなシーンは勝新太郎の実の兄と技の技術で賭け勝負するシーンだ。


最も最期の座頭市のシーンである。

ここでは実の兄が「俺はこういうことができるんだ」といって小刀を天井に投げて銭を真っ二つにする術を披露。


その上で「この技でもう一度銭を天井に貼り付けにするから、その貼り付けた状態から落ちてくる銭はお前は神速の居合いで真っ二つにできるか賭けをしないか?」と持ちかけてくる。


立場上「居合いなんてできません」という座頭市に対し、「悪いが見ちまったんでな」といって賭けに乗るよう挑発し、上記勝負となるわけだが、ここで見せたあの神速の居合いは「本物」を用いてのものである。


小銭を実際に切断したわけじゃないが、あの剣さばきはよく見えない。


DVDで見てみると、あまりの雰囲気に役者ものまれ、息も止めた状態となったため、斬った後に周囲の人間が凄すぎてため息を漏らすシーンがあるが、この一連のシーン、兄も弟も「真剣」を使っている。


一歩間違えば大怪我だが、こういった「真剣を用いたシーン」があるからこそ座頭市は説得力のあるシーン満載で面白いわけだ。


簡単に抜刀少女なんかで模倣するんじゃない!

やるならせめて「先制攻撃しない」キャラにしてほしい。

割とマジで。


抜刀術を使うキャラは専守防衛というテンプレートが定着してくれないもんかね。

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