寃 ─愛宕百韻─
愛宕の山中で風が凪いだ。
「ときは今天が下しる五月哉」
神に捧げるは己が野心。
言葉を連ねてこの意思を天へと。
──水上まさる庭の夏山
──花落つる池の流れをせきとめて
──風に霞を吹き送るくれ
──春も猶鐘のひびきや冴えぬらん
──かたしく袖は有明の霜
──うらがれになりぬる草の枕して
──聞きなれにたる野辺の松虫
──秋は只涼しき方に行きかへり
奉納する者たちの傍ら、一人の亡霊がにたにたと唇の端をつり上げて笑っている。
「尾上の朝け夕ぐれの空」
雲の隙間から月光が差し、連なる者たちの面を照らす。亡霊の姿は夜闇に紛れ、かき消えた。
──立ちつづく松の梢やふかからん
──波のまがひの入海の里
──漕ぎかへる蜑の小舟の跡遠み
──隔たりぬるも友千鳥啼く
──しばし只嵐の音もしづまりて
──ただよふ雲はいづちなるらん
今宵は満月。
煌々とした月が暗き闇に差し込む唯一の標。
「月は秋秋はもなかの夜はの月」
亡霊が囁き続ける。
天下をとるべき者は誰かと、誰何し続ける。
──それとばかりの声ほのかなり
──たたく戸の答へ程ふる袖の露
──我よりさきにたれちぎるらん
──いとけなきけはひならぬは妬まれて
──といひかくいひそむくくるしさ
──度々の化の情はなにかせん
──たのみがたきは猶後の親
──泊瀬路やおもはぬ方にいざなわれ
どろりとした闇の中で嘲笑う。
「深く尋ぬる山ほととぎす」
呪いごとのように儀式が行われる。
仄かに暗き、闇夜の支配。
──谷の戸に草の庵をしめ置きて
──薪も水も絶えやらぬ陰
──松が枝の朽ちそひにたる岩伝い
──あらためかこふ奥の古寺
──春日野やあたりも広き道にして
──うらめづらしき衣手の月
ざわつく雑木林が恐怖を駆り立て、その場の全ての生き物の畏れを煽る。
「葛のはのみだるる露や玉ならん」
今宵は満月。
しかし雲に隠れてしまってはその明るさも十分には届かず。
──たわわになびくいと萩の色
──秋風もしらぬ夕やぬる胡蝶
──みぎりも深く霧をこめたる
──呉竹の泡雪ながら片よりて
──岩ねをひたす波の薄氷
──鴛鴨や下りゐて羽をかはすらん
季節は春というのに、誰一人として温かさは感じない。
感じるは身震いするほどのおぞましき冷風。
「みだれふしたる菖蒲菅原」
葉擦れの音が耳へと沁みて、場のおぞましさを増長させる。
──山風の吹きそふ音はたえやらで
──とぢはてにたる住ゐ寂しも
──とふ人もくれぬるままに立ちかへり
──心のうちに合ふやうらなひ
──はかなきも頼みかけたる夢語り
ここは違う。
何かが違う。
ここは本当に現し世か。
「おもひに永き夜は明石がた」
詠う者すらその変調に気づいてしまう、この異様な場の形成。
──舟は只月にぞ浮かぶ波の上
──所々にちる柳陰
ただ一人臆することなく、朗々と紡いでみせるのは亡霊を内に飼う者のみ。
「秋の色を花の春迄移しきて」
彼だけが見える。彼だけが聞こえる。
亡霊の歌う呪詛。
──山は水無瀬の霞たつくれ
──下解くる雪の雫の音すなり
──猶も折りたく柴の屋の内
──しほれしを重ね侘びたる小夜衣
全てを失う覚悟はいらない。
それほどまでの力の差。
「おもひなれたる妻もへだつる」
圧倒的力の前にひれ伏すべきは己ではない。
その後の心配も無用。
──浅からぬ文の数々よみぬらし
──とけるも法は聞きうるにこそ
──賢きは時を待ちつつ出づる世に
名残惜しく感じても、引き返すつもりは毛頭ない。
「心ありけり釣のいとなみ」
静かに揺れる酒が、陶酔に導く。
──行く行くも浜辺づたいひの霧晴れて
──一筋白し月の川水
──紅葉ばを分くる龍田の峰颪
──夕さびしき小雄鹿の声
──里遠き庵も哀に住み馴れて
──捨てしうき身もほだしこそあれ
──みどり子の生い立つ末を思ひやり
──猶永かれの命ならずや
──契り只かけつつ酌める盃に
──わかれてこそはあふ坂の関関
今宵は満月。
月のみが我らを高みからのぞみ、その眼にしかと焼き付けることだろう。
「旅なるをけふはあすはの神もしれ」
強く心に焼き付いたあの頃を思い出す。
空しいだけだと首を振る。
──ひとりながむる浅茅生の月
──爰かしこ流るる水の冷やかに
──秋の螢やくれいそぐらん
──急雨の跡よりも猶霧降りて
──露はらひつつ人のかへるさ
──宿とする木陰も花の散り尽くし
──山より山にうつる鶯
亡霊が自分の元へと寄ってきて、まだかまだかと騒ぎ立てる。まだ、待て。もう少し。
「朝霞薄きがうへに重なりて」
すうっと亡霊が自分の中へと吸い込まれる感覚。そう、これが本来の居場所。あるべき場所。
──出でぬれど波風かはるとまり船
──めぐる時雨の遠き浦々
──むら蘆の葉隠れ寒き入日影
さあ、後幾度、言葉を連ねれば良い。
この時間が境界線。
「たちさわぎては鴫の羽がき」
境界線を越えれば、亡霊が朝日を見るだろう。
──行く人もあらぬ田の面の秋過ぎて
──かたぶくままの笘茨の露
──月みつつうちもやあかす麻衣
──寝もせぬ袖のよはの休らい
心安らいだ日々と、同じ朝は二度と拝めない。
自分の業に、自分で怖れ続ける事となる。
「しづまらば更けてこんとの契りにて」
それでもこれが、魂に焼き付いた反逆の宿命。
──あまたの門を中の通ひ路
──埋みつる竹はかけ樋の水の音
──石間の苔はいづくなるらん
──みず垣は千代も経ぬべきとばかりに
──翁さびたる袖の白木綿
──明くる迄霜よの神楽さやかにて
──とりどりにしもうたふ声添ふ
──はるばると里の前田の植ゑわたし
絡めとられた魂の行き場など、知れている。
「縄手の行衛ただちとはしれ」
そう、今宵は満月。
──いさむればいさむるままの馬の上
──うちみえつつもつるる伴ひ
──色も香も酔をすすむる花の本
──国々は猶のどかなるころ
されども最果てに、月の光は届かない。
◇◇◇
暗い闇を瞳に灯し、奉納主は告げる。
武者、公卿、大王。様々な姿をとってきた亡霊も彼の身の内に収まった。
今、僅かな違和感が集束され、一つとなる。
「敵は、本能寺にあり───」
天正十年水無月二日。
明智光秀殿、謀反───……。