1 寝台特急
「やあ、準備はいいかい」
トーマが笑顔で話しかける。日の落ちた駅のホームは、まるで小さな島のようだ。きっと自分が鳥だったなら、遥か上空から、半年に一回だけ寝台特急の停まるこのホームだけがぽっかりと明るく光る様子が見えるのだろう。
その島のごく端っこで荷物を背負いなおしながら、ミトは答える。
「万端だよ。そっちこそ、体調はもういいのか」
ミトの表情はやや暗く硬い。生来、体が丈夫ではないトーマは一昨日までひどい熱を出していた。
「大丈夫さ。とりあえず、座っている分には問題ないと思うよ」
苦笑いで頼りないことを話すトーマに、ミトの無表情もさらに曇る。
「なんだよ、随分と弱気じゃないか。」
「体さえ順調に動けば、そう問題もない旅だよ。その体に不安が残るようじゃ、仕方がない」
自嘲気味に俯き笑うトーマの手を取り、ミトが言う。
「まさか、今日はやめとこう、なんて言うんじゃないだろうな。行くぞ、もう汽車が着く」
くぐもったアナウンスが、混雑した駅のホームを流れて二人の耳に届く。
お待たせいたしました、45番線、72両編成、セントラル空港行、寝台特急ミルキー、間もなく到着します。繰り返します、45番線…
長い長い廊下を、押し合いながら二人は進む。安い客室車両は人でごった返していたが、その混沌具合が今の二人にはちょうど良かった。
二人がやっと部屋にたどり着いて、ドアノブに『起こさないでくれ』の札をかけ、荷物を下ろしたとき、もう二人が出発したはずの駅の明かりは跡形もなく見えなくなっていた。
夜のインクで真っ黒に塗りこめられたような窓に写った自分を、ミトはぼんやりと眺める。まるで、通過した町の中の明かりをすべてこの汽車に詰め込んでしまったみたいに、外は真っ暗だった。
「ふう、とりあえず明日の朝までひと心地、かな」
二段ベッドの上段に寝そべり、トーマが深く息を吐く。
「朝、じゃない。日が昇る前には降りるぞ。今のうちに眠っておけよ」
備え付けの椅子に腰かけ、ミトは低い声で言う。
「わかってるよ、そんな怖い声出さないで。心配しなくても誰も聞いてやしないよ」
トーマはそう言ってから、話題を変える。
「何回聞いても思うけど、このいかつい豪華列車に『ミルキー』なんてメルヘンチックな名前、似合わないよね」
「昔、何処か遠い星から来た旅人が、自分の星ではこの辺りの星団のことをまとめて『ミルキーウェイ』と呼んでいると伝えたそうだ。そこから名前をもらったんだよ」
「知ってるよ。その旅人、この星に来た最初の星外旅行者だったんだろ、この星で最初の長距離寝台特急にぴったりだよね」
「名づけ親としては、な」
窓枠の端に打ってある列車の名前のエンブレムを撫でながら、ミトは言う。確かに全く、この汽車の雰囲気じゃない。
今乗っている車両も古いが、それでも90年前に完成した第196代目だ。記念すべき初代のミルキーが走っていたころ、この星に最初の異星人がやってきたころとは、どんな時代だったのだろう。
今やこの星に住む人の半分以上は異文化・異言語を持つ異星人だ。この辺り一帯の星の間ではいくらかの交流があり、共通語を介してコミュニケーションがとれる。友人同士の会話程度の難易度なら全く問題なく解りあうことができるのだ。共通文字はまだまだ普及しておらず、一部の教育水準の高い星を除いて識字率は低いままだが、それもあと数十年後には何とかなっているのかもしれない。
でも、と、ミトは思う。この星に初めてやってきた異星人は、どうやって『ミルキー』という言葉を残したのだろう。この星の誰も異星人に接したことのなかった時代、言葉が通じる人などいなかったはずだ。この星にとって、全くの異物。言葉も見た目も文化も常識も、全く違う生命体。それは、この星に歓迎されたのだろうか。
当時のことを探ることは、禁じられている。今から二人は、それを探ろうと旅に出るのだ。
「おやすみミト。君も、早く寝なよ」
トーマはそう言うと、寝返りを打ってミトに背を向けた。
「おやすみトーマ。しっかり休めよ」
ミトは明かりを消すと、自分もベッドに潜った。目を閉じると、ちかちかと瞬く光の残像がミトを包む。孤児院にいた頃に周りの子どもにも聞いたけれど、恐らくミトほど瞼の裏がはっきりと見えている人はいないらしい。大人は気味悪がって病院へ連れて行こうとしたけれど、費用がなくて結局いまだに行っていない。
でも、ミトはそれでよかった。あるときはパラパラとページをめくるように、あるときはくるくると巻物が広がるように、同じようで違う模様が列をなしてミトの頭の真ん中を通過する。疲れていたり緊張していたりすると特に動きは活発だ。そんな瞼の裏の世界を、ミトは気に入っていた。
ミトは夢とも現ともつかなくなりながら、その模様をぼんやりと眺める。微かな振動を伝えているミルキーは、超特急でこの街を離れている。
不思議だ、とミトは思う。自分は静止しているのに、実際はすごい速さで移動している。なにしろたった2泊分の時間で、星の反対側にあるこの街と空港とをつないでしまうのだ。駅を出発してから30分、もう自力では引き換えしようのないところまで、進んでしまったのだろう。自分は、寝転んだままなのに。
列車の去ったあと、光の小島は姿を消した。人も灯りも消えてただのホームになったあの場所には、いくらかの決意と不安と興奮が取り残されて、雲みたいに行き場なく浮かんでいることだろう。ついて来られなかった後悔や散々引っ張られた後ろ髪も、今は遥か後方。
二人の密航者は深い森みたいにコトコトと眠る。豪華列車はガタガタ言わず、大勢の希望と街中の光を乗せて、ただ静かに夜の闇を滑っていった。