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学園もの

My Lover Ducky.

作者: 森崎緩

 石塀の上を見慣れた横顔が通り過ぎ――かけて、三歩戻ってきた。

 ひょいとうちの庭先を覗き込んで、

「何やってんだ、お前」

 声をかけてきたのは斜向かいの静司くんだ。私と二つしか違わない静司くんは、だけど最近何だか偉そうに接してくる。

 今も、うちの石塀の上から顔を出し、呆れたように私を見下ろしている。

「何って、見てわかんない?」

 呆れるのはむしろ私の方。

 この状況、見てわからないなんてことないと思う。

 ゴムでできたあひるちゃんが浮かぶ水面は、夏の日差しできらきらしている。片手でぱしゃりと水を跳ねると、静司くんはすかさず眉根を寄せた。

「まさか、泳いでるのか?」

「そうだよー」

 どう見たってそうじゃん。水着も着てるんだし。

 こんな日差しの強い夏の日は、泳いで涼むのが一番いい。

「希、お前な」

 静司くんが石塀の上で、わざとらしい溜息をつく。

「今年でいくつになったんだっけ?」

「え? 十六だよ」

 平然として答えてやる。

 だって、静司くんが私の歳を知らないはずがない。嫌味のつもりなんだ、きっと。

「十六にもなって、こんなところで泳ぐか? 普通」

「泳ぐよー」

「こんな庭先で?」

「うん」

「恥ずかしくないのか?」

「ちっとも」

 どうして恥ずかしいのかわからない。ここはうちの庭だし、水着着てたって問題ないでしょ。覗きに来るのはせいぜい、大人ぶって嫌味を言いに来る静司くんくらいのものだもん。

「大体、きちきちじゃないか、ビニールプール」

 石塀越しにそのことを指摘されて、初めて私はむっとした。

「そんなことないよ。ジャストサイズだもん」

「手足はみ出てるだろ。それのどこがジャストサイズなんだか」

 確かに私の両腕両脚は、プールの縁から垂れ下がっている。背中とお尻を水中に押し込んだら、残りの部分はほとんど入らない。子供の頃に使ってたビニールプールは、さすがに十六になった私にはちょっと窮屈かもしれない。

 でもちょっとだけだ。別に差し支えない程度だ。窮屈だって認めたら、静司くんはもっと馬鹿にしてくるだろうから絶対言わない。

「……これで十分なの! 十分涼めてるんだからいいでしょ」

 私が言い返すと、静司くんはまるで馬鹿にするみたいな目をした。

「希さ、お前ももう子どもじゃないんだから、そういう恥ずかしいことは止めろよ」

「何言ってんの。私、子どもだよ。まだ十六だし」

「もう十六だろ」

 と、『もう』の部分を強調して、静司くんは言う。


 それなら十八歳の静司くんは、もう大人なんだろうか。

 大人になったんだろうか。

 私には変わったようには見えないけど――あ、性格は悪くなったかな。何かと突っかかってくるようになったし、変に大人ぶってるし、嫌味だし。

 だけど静司くんは静司くんだ。斜向かいの家に住んでて、同じ高校に通っている、ちっちゃい頃からの付き合いの静司くん。

 私も私のまま十六になった。大人になったような気はしないし、まだ、大人になれなくてもいい。私は何も変わってないはずなのに、静司くんはわざわざ変えようとするみたいに、変に大人ぶったことを言ったり、私を馬鹿にしたりする。最近になってから、ずっとだ。

 昔はもうちょっと優しかったのにな。


 庭先にビニールプールを引っ張り出して、冷たい水を張って、水着姿で浸かってる私を、静司くんはじっと見下ろしている。

 石塀越しに話をするのは妙な感じがした。だけど静司くんは、最近うちの庭に遊びに来ない。代わりにこうして覗き込んでは、私に嫌味を言ってくる。

「見てるこっちが恥ずかしくなるな」

「うるさいなあ。だったら覗かなきゃいいじゃん」

 私は心底そう思う。

 ちっちゃい頃から使ってるビニールプールは、今日みたいな日差しの強い日にはぴったりだ。すごく涼しくて、気持ちいい。私が満足してるんだから、静司くんは放っといてくれればいいのに。

 追い払おうとしてもう一度水を跳ねてやると、ゴムのあひるちゃんが波に浮かぶ。跳ねた水は、静司くんの覗いてる石塀までは届かずに、敷石の上にぱしゃりと落ちた。じゅっと音を立てそうなくらい、庭の敷石は熱くなっている。

「涼むんだったら、プールでも海でも行けばいいのに」

 静司くんが言って、その後でわざとらしく付け足す。

「まあ、お前みたいなのを誘ってくれる男なんていないだろうけど」

「余計なお世話ですー」

 本当に静司くんはうるさい。

 プールにしろ海にしろ、絶対に男の子と行かなきゃいけない場所でもないじゃない。何でそういう言い方をするのかな。

「男の子となんて面倒くさいからいいんだもん」

 私はそう思ってる。男の子なんて苦手だ。一言多いし、意地悪だし、すぐ人のことを馬鹿にするし――優しい子なら好きだけど、そうじゃない男の子は苦手。

「静司くんみたいなうるさい人と行ったって、楽しくないもん」

 私が言うと、途端に静司くんがしかめっ面になる。

「何だよ、俺まで一緒にするなよ」

「ほとんど変わんないよ」

 素早く私は口を返す。

 十六歳も十八歳も男の子は皆、おんなじだ。苦手だなあと思うのも一緒。

「そんなんじゃ彼氏なんて一生できないな」

 馬鹿にしたみたいに静司くんは言い、私ももちろん黙ってなかった。

「いいもん。要らないもん。彼氏はいないけど恋人はちゃーんといるから!」

「――あ? 何だって?」

 その瞬間、静司くんには変な顔をされた。

 石塀の上から覗く顔が怪訝そうにしているから、私はすかさず『恋人』を紹介する。

「ほら、プール遊びにも快く付き合ってくれる、私のあひるちゃんでーす」

 黄色いゴム製のあひるちゃんを掌に乗せ、静司くんに見えるように掲げる。


 お風呂のおもちゃだったあひるちゃんを、ビニールプールに招き入れたのは、ちょっと賑わいが欲しかったからだ。

 海やプールに連れてってくれる彼氏は要らないけど、一緒になって庭先で、ビニールプールで遊んでくれる相手は欲しかった。

 と言ってもこのプールは私一人でジャストサイズ。他に誰かを誘うって訳にもいかず、お声がかかったのが付き合いの長い、このあひるちゃん。


「お前、馬鹿?」

 静司くんが左右の眉を互い違いにしている。

 その言葉は聞き流して、私はあひるちゃんに鳴き声を上げて貰った。きゅう、とご挨拶する礼儀正しいあひるちゃん。水も滴るいいあひる。

「いいでしょ、十年来の付き合いなんだ。もーラブラブなんだから!」

「……付き合いだけなら俺の方が長いだろ」

 と、ちっちゃい頃よりも意地悪になった静司くんが言う。

 でも静司くんよりもあひるちゃんの方がいい。優しいもん。

「あとね、お庭でプール遊びしてても嫌味言わないし、意地悪じゃないし、ジェントルマンなんだよ」

「当て付けかよ」

 私の言葉に、静司くんは頭を大きく振って、それからぷいとそっぽを向く。

 嫌味で意地悪で優しくないって言う自覚は、静司くんにもあるらしい。

 拗ねたような物言いが何だかおかしくなってきて、私は静司くんを放っておいた。

「あひるちゃん、ちゅーしよ、ちゅー」

 オレンジのくちばしに唇を近づける。くっ付けても表情一つ変えないあひるちゃんはクールガイだ。そして静司くんは何も言わずに、石塀の向こうをすたすた歩き出していった。


 後に残ったのは夏の日差しと、ビニールプールと、マイラバーあひるちゃん。

「温くなってきたね、あひるちゃん」

 私が声を掛けると、すかさずあひるちゃんはきゅう、と鳴いた。

 本当、優しい恋人だ。かなり無口で、突っついてやらないと何も喋ってくれないのが難点だけど。

 と言うか――本当はね。静司くんは、昔はもうちょっと優しかったんだよ。

 あひるちゃんは知ってるだろうけど。ちっちゃい頃はうちの庭に置いたこのプールで、一緒に遊んだこともあるし。何回だって、あったから。

 優しかった静司くんのこと、私は結構、好きだった。

 むしろ、すごく、好きだったかな。

 でも静司くんは変わっちゃった。ううん、変わりたがってるんだ、きっと。大人になろうとしてる。

 だから二つ年下の私のことが鬱陶しくなっちゃったんだと思う。外で会ってもこんな感じ、学校では絶対口を利かなくなった長い付き合いの斜向かいのお友達は、もうすぐ友達ですらなくなるのかもしれない。

 手の中のあひるちゃんがきゅう、と鳴く。

 愛くるしい顔をして、慰め上手なんだから。私は少し笑って、温みつつあるプールの水面、お腹の上辺りに彼を浮かべてあげた。陽が射し込んで、水面もあひるちゃんもきらきらしている。


 がさっと音がして、庭の植木が揺れたのはその時。

 顔を上げると、さっき水が跳ねた敷石の上、見覚えのあるスニーカーが乗っていた。更に視線を上げれば、青いTシャツを着た静司くんの、決まりの悪そうな顔が見えた。

「どうしたの?」

 どっかに行っちゃったと思ったから、私はびっくりした。静司くんがうちの庭までやってくるのも久し振りだ。最近は覗き込んでくるばかりで、一緒に遊ぶことなんてなかった。

 私の質問に、静司くんは答えなかった。

 ゆっくりとこっちに近づいてきて、ビニールプールの前でしゃがみ込む。

 睨むように私を見て、ようやく口を開いた。

「希――お前さ。やっぱり、もう子供じゃないよな」

「え? 何で?」

 思わず聞き返すと、静司くんは馬鹿にするようにちょっと笑う。

「中身は子どものままだけど、少なくとも見た目は子供じゃない」

「そう……かな?」

 そんなこと、言われるのは初めてだ。私は何もかも子供のままだと思ってた。でも静司くんから見れば、私の方こそ変わってしまったように見えるのかな。見えてたのかな。

「だから」

 と静司くんは苛立ったような声を上げ、視線をビニールプールに向ける。

 私が浸かってるプールをじっと見下ろしている。

「庭先でこんな格好してるなよ。誰が覗きに来るかわかったもんじゃないだろ」

 覗きに来てるのは静司くんじゃないの、と言い返そうとしたけど、なぜか声にならなかった。

 水着姿でいるのが、急に恥ずかしくなってきた。

 お庭でプール遊びをするのは別に、恥ずかしくない。あひるちゃんと戯れてるのもどうってことない。でも、静司くんの前で水着姿でいるのは、こうやってじっと見つめられるのは、何だか妙に照れる。どぎまぎした。

「いい加減自覚しろよ」

 呆れたような静司くんの言葉は、何について、なんだろう。

 私がぼうっとしている間に、静司くんの手が伸びて、浮かんでいたあひるちゃんが攫われた。

 それからぱしゃりと水の音。

 ビニールプールに仰向けに浸かったままでいる私に、静司くんの影が落ちてくる。陽射しが遮られ、静司くんの顔が見えなくなる。

 素肌の肩を掴まれて、目を閉じる暇もなく、唇にくっついたのはプールの水よりも温い感触。


 私はずっと、ぼうっとしていた。

 昔みたいに優しい顔はしていない静司くん。でも、じっと私を見る目が真剣だった。唇が離れてからもしばらく、すぐ近くで私を見つめていた。

「海でもプールでも、行くなら俺が連れてってやるから」

 しばらくしてから静司くんが、溜息と一緒に言った。

「もう庭先で水着なんか着るなよ」

 答えられなかったけど、そうしようと思った。だって恥ずかしいもん。静司くんに傍で見られるのが、これほど恥ずかしいことだとは思わなかった。肩を掴まれてるから逃げようもない。

「それと」

 静司くんはもう片方の手で握っていた、黄色いあひるちゃんを睨み付ける。

「こいつとは別れろ」

 え、それは無理。

 すぐになんて別れられない。何せ十年来のお付き合い、情も愛もありまくりだ。

 だけどそれを言ったら静司くんなんて――たとえ意地悪だろうと、優しくなかろうと、変わってしまったとしても、絶対嫌いにはなれないんだろうな。男の子は苦手だけど、静司くんは特別だ。優しいからじゃなくて、もっと違う理由で特別。

 キスしちゃったから、もう『斜向かいに住むお友達』じゃないのかもしれない。そうだとしたら、どうしよう。あひるちゃんの代わりに恋人になってもらう? でも、あひるちゃんと別れるなんてことも出来ない。いっそ両方と付き合うのは駄目かな。


 私はまだぼうっとしたまま、ふと、視線を落とした。

 静司くんの青いシャツの裾が、プールの水に浸かっている。

 そのことを教えてあげるのが先か、静司くんの言葉に答えるのが先か。私が迷っている間、愛くるしい顔のあひるちゃんは静司くんの手の中で、ずっときらきらしていた。

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