1 晴れの日の朝
オリーブオイルをひいたフライパンに火をかけ、厚切りベーコンを焼く。野菜を煮込んでおいた鍋にも火をかけ、薄切りにしたフレッシュトマトと千切ったレタスをマスタードとマヨネーズを塗った食パンに挟んでおく。
じゅうじゅうといい音がして焦げめがついたベーコンにブラックペッパーを少々。熱々のベーコンをレタスの上へのせ、サンドすると同時に、温まった煮込み野菜のスープにパセリを振る。
ベーコンレタストマトのBLTサンドと野菜スープのできあがり。ついでに、冷蔵庫にあったいちごも食後のフルーツ用に出し、ティーポットとティーカップを温めておく。
「よし、完璧」
俺は満足げにつぶやくと、二人分の朝食をテーブルへ並べた。
まだ寝ているだろう同居人を起こしに行こうと、寝室へ向かおうとしたところで足を止めた。
振り返った先に、珍しくすでに同居人が起きていて、壁に体を寄りかからせてこちらを見ていた。
まだ少し眠たそうな黒い目で微笑んでいる。
「おはよう晧暎」
「瞑夜。おはよう。今日は早起きだな?」
うん、と頷いて、ベットから起き抜けの格好のままふらふらと歩いてきて、俺の後ろに抱きついた。
そのまま俺の肩越しにベーコンのいい匂いと色鮮やかな野菜スープのいい匂いを思いっきり吸い込む。
「うん、美味しそうないい匂いだ。こんないい匂いで目が覚めるなんて、幸せすぎる……」
幸せをじーんとかみしめるように目をつむる瞑夜。
口から唾液が垂れている。
「幸せなのはわかったからよだれで俺の肩を濡らさないでくれ」
俺が手のひらで瞑夜の額をぐいと押すと、離されまいとしていやいやと腰に回した腕に力をこめてくる瞑夜。
「もう少し! もう少しこの幸せを味わわせて!」
ぎゅうううと抱きついてくる瞑夜の頭を、しかたないなぁと今度はやさしくぽんぽんと撫でてやると、瞑夜は嬉しそうに見上げてくる。瞑夜の真っ黒な瞳が潤む。
「なんか怖い夢でも見たわけ? 妙に甘えてくるね」
「うん、晧暎が女の子になって、芸能界デビューして世界的に超人気アイドルになったあげく陰湿なファンに捕まっておもちゃとしてまわされる夢」
ぴきッと血管が浮く音がした。ついでに手に持ったおたまにもヒビが入る。
「ずいぶんとまあ、気色悪い夢を見たもんだな?」
「ほんとだよ。晧暎をおもちゃにしていいのは僕だけなのに、許せない」
不意打ちで示された瞑夜の独占欲に、俺は一瞬うっっと息を詰まらせ、硬直した。
同居人である瞑夜は、俺をなんだと思っているんだろう。確かに俺は瞑夜の<モノ>ではある。それは俺の生い立ちのせいでもあるが、それだけではない気もする。
思い返せば、昨夜の瞑夜との“遊び”もそうだ。
――ごっこ遊び、しようか?
俺がベッドで就寝前の読書をしていた昨夜、瞑夜が突然そんなことを言い出した。言い方は疑問形だが、これに対する答えにNoはない。これはいつもの瞑夜のわがままのひとつだ。
「うん??」
ときどきこうして突飛な“遊び”を提案してくる。思いついたら即行動という瞑夜の性格に付き合うのには慣れている。が、ごっこ遊びとはなんだ?
「お医者さんごっことか、おままごとみたいなやつだよ。配役を決めて、それになりきるんだ。ちょっとやってみたい。晧暎が潔癖症患者の役で、僕が心理カウンセラーの役ね」
そう言って瞑夜はなぜか俺の上に跨ってきた。さらには、じっと俺を見つめてくる。夜空の色をした瞑夜の大きな瞳に、自分の顔が映って見える。白い髪とダークブルーの目が少し怯えたように揺れていた。
瞑夜の目に映る自分の姿を情けなく思う。俺はこの容姿が好きじゃない。瞑夜がくれた〈モノ〉だから大事にはしているけれど、この体が自分のものだともどうしてか、思えない。
自信のなさを隠すように目をそらすと、頬に暖かな手が添えられた。閉じた瞼のした側を親指でゆっくりと撫でられる。それでも視線を合わせられずにいると、額と額をこつんとぶつけられた。
首の後ろに回した手を組んで、ひと呼吸する。
「晧暎は今、潔癖症患者なんだよ。ほら、嫌なら嫌って言わないと、どんどん汚れていくよ?」
そう言って瞑夜は頬に添えていた手を、触れるか触れないかの距離で、耳、首筋、鎖骨と滑らせていく。
この体は瞑夜の<モノ>。でも、微かに触れられたところから熱があがり、確かに脈打ち、その熱が全身に広がっていく。リアルに作られたこの体。<モノ>なのになんでこんなに熱くなるんだろう。
眉根を寄せて声が出せないままでいると、瞑夜は額に唇を寄せた。長く唇を押し当ててから、ゆっくりと髪の生え際に沿ってキスを落としていく。耳に近づくごとにその音が大きくなる。
「っっ……」
耳にかかった吐息で体がびくりと反応する。俯くと自然に瞑夜の肩に顔を埋める形になって、瞑夜からいいにおいがした。シャンプーやボディソープとも、服に使った柔軟剤のにおいとも違う。これは、瞑夜のにおい。落ち着く、すきなにおい。
いや、潔癖症患者がひとのにおいに満たされていてはだめだろ。
これはいつもの瞑夜のわがままな“遊び”なのだ。瞑夜が楽しんで、満足するまで終わらない。
「い、嫌だ……」
潔癖症患者らしく抵抗するべく、両手で瞑夜の胸を押し返す。連続のキスが止むと、今度は頭を抱えるようにぎゅっと抱きついてきた。
そもそも潔癖症患者ってなんだよ、他人と一緒の部屋にいるもの嫌なのが潔癖症なんじゃないのかという疑問が浮かぶが、そんなものは即却下だ。
瞑夜は心理カウンセラー役なはずなのに一向にカウンセリングしているように見えないという疑問も即却下だ。
とりあえず触られまいとして、そばにあった枕を瞑夜の腹に押し付けると、そのまま力押しで押し倒した。ぼふんとベットの上で瞑夜の体が弾む。
弾んだ勢いに合わせて足技をかけてくるが、それは予想の範囲内! 伊達に瞑夜の相棒を務めているわけではない!
仕掛けられた足技をするりと足抜けして、掛布団で瞑夜をぐるぐる巻きにし、反撃が来る前に素早くベッドから離れた。
これで少しはおとなしくなるだろうと様子を見ると、一向に動く気配がない。しばらく待ってみても、未だ動かない。もしや寝落ちしたかと思い布団をめくると、そこには赤子のように丸くなって震える瞑夜がいた。呼吸が浅く、じっとりと汗をかいている。
その姿を見てはっと思い至る。
馬鹿か俺は!
瞑夜は暗闇が苦手なのだ。それは、もはや苦手というレベルではなく、暗闇に放置されるとフラッシュバックして体が拒否反応を起こすくらいに。
布団にくるまれた瞑夜は、暗闇に取り込まれてフラッシュバックしていたのだろう。声も出せずにいた瞑夜を、俺はただ眺めていたことになる。なんてことをしてしまったんだ。
慌てて瞑夜を抱き起こし、部屋の照明を全灯させる。瞑夜の手は強く握りしめられて白くなっていて、苦しそうに浅い呼吸を繰り返していた。
安心させるように、俺は瞑夜をしっかりと抱いた。汗で額に張り付いた前髪をかき分けてやる。
「瞑夜、目を開けて。大丈夫だから、目を開けて」
俺の腕の中で過呼吸になっていた瞑夜が、うっすらと目を開ける。俺の顔を見て、ほっとしたように深く息をついた。
「ごめん、気づくのが遅れた」
俺が謝ると、瞑夜は、……うん許さない、と小さく言った。言った口元には小悪魔的な笑みが浮かんでいる。暗闇から復活した瞑夜は、もう一度、許さないと言った。
え、いや、許して欲しいんですけど。
俺の願いは叶えられず、いつものわがままに怒りを上乗せした瞑夜が、俺でさんざん“遊び”倒すまで、相当な時間がかかった。
――と、そこまで思い返してしまって、再び赤面する。あのあと瞑夜は本当に悪魔かというくらい、俺を罠にはめるようにあの手この手を披露した。
耳まで真っ赤にして固まる俺を満足そうに眺めたあと、瞑夜はするりと腕をほどいて楽しそうにバスルームへ向かう。
「じゃあ、先にお風呂行ってくる。朝ごはんはそのあとに食べるからね」
心底楽しそうに声を弾ませながらバスルームへ向かう瞑夜。キッチンには、ヒビの入ったおたまを片手に未だに赤面硬直が解けない俺が残された。
せっかくできた朝食が冷めてしまうのも厭わずに、瞑夜の足取りは軽い。そんな後ろ姿に、
「瞑夜のBLTサンド、わさびてんこ盛りにしてやるからな!」
瞑夜は顔だけ振り向いて、目を細めて三日月のような笑みを浮かべただけだった。
あの目とあの笑いは、やれるものならやってみれば? でも、食べ物を粗末に扱うなんてこと晧暎はできないよね? という確信に満ちたものだ。
俺がせっかく美味しくできたものをわざと食べられなくするようなことはしないのをわかっていて、余裕の笑みを浮かべたのだ。
口惜しさが倍増された俺はいたたまれなくなって、キッチンの隅で三角座りをした。瞑夜のいいようにおもちゃにされてどうしようもなくなったときの、俺の心の安息所だ。
窓からはあたたかな日差しが差し込み、青葉が風に揺れていた。