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双藍之次第  作者: 采火
10/11

寃 ─愛宕百韻─

愛宕の山中で風が凪いだ。


「ときは今天が下しる五月哉」


神に捧げるは己が野心。

言葉を連ねてこの意思を天へと。


──水上まさる庭の夏山

──花落つる池の流れをせきとめて

──風に霞を吹き送るくれ

──春も猶鐘のひびきや冴えぬらん

──かたしく袖は有明の霜

──うらがれになりぬる草の枕して

──聞きなれにたる野辺の松虫

──秋は只涼しき方に行きかへり


奉納する者たちの傍ら、一人の亡霊がにたにたと唇の端をつり上げて笑っている。


「尾上の朝け夕ぐれの空」


雲の隙間から月光が差し、連なる者たちの面を照らす。亡霊の姿は夜闇に紛れ、かき消えた。


──立ちつづく松の梢やふかからん

──波のまがひの入海の里

──漕ぎかへる蜑の小舟の跡遠み

──隔たりぬるも友千鳥啼く

──しばし只嵐の音もしづまりて

──ただよふ雲はいづちなるらん


今宵は満月。

煌々とした月が暗き闇に差し込む唯一の(しるべ)


「月は秋秋はもなかの夜はの月」


亡霊が囁き続ける。

天下をとるべき者は誰かと、誰何し続ける。


──それとばかりの声ほのかなり

──たたく戸の答へ程ふる袖の露

──我よりさきにたれちぎるらん

──いとけなきけはひならぬは妬まれて

──といひかくいひそむくくるしさ

──度々の化の情はなにかせん

──たのみがたきは猶後の親

──泊瀬路やおもはぬ方にいざなわれ


どろりとした闇の中で嘲笑(わら)う。


「深く尋ぬる山ほととぎす」


(まじな)いごとのように儀式が行われる。

仄かに暗き、闇夜の支配。


──谷の戸に草の庵をしめ置きて

──薪も水も絶えやらぬ陰

──松が枝の朽ちそひにたる岩伝い

──あらためかこふ奥の古寺

──春日野やあたりも広き道にして

──うらめづらしき衣手の月


ざわつく雑木林が恐怖を駆り立て、その場の全ての生き物の畏れを煽る。


「葛のはのみだるる露や玉ならん」


今宵は満月。

しかし雲に隠れてしまってはその明るさも十分には届かず。


──たわわになびくいと萩の色

──秋風もしらぬ夕やぬる胡蝶

──みぎりも深く霧をこめたる

──呉竹の泡雪ながら片よりて

──岩ねをひたす波の薄氷

──鴛鴨や下りゐて羽をかはすらん


季節は春というのに、誰一人として温かさは感じない。

感じるは身震いするほどのおぞましき冷風。


「みだれふしたる菖蒲菅原」


葉擦れの音が耳へと沁みて、場のおぞましさを増長させる。


──山風の吹きそふ音はたえやらで

──とぢはてにたる住ゐ寂しも

──とふ人もくれぬるままに立ちかへり

──心のうちに合ふやうらなひ

──はかなきも頼みかけたる夢語り


ここは違う。

何かが違う。

ここは本当に現し世か。


「おもひに永き夜は明石がた」


詠う者すらその変調に気づいてしまう、この異様な場の形成。


──舟は只月にぞ浮かぶ波の上

──所々にちる柳陰


ただ一人臆することなく、朗々と紡いでみせるのは亡霊を内に飼う者のみ。


「秋の色を花の春迄移しきて」


彼だけが見える。彼だけが聞こえる。

亡霊の歌う呪詛。


──山は水無瀬の霞たつくれ

──下解くる雪の雫の音すなり

──猶も折りたく柴の屋の内

──しほれしを重ね侘びたる小夜衣


全てを失う覚悟はいらない。

それほどまでの力の差。


「おもひなれたる妻もへだつる」


圧倒的力の前にひれ伏すべきは己ではない。

その後の心配も無用。


──浅からぬ文の数々よみぬらし

──とけるも法は聞きうるにこそ

──賢きは時を待ちつつ出づる世に


名残惜しく感じても、引き返すつもりは毛頭ない。


「心ありけり釣のいとなみ」


静かに揺れる酒が、陶酔に導く。


──行く行くも浜辺づたいひの霧晴れて

──一筋白し月の川水

──紅葉ばを分くる龍田の峰颪

──夕さびしき小雄鹿の声

──里遠き庵も哀に住み馴れて

──捨てしうき身もほだしこそあれ

──みどり子の生い立つ末を思ひやり

──猶永かれの命ならずや

──契り只かけつつ酌める盃に

──わかれてこそはあふ坂の関関


今宵は満月。

月のみが我らを高みからのぞみ、その眼にしかと焼き付けることだろう。


「旅なるをけふはあすはの神もしれ」


強く心に焼き付いたあの頃を思い出す。

空しいだけだと首を振る。


──ひとりながむる浅茅生の月

──爰かしこ流るる水の冷やかに

──秋の螢やくれいそぐらん

──急雨の跡よりも猶霧降りて

──露はらひつつ人のかへるさ

──宿とする木陰も花の散り尽くし

──山より山にうつる鶯


亡霊が自分の元へと寄ってきて、まだかまだかと騒ぎ立てる。まだ、待て。もう少し。


「朝霞薄きがうへに重なりて」


すうっと亡霊が自分の中へと吸い込まれる感覚。そう、これが本来の居場所。あるべき場所。


──出でぬれど波風かはるとまり船

──めぐる時雨の遠き浦々

──むら蘆の葉隠れ寒き入日影


さあ、後幾度、言葉を連ねれば良い。

この時間が境界線。


「たちさわぎては鴫の羽がき」


境界線を越えれば、亡霊が朝日を見るだろう。


──行く人もあらぬ田の面の秋過ぎて

──かたぶくままの笘茨の露

──月みつつうちもやあかす麻衣

──寝もせぬ袖のよはの休らい


心安らいだ日々と、同じ朝は二度と拝めない。

自分の業に、自分で怖れ続ける事となる。


「しづまらば更けてこんとの契りにて」


それでもこれが、魂に焼き付いた反逆の宿命。


──あまたの門を中の通ひ路

──埋みつる竹はかけ樋の水の音

──石間の苔はいづくなるらん

──みず垣は千代も経ぬべきとばかりに

──翁さびたる袖の白木綿

──明くる迄霜よの神楽さやかにて

──とりどりにしもうたふ声添ふ

──はるばると里の前田の植ゑわたし


絡めとられた魂の行き場など、知れている。


「縄手の行衛ただちとはしれ」


そう、今宵は満月。


──いさむればいさむるままの馬の上

──うちみえつつもつるる伴ひ

──色も香も酔をすすむる花の本

──国々は猶のどかなるころ


されども最果てに、月の光は届かない。


◇◇◇


暗い闇を瞳に灯し、奉納主は告げる。

武者、公卿、大王。様々な姿をとってきた亡霊も彼の身の内に収まった。

今、僅かな違和感が集束され、一つとなる。




「敵は、本能寺にあり───」




天正十年水無月二日。

明智光秀殿、謀反───……。

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