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とある男の抜刀術にはきちんとした意味とものすごく深い理由があったのに……(前編)

日本のエンターテイメント作品においてよくある傾向。

特によくある傾向。


それは「表面上だけ真似をするせいで本来の意味が薄れて意味不明になる」


その昔ガンダムの監督である富野氏は言いました。

「何?アニメを作りたい? ならば社会などで経験を積み、歴史を学びなさい。ちゃんと学ばないと本当に良い作品は作れませんよ」と。


この言葉がおもいっきり当てはまる事例があるので今回はそれに関する話をする。

抜刀術についてである。


最近だともう「女の子」「日本刀」というと100%「抜刀術の使い手」みたいな展開になってしまった。

各人のキャラクター設定はどうなのかはさておき、とりあえず「理由もなくなぜか抜刀術を使う」キャラばかりで、戦う前に抜刀した状態で戦闘準備完了するような奴らが微塵もいない。


筆者は構えてないで抜けよって思う。


恐らくこの手のキャラクターの元ネタはルパンの石川五ェ門などが参考にされたと思われるが、もう1つ参考にされた人物として想像できるのが「座頭市」である。


しかしこの座頭市、なぜ抜刀術を使うのか全く知られていない。

「その方が映像的に格好いいから」と思ってるヤツは勝新太郎版の座頭市をみてくればいい。


勝新太郎の抜刀術は正直早すぎてよく見えないぞ。

映像的に格好いい思ったそこの君は間違ってる。

むしろ何してるかわからないから本来ならあんなに抜刀術を多用するようなキャラにしてはいけなかった。


では何故、彼はそんな技を使うのか。


そこには「日本の歴史をきちんと理解した者達が描く人情作品である」という側面があるからだ。

むしろ逆に「彼はあの時代をリアルに描くために抜刀術を使わざるを得なかった」のが正しい。


少し話を歴史にズラそうと思う。

どこから語るべきか難しいが、彼が抜刀術を使う必要性が生じている理由については武士という存在を語らなければならない。


一般的に武士とは何かというと、元々は豪族であった存在である。

この豪族というのを語るのが難しい。

何しろ豪族には様々なタイプがいるからだ。


なのでそこはすっとばして次の段階に移行する。

まず武士とは何かというと、鎌倉時代に生まれた存在である。


この鎌倉時代の武士というのは、基本的に源頼朝が認めた者達だけである。

だが、この「認めた」というのが重要なのだ。

「部下になった」とか「配下」になったわけではない。


あまり中学や高校の歴史の教科書では語られないが、源頼朝は実は割と天下統一に近い立場にあったりする。

幕府を作っただけではなく、天下統一とは何を示すかというのを具体的に示したのが源頼朝だった。


頼朝は幕府を作った際、あることをした。


それはそれまで、オーストラリアだったら肩パットとモヒカンみたいなもんを携えてヒャッハーしていたような連中も、逆にその地で村お越しをした村長的な存在だが、その地を収める者達も「自治権を認め、その地で活動することを許し、彼らの領地を幕府は侵害することがないようにする」というお触書のようなものを各地に配布した。


このお触書によって領地を認められた存在こそ、「武士」である。

頼朝は、自身に従う、従わないに関係なく、このようなお触書を大量に配布。


これによって日本の各地に「武士」という存在が誕生していく。

この者達は幕府に従うものもおり、彼らは税を納めることで様々な待遇を得ていた一方、実は統治権を与えられ「武士」として認められながらも頼朝に従わない者達がいた。


彼らは元豪族だったり元貴族だったり様々な立場であったのだが、ようは「天下統一」とはこういった実力者達を全て束ねた者がなれるというわけだ。


それまでは「存在」は認知されていたが実態調査など、一切行われていなかった状態だったが、頼朝はあえてこの調査に乗り出し、「私の下につけとは言わないが、とりあえずどこに誰がいて何をしているのかぐらいは把握する」ということで、その場所の統治権を認めた上で調査協力をお願いしたわけである。


これによって日本では急速に地図の文化などが発展していく。

それだけじゃない、幹線道路のような存在も作られていくわけだ。

それまで「日ノ本」という意識はあってもバラバラだった日本という存在が点と線で結ばれるようになる。


頼朝が優秀だったのはこれが出来たからこそである。

言わば戦国の世とは、こういった連中が「次は俺が天下をとる」と覇道を歩みだした時代であるというわけだ。


余談だが実は頼朝、他にも面白いことをやっている。

それは「開拓」である。


頼朝は教科書だけ見ると「信長と並ぶ血気盛んな男」と演出されているが、実態としては「日本という国家を本気で作ろうと初めて試みた男」と評価すべきだ。


実は頼朝の親戚は「国人衆」と呼ばれる、開拓者だったりする。

彼らは様々な地を開拓し、東へ東へ、北へ北へと上がり、各地を切り開いていった。


頼朝はこの一族の活動に大いに敬服しており、彼らに出資した上で彼らの活動をサポートするため、わざわざ朝廷に願いでて「国家事業」というような扱いでサポートしていた。


そんな彼らが何をしていたかというと、2つの事業開拓である。


1つは「温泉」を掘り当てて観光地的な集落を作る事。

もう1つは単純な「農地としての開拓」である。


「宿場町」的なものや東海道のような道路を作っていったわけではない。

これらは彼らが切り開いた後に自然に生まれて行ったものなのだ。


今日では有名な温泉街のうち、いくつかは国人衆が開拓している。


鎌倉時代に開かれた温泉街というのは100%この国人衆による影響だ。

そしてこの国人衆が開いた温泉は出資している頼朝の意向により、特定の名前をその地域につけている。


そのため、「名前が他の地域と被っている」というようなことがある。


有名なのは「熱海」と「磐梯熱海」である。

熱海は頼朝が切り開いて作った温泉街なのは有名だ。

彼は温泉が好きだったというのもあるが、国人衆もなぜか割と「温泉好き」だった。


その頼朝の家臣であり、彼の令によって国人衆となった家臣が切り開いた温泉が「磐梯熱海」なのであるが、「磐梯熱海」と名づけられた理由はこの家臣がそもそも「熱海の温泉街周辺の開墾」などにも関わっているからである。


他にも温泉を掘り当ててはいたのだが、この地の温泉は特に良いということで熱海の名を名づけたわけだ。(無論、無断で名づけたわけではない)


国人衆は最終的に岩手県あたりで落ち着き、それより北に向かうことがなかったが、彼らが歩んでいった地域で開拓された場所が鎌倉幕府がある周辺地域と地名が被っている要因にはそんな繋がりがあったわけである。


ちなみに国人衆は武士であるが武士ではない非常に珍しい存在だ。

なぜなら彼らは「戦力のようなものは持たず、農耕や観光事業などを営んで生計を立て、新たな場所に遊牧民のように移動していく」不思議な一族。


専門の研究者がいるぐらい不思議な存在で、基本的には「幕府などからその地域の自治権を得て、その地に根付いた後も戦などには殆ど関与しない」者たちが多く、一方で元藤原家といえども貴族ではなく、なんというか説明が極めてし辛い。


しかも彼らはどの時代においても幕府から一目置かれる存在で、単純な「農民」とは比較できない者達であった。


一般的には「帰農組」と呼ばれ、武士をやめて農家になった者たちも含めてこう呼称されているのだが、単なる農民ではなく、商人よりも上の立場である。


所謂「大地主」と呼ばれる者たちの一部にそんな者がいた。

余談の余談だが筆者の母方が同じ帰農組。


藤原北家八田氏を祖とした一族であり、常陸国にて大昔より農業を営んでいた一族が母方。

父方はいい加減な一族の出ということで全くもって不明。

そんな大層な存在ではなかったが武家出身の父方の祖母曰く「明治維新後、とりあえず有名どころの苗字をつけただけの小成金の末裔」と言ってるので、一体どんな歴史をもっていたかもさっぱりである。


いわゆる小金持ちがお金を出して苗字を買ったかそういう苗字を名乗ったかのどちらかであり、母方の家系や父方の祖母の家系のような「家系図」のようなものが見当たらないし、どこの地域で元々暮らしていたかも不明。


少なくとも母方の方は凄かったらしいが、武家ではなかったということを母方の祖父がよく語っていた。


母方の祖父曰く「ただの農民ではないと大昔からキツく自分の祖父や曽祖父から言われていた」というぐらいだが、その苗字で検索してもそのような事が書かれてるぐらいであるし、農業改革前は周辺一帯全て自身の土地で山も複数持っていてお墓も凄いんで本当にそういう家系なのだろう。


私自身はそんな血が多少でも混じってる気がしないのは「いい加減である」と父ですら言う父方の血が濃すぎるせいでしょうか。


まあそこはいい。

まとめるとようは武士といっても様々なスタイルがあって、別に刀を振り回すだけが武士ではないということが言いたいわけだ。


そんな状況から状況が変わっていくのは戦国の世となってから。

それまで「武士」と称された者たち以外にも武士というのが生まれてくるようになる。


これは様々な理由があるが、基本的には「統治権などを得ている本来の武士というべき存在」に認められ、格上げした者たちである。


そんな立場の男が史上初めて日本で天下統一を成し遂げるわけだから、日本という国は本当に面白い。


天下統一を成し遂げた男は、言わば「本来は武士ではないが、戦国の世において武士となり、最終的に日本国の代理自治を任された人物」なわけである。


一応言うと幕府を作れるのは「頼朝が武士として認めた本来の意味での武士」であったため、彼は幕府を開くことができなかったが、されとて彼も解釈が変わった立場の「武士」であることに変わりはない。


このような新たな意味合いを持つ「武士」というのは江戸時代を経るとどういう立場になったかというと、簡単に説明すれば「地方公務員」である。


頼朝が作り出し、その作り出したモノから天下統一を成し遂げた秀吉までの間に武士の認識が変わったが、江戸に入るとまた1つ状況が変わってくる。


江戸時代における武士とは正確には2つのタイプがいた。

専門家の中には「武家と武士」と2つに分けて考える教授などもいるが、「武家」というと帰農組なども合わせた「大量に土地を持っている者たち」を表し、一方で「武士」というと「とりあえず武士としての資格を持つ者」と表現される。


この武士とは何かというと、「幕府や藩によって資格を得て、上記者たちの下に就いて公務に近い職を得る事で、武士という様々な権利や義務、そして権力を得た者たち」を言い、実は「本人は土地や資産を殆ど持っていない」という例が少なくなかったりする。


その中で最も有名な武士といえば、「赤穂浪士」の「大石内蔵助おおいしくらのすけ」だろう。

彼自身は土地を持っていない。

そのため、再就職を行う場合は「土地などを持つ者たち」の所に就職活動しにいかなければならないのだ。


教科書上の日本史では殆ど語られないが、この「武士」というのは地主ではあるがただの農民の「ボディーガード」や「自警団」のような事をやってたりする事があり、母方の家系には事実、本家の墓の隣にそのような仕事を長年やっていた一族の墓が並んでいたりする。(無論、土地は持っておらず、江戸中期の頃あたりにどこからともなくやってきて以降、明治に至るまで一族単位でそんなことをやっていたらしい)


この人たちは士農工商の考え方がある時代でありながら農民より下だ。

母方一族は本人も農業を営み、小作人と呼ばれる者たちだけに任せない集団であるが、族やらなにやらに対抗するため戦力は必要なので、こういった存在を雇っていて、ここでいうボディーガード兼自警団の武士は土地を与えられる事なく、藩に所属していたわけでもない。(藩から武士としての資格は得ていたが、所属は母方一族の専属であった)


いかにこの「帰農組」という存在が「常識を逸脱した武家であるか」を現すようなエピソードだ。


そのような武士達というのは当然、財政状況などにも合わせて「リストラ」のような状況になることがある。


そうなると「浪人」という扱いになり、各地を移動したりしながら新たな職場を探す。

戦国時代にはそこら中、戦だらけだったので重用された「武士」も江戸時代になると各所では財政難。


よって様々な方向で武士としての立場を確保しようとあの手この手で奮闘したが、どうしようもならない者の中には悪道に落ちる者もいた。


江戸中期を過ぎた頃あたりになるとそういうものが大量に出始めるわけだ。

いわば、座頭市とは、この「時代劇では戦国と並んでとても多く描写される時代」に生きる男なのである。


ちょっと長くなりそうなので今回は武士という存在で締めくくる事にする。

抜刀術の必要性とはいわば、「この時代の武士とは何か」を語った上で深く説明しようと思う。

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