縁 ─おなへの方─
天気、快晴なり。
空はからりと澄みわたり、陽気な風がふんわりと頬をかすめ、花の甘い香りが芽吹く季節。穏やかでゆるりとした空気だ。庭に咲くつつじが紅白に染まってなんとめでたいこと。
こんな時はお散歩でも致しましょうと、一人の女中に付き添われて、おなへの方はゆっくり庭へと降り立った。
春一杯の空気を吸い込んで、ほぅ……とため息をつく。
「このところ部屋に籠ってばかりだっからすっかり足が怠けてしまっていますね」
ふふふと笑いながらおなへの方は女中に支えて貰いつつ庭を巡る。女中はおなへの方に合わせて歩調を緩める。
おなへの方はここ数日、体調を崩して部屋にずっと籠り続けていた。体調が良くなっても春の移ろう冷気に当たればまた悪くしてしまう日が続いていたのである。やっと日がな一日起きていられるようになったので、こんな御天道様が元気な時くらいはと女中が連れ出したのである。
ふと女中の目に、緑に混じるつつじ以外の色彩が飛び込んだ。
「おなへ様。蝶がおりますよ」
「まぁ、ほんと……なんて愛らしい」
温かく柔らかい黄の蝶がひらひらと目の前を横切り、おなへの方はゆるゆると頬を緩めた。つられて女中もかすかに微笑む。
二人で庭をぐるりとしてみようかと、小石を鳴らして散策をしていれば、不意に女中の耳が手を叩きながら名を呼ぶ声を拾った。
ぱたりと足を止めた女中に、おなへの方が不思議そうな顔をした。
「どうかしましたか」
「……殿が呼んでるようです」
耳をすませば……やはり自分の名前を呼んでいる声が聞こえた。このまま無視するのはさすがに不味いけれど、かといっておなへの方をおいていくのもちょっと……
仕方なく女中は小袖の襟元からするりと小さな木製の筒を取り出して、ふぃーと息を吹き込んだ。
細く細く、音がたなびいて、やがてやまびこのように音が帰ってきた。僅かに自分の鳴らした音より低い。これは応え。一人、自分の呼び笛に応えたようだ。
「別の者が参りますので、その者と入れ換えで私は殿の所へ行きますね」
「まぁ。気にしないで行ってらっしゃいな」
「しませんよ。私が直にお叱りを受けてしまいますから」
おなへの方の気遣いにありがたく思いながらも首を振る。こんなところに病み上がりのおなへの方を放っておいたら、冗談ではなく首が飛ぶんじゃなかろうか。そんなヘマをする自分ではないけれど。
間もなく音もなく、一人の青年がすぐ横にあった松の蔭から姿を現す。
男にしては細い線でしなやかな体つき。化粧をすれば女性とも見間違えるような青年が女中に声をかけた。
「頭様。何用です?」
「宗二。殿がお呼びになってるようだから、おなへ様をお願い」
「あぁ、なるほど。よろしいですよ」
宗二が承諾してくれたので、女中はおなへの方に向き直る。
「それではおなへ様、失礼致しま……」
おらん、おらん、おらんのかー!
「…………」
「すごく呼ばれてますね、頭様」
「まぁまぁ、わたくしにまで聞こえましたわ。早くお行きなさいな」
「……それでは」
女中は一礼すると、空を仰いだ。
真っ青な空にそびえる安土の城。白塗りの壁も黒い瓦ももうすっかり見慣れた光景だ。普段お住まいになっている長屋の方からではなく、頭上から声が響いてきたわけだから、己の名を呼ぶ声は城の中。
断続的に聞こえる声から、今は城の東の方かと特定。移動しているようで、声の流れが一定していない。
ふぅ、と女中は息を吐いた。それから助走をつけて城の壁めがけて走り出す。
小袖の裾が翻り、細く白い足がむき出しになるが気にしない。
いつの間にか移動していた宗二が壁の下で手を組んでいる。宗二の重ねた手の平に思いきり踏み込んで、女中は飛び上がった。
鞠のように跳ねた女中は高く高くとんだ。風の流れを自らで生み出して、空を駆け上がっていく。けれど少し高さが足りなくて、三階の瓦を掴むとそのまま体重を腕で支えるようにして大回転、着地。
庭先でそれを見ていたおなへは口元に手をあてがうと、もう片方の手で宗二をちょいちょいと手招いた。そっと耳打ちをする。
「女の子なのだから、もうちょっと気にさせてあげてくださいね。お着物、着崩さないように」
その一言にぱちりと目を瞬くと、宗二はくすりと微笑んだ。
まさか我らが頭にそんな事を言うものが現れるとは。
宗二はしかと承りましたと微笑みながら頭を垂れた。




