縁 ─光秀─
とさっと何か軽いものが落ちた音がしたような気がして、光秀はふと庭を見た。どうやら気のせいだったようで、再び目の前に敷いた紙に徳川殿を饗応するためのあれこれを書き付けるべく、硯で墨を摺り出した。庭の花木がさわさわと揺れるだけ。
さりさりさりさり……。
「光秀さん」
「ひっ」
びっくぅっ!と、突然の来訪者が死角から顔を覗かせてきたため、光秀は驚きのあまり摺っていた墨を硯の海へ沈めてしまった。だいぶ小さくなっていた墨だったため、全身が浸かっている。
お蘭と光秀、二人して黙り混む。
驚いて墨を落とした光秀本人も予想外だし、お蘭からしてみればまさか摺っていた墨がこのようにして悲しき運命を辿るなど、ついぞ予想だにしていなかったのだ。つまりは不可抗力。
光秀が筆でちょいちょいと海から墨を脱出させようと試みるけれど、なかなか上手くいかないもので結局観念したようにお蘭を見た。
「それで何用ですか」
「いや、あの…………驚かせてごめんなさい?」
「いいんです、後でどうにかしますので」
何も起きなかったとばかりにこちらにしれっと話しかけてきたので、一連の行動を目の前にしたお蘭はさすがに罪悪感を覚えた。だって自分のせいで墨を沈めてしまったのだから。
だからとお蘭は文机の前に膝で立ち、袖を軽く捲ると、とぷんと硯の海にさざ波を立て、指で宝の石を探した。こつんとあたった感触をつまんで陸へと引き上げる。そのついでに懐紙で余分な墨汁を拭き取った。
光秀はぎょっとしていたが、不思議なことにお蘭の指には墨汁一滴ついていなかった。
「……いつも思うんですが、そのからくりが気になります」
「秘伝の技だから教えられないわよ」
あははと笑って言えば、光秀は心得たように頷いて、改めて要件を尋ねてきた。お蘭は居ずまいを正す。
「それで、わざわざお蘭殿が来た理由は何ですか」
チュンチュンと一匹の雀が光秀さんの部屋の前庭にある濃い薄紅の花木の枝に止まる。そちらへ視線を向けつつ、お蘭は答える。あ、雀がもう一匹来た。
「ええと……説得かしら?」
「……なんで疑問系なんですか」
二人してまたもや黙り混むから、一瞬の静寂が訪れようとする。けれど前庭の雀たちがチュンチュン喧嘩し出したので賑やかしい。
「まぁ、殿からの言葉をそのまま伝えると、こうよ。お猿さんが援護要請してきたので、その先駆けとして光秀さんに京へと上がってもらって、兵を集めてほしい。殿自身は供回りを少なくすることで、移動の負担を少なくしたいんじゃないかしら」
お蘭の言葉に光秀は成る程と頷いた。けれど少し困った顔をして、ですがと主張する。
「私は今徳川殿の饗応の任についています。これを途中で放り投げては徳川殿に失礼に当たりましょう」
「そう言うと思った。殿はきちんとあなたの後任も決めるつもりだし、織田に協力を申し出ている徳川ですもの。事情は理解して、貴方を快く送り出してくれるんじゃないかしら。それに京で大々的に兵を集めるなら、貴方がうってつけって殿は考えてらっしゃるんじゃないの? 私でもそうするし」
チュンチュン喧嘩していた雀のうち、先に枝に止まっていた雀が枝から落ちかけて、空へと羽ばたいた。それを見送ってから光秀に視線を戻したお蘭は、微笑んだ。
「行ってくれるかしら?」
「……行かねば打ち首か切腹でしょう」
「あら。さすがの殿も光秀さんみたいに利になる人を簡単に殺すわけ無いわ。あの人、怖いくらいに合理的だもの」
知ってますよそんなことはと言わんばかりに大きなため息を一つつく光秀。どうやら従う気になったようだ。
さりさりと先ほどお蘭がつまみ出した墨をもう一度摺り始める。そして摺り終わると何事かを書き付けた。人の書き物を覗き見るはしたないことはあんまりしたくないので、お蘭は気になりつつも、視線をそちらへ向けないように注意深く逸らした。ついと視線をあげて先ほどまで雀がいた花木を見つめる。変わった花だった。
目を凝らしてみれば濃い紅の花弁は桃の輪郭と同じで、それが無数に枝の上で列を成している。枯れかけているようで、花が咲いている枝は半分ほどしかない。
「……まぁ、やるしかないでしょう。それではお蘭殿、この文をうちの城の者に渡すよう手配してくださいませんか。一度、坂本へ帰ってから行くことにします」
「御了解」
さらさらと書き付けた文をお蘭に渡し、光秀は筆を置いた。姿勢をただしお蘭に向き直る。こういう光秀の所作を見ていると、やはり光秀は育ちが良いことが伺えた。
「徳川殿には折を見て、話しておきます」
「お願いします。それじゃあ、私はこれにて……」
お蘭が立ち上がって廊下へと出る。さて次は誰の元へと行くべきか。
視界にちらつく紅の花が気になって、考えながらもそちらに視線を移していると、光秀がそれに気づいたようで。
「花蘇芳と言って、大陸渡りの花です。とても珍しく、南蛮商人から買い取ったのは良いものの、なかなか環境が会わないようで殿に献上する前にほとんど枯れてしまいました」
「一枝でもいいから差し上げればよかったのに」
「どのみち花なぞ腹の足しにならんと言われるのが目に見えてますよ。本当は帰蝶にも見せてやりたかったのですが……」
光秀はそう言って目を伏せる。
お蘭が調べたところによると、帰蝶という人は主君の正室だった方だけれど、お蘭が仕えるよりもずいぶん前に亡くなっている女性だった。光秀とは親戚だったようだから、感慨深いものがあるのかもしれない。
「仕方の無いことですよね」
くすりと笑った光秀に、お蘭は振り返った。
「そんなこと無いわ。そういう温かい心を持ち続けるのは大変なことだもの。素敵なことよ」
お蘭が想像以上に食いついて言うので、光秀は一瞬気圧されてしまった。それからますます目尻を下げて、柔和な面持ちになる。
「貴女が心からそう思っているのならば、それは確かなことなんでしょうね。お蘭殿は以前とは見違えるほどに健やかに育ちなさった」
くすくすと笑われながら数年前の、まだ安土の城に来たばかりの時のことを引き合いに出されて、お蘭はばつの悪そうな顔をする。それから逃げるようにしてそそくさとその場を立ち去った。
さて、誰の元へと行こうか。




