第一話 塔の町
かたかたと椀が揺れ、やぶ汁の飛沫が跳ねる。
少年は億劫げに椀を手に持つと、臭味の効いたやぶ汁を一気にかきこんだ。続いて、同じくテーブルの上で震える燃料麦の椀に手を伸ばす。まずくはないが、おいしくもない。代々ここに暮らす一族は燃料麦を食って生き永らえてきたと少年は聞いていたが、よくもまあ何百年も同じものばかり食べて過ごせるものだ、と内心は呆れてもいた。
「ごちそうさま」
少年は椀をテーブルに置き、尻の下で微動を続ける椅子から腰をあげた。すると少年の父親が、口の周りをやぶ汁の油脂でてらてらと光らせながら言った。
「今日はどこへ行くつもりなんだ」
「北の摩天楼まで」少年は得意げに続けた。「あそこまで行ったことのある奴なんて、いないんじゃないかな。ぼくが一番乗りだ」
「気をつけろよ。あそこらは足場板が老朽化してるんだから」
父親は投げやりな調子で言った。少年にいくら注意をしても聞きやしないと、半ば諦めているような口調であった。
少年は家族が食事を続ける居間を抜け、どたどたと階段を登って自分の部屋に辿り着いた。相も変わらずぎしぎしと揺れる壁と天井からは、常に埃が落下している。
少年は愛用しているバックパックを肩に引っ提げ、部屋中央の梯子に足をかけた。慎重に一歩一歩上へと昇って行く。以前に揺れる梯子から誤って転落したことがあって、それ以来彼は登り降りには気を使うようにしているのだ。
梯子を登り切ると、簡素な屋根のついた屋上に出る。少年の暮らす家はここらで一番高いこともあって、群青に澄み渡った空と色とりどりに輝く町中とを見渡すことができた。
塔のように細長く聳え立つ無数の家々は横断橋や足場板で繋がれており、それらが複雑に入り混じって奇怪な様相を見せている。また家々は見渡す限り遥か下まで階層が続いていた。
それにしても、と少年は思う。
(この揺れさえ無ければ、壮麗な景観の元快適な毎日を送れるはずなのに)
揺れは少年が産まれるよりもずっと昔から継続的に続いており、いつから始まったのか、なぜ起きているのか、諸々のことはその一切が不明のままだった。塔の町に暮らす人々の生活には揺れが深く根付いており、文句などは誰も口にしない。少年にとってはそれが不思議でならなかった。
(どうして、四六時中鬱陶しい揺れを我慢できるんだろうか。その場に立っているだけでも気持ち悪くなってくるってのに)
今日、少年の目的はただ一つ。揺れの原因を見つけることだった。少年は何度もそのことを言い張り続けてきたが、無頓着な大人たちはまるで相手にしなかったのだ。少年はバックパックの紐を解き、中からくしゃくしゃになった黴紙の巻物を取り出した。鉛筆で書き殴られたこの町の地図であり、少年が方々を周って作り上げた汗と涙の結晶だった。
さてと、少年は思った。
(まずはあいつの家に寄らなくてはならない)
少年は足場板に一歩足を踏み出した。
綱の手すりを引っ掴み、みしみし音を立てる足場を渡りきる。初めの内には誰しもこの小さな足場を渡ることに怖気付くものだが、その内に慣れてしまうものだ。それに少年にとっては、ここいら一帯は自分の庭のようなものだった。複雑に結ばれた通路を進み、ある家の前で足を止める。
「おーい、いるか。行くんだろ、探検」
少年は扉をごんごんと叩いて言った。
しばらくして、真っ黒に日焼けした黒髪の少女が顔を出した。
「ごめん、ちょっと待って、今準備してくるから」少女はそう言って、ばたんと戸を閉めてしまった。少年は早くしろよ、と呟きながら青い空を見上げた。雲などひとつも浮かんでいない、晴天だった。
「お待たせ」
かれこれ20分ほど経ったのち、再び少女が戸口から姿を現した。彼女は裾の長い水色のワンピースを身に付けており、肩には少年と同じく古びたバックパックを提げている。
「早く行くぞ」
少年は少女の手を引いて歩き出した。
軋む足場をひょいひょいと渡る少年。少女はその後を遅れ気味についていく。少年は彼女が遅れをとる度に立ち止まっては待ってやった。
「なあ」道のりを半分ほどまで進んだ時頃、休憩中に少年は言った。「お前は、何で揺れが起きるんだと思う?」
「うーん……」
少女は苗葉を揺れにひらめかせる燃料麦の畑に腰をおろし、小首を傾げた。
「ぼくは、きっと地下に何か秘密があるんだと思う。摩天楼の内部は、他の家と違って空洞になってる。下まで辿っていけば、きっとそこまで行けるはずだ」
「もし、何もなかったら?」
「その時はその時だ。大人しく、揺れと一生を共にするよ」
少女はませた台詞を吐く少年を苦笑しながら見上げた。活発な少年とどちらかといえば内向的な性格の少女とは、奇妙にうまが合った。二人は生まれついた時から、この町を走り回っていたのである。
「よし、行くか―」
少年が腰を上げかけたその時だった。
突如ごごごごごと轟音が鳴り響き、屋上に燃料麦の畑を設置しているその家も、さっきまでとは比べ物にならない程の大きな揺れに身を震わせた。
足場板に向かって足を踏み出していた少年は、バランスを崩してゆらりと体をくねらせた。
「危ない!」
少女は咄嗟に、真っ逆さまに落下しかけた少年の足をぐいと掴んだ。
少年は足場板から宙ぶらりんの状態で垂れ下がる。
少年は死にもの狂いに手をばたばたと振り回した。
眼下には下に向かって収束する家々とそれを繋ぐ足場がちらついている。運よく足場に着地できれば大怪我だけで済むかもしれないが、受け止めてくれるものがなければ奈落の底まで落っこちていくだけだ。下に落ちたものがどこへ行くのかは、誰も知らない。
(突発震だ。この頃少ないから油断していた)
少女は懸命に腕に力を込めたが、努力虚しく少年の体はずるずると下へ滑り落ちていく。
「もういい離せ、お前まで死ぬな!」
少年はがなりたてたが、少女は聞く耳を持たなかった。その内突発震は治まったが、細かな揺れは止まらない。二人はじりじりと足場板から体をせり出してゆく。
「……いいのか」
少年は掠れる声で言った。
「あなたが死ぬときは、わたしも一緒だから」
少年が言葉の意味を咀嚼する前に、少女の体が重みに耐えきれずにずり落ちた。
二人は風にまかれながらくるくると落下していく。
体の横を凄まじい速さで家々が通り過ぎていった。
少年があてもなく宙に突き出した手を、少女がぎゅっと握りしめた。
手をつないだ二人は、吹き付ける横風に目を瞑りながら、どこまでも落ちていく。
どこまでも、どこまでも深く。