7 星の支配者
周囲の岩は、さっきまでと比べて大きくなってきた。山のようにも崖のようにも住処のようにも見える。
足元はもう苔の絨毯で、一歩踏み出すごとに靴の半分くらいまで沈み込んだ。ぐじゅぐじゅとした足音を極力たてないようにして、二人は進む。
「こんなんじゃ、いざって時にすぐ逃げられないよ」
靴の裏から糸を引く苔を忌々しげに眺めて、トーマが呟く。
「静かに」
ミトが制する。
その生物は動きを止めて、一際厚く苔に覆われた岩に腰かけた。どうやらあれは椅子らしい。岩の周囲には他に大きな岩などはなく、二人はやや離れた岩の影からその様子を窺った。
「光合成、かな」
岩の上で動かなくなった生物を見て、トーマが不思議そうに尋ねる。生物は座ったまま微動だにせず、霧の中からわずかに差す光を浴びているようにも見えた。
「そうかもしれない。あの生物は苔が作った栄養で生きているのかもな。植物を身の内に飼っている種類の魚が、俺たちの星にもいただろう。魚は栄養を、植物は移動手段を…」
「ちがう」
ミトが言い終らない内に、トーマが呟いた。
「あの生物は苔と共存しているわけじゃない。苔に支配されているんだ」
見ると、岩を覆っていた苔は少しずつ生物の身体に移り、もぞもぞと動きながら体中に拡がっていった。のそり、と重そうに生物は動きだす。
「移動するぞ」
ミトは素早く岩の陰を渡り、身を隠した。生物は滑るように、奥のもっと大きな岩のところまで進む。その岩の苔には、花が咲いていた。
「…!」
二人は絶句した。岩のように見えたそれは、今まで二人が見ていた生物より一回り大きい、別の生物だった。小さくて黄色い花は、その生物の口だった穴から溢れるようにして咲いていたのだ。もう動かないその大きな生物に向かって、先ほどから二人が追っていた生物の体に付いていた苔が移動していく。
この星の苔たちは、光合成よりももっと確かで効率のいい栄養補給方法、生物の骸を苗床にしてその残った栄養分を吸収することを覚えたのだ。共存ではない、移動手段と栄養分として利用しているだけだ。
「はやく、船に戻ろう。この苔には意思がある」
ミトの袖を掴んで、トーマが訴えた。
「くそ、なんだってこんな星を、調査もしないで今まで放っておいたんだ?」
ミトは苛立たしげに呟く。
この星の生物は、二人の存在に気づいても一切の関心を払わなかった。あの苔の奥に、聴覚や嗅覚など二人とそう変わらない感覚器官があるのかもしれない。しかし行動の一切を制御しているのは、生物自身ではなくそれを覆うあの苔だ。あの苔が繁栄するためだけに、この星は存在している。
「うわっ、なんだ?」
突然、ミトは自分の手が強い力で引っ張られるのを感じた。最初は、トーマが自分の訴えを無視したミトに腹を立てたのかとも思ったが、そんな考えは一瞬で消えた。ミトが手をついていた、二人が身を隠している岩。きっとこの岩ももともとは生きていたんだろう、足元に比べ苔が厚く生えている。なぜ、もっと早く考えが及ばなかったのだろう。
「ミト!」
岩に生えている苔に引きずり込まれそうになっているミトの手袋を、トーマが無理やりミトの手から外した。片手では手袋のベルトを外せず焦っていたミトは
「助かった」
と掠れた声でトーマに告げた。手袋は岩の上を滑り、見る見るうちに苔に覆われていく。
二人は走り出した。もう一刻だってこの星に長居すべきではない。途中、何度か岩に足を取られて転びそうになった。地面の岩にはちょうど片足がすっぽりはまってしまうようなサイズの穴がいくつか開いていて、その穴の正体に勘づいた二人は一層の速さで駆けていく。
たどり着いた船の足元にも、よく見れば小さくて黄色い花が咲いていた。その花もやはり岩に開いた穴から生えていて、岩の持つ残り少ない栄養分を吸い切るように咲いている。
「トーマ、靴を脱げ」
船に入ろうとするトーマの後姿を見て、ミトが叫んだ。
「え?なんでさ」
少し苛立たし気に靴を見たトーマは一瞬息を飲み、慌てて靴を脱ぎ捨てた。ミトもまた船に乗り込むとき、糸を引きながら苔がたかり始めている靴を脱ぎ捨てた。
船の窓から外を見ると、岩の上の苔も少しずつ動いているようで、まるでこの星全体が巨大な生き物のように見えた。二人の靴も、苔にとっては軽くて移動に適した素材らしい。ゆっくりと滑るように船から遠ざかっていた。
あの生物は、どうなったのだろう。とミトは考える。ここからでは姿を見ることはできなかった。ここで、苔に支配されながら、ゆっくりと岩になっていくのだろうか。彼もしくは彼女に、自分の意思は、意識はまだ残っているのだろうか。
「せめて、ずっと眠っていてほしいよね」
ヘッドフォン越しにトーマの声が聞こえた。考えていたことを口に出していたわけではないが、トーマもミトと同じことを考えていたのだろう。
水分と空気、光を必要として生きているらしい苔は、船にも若干付着していたがすぐに消えた。ジェットの炎に焼かれ、真空の中で塵になっていく。たったこれだけなのに、とミトは思う。火で焼けば、空気を絶てばあっという間に死ぬ苔なのに、あの星のヒエラルキーの頂点に君臨して今も支配し続けている。自分の星にも、こういう生物はいただろうか。ふとそう考えて、思わず「俺たちか」と呟いた。
「え、なに?」
今度はトーマも同じことを考えてはいなかったらしい。
「何でもない。次の星はもうすぐだ」
ミトは船中の空気の濃度や気圧のメーターを確認しながら言った。トーマは何も答えなかったが、船の速度は少し上がった。