蕾膨らむ甲賀の忍び
甲賀の侍衆は忠義に厚かった。
それまでの主君らによって、自らの血族を危険にさらすことになってすらも当代の当主達は皆、主君を見放すことはなかった。
しかし先の戦、鈎の陣と呼ばれたあの戦が、甲賀衆に自らは主君を裏切れなくともと、永く時をかけ、幼子一人に一人の主君を与えさせた。
さる時は名も無き農民から戦場を歩むことになってしまった足軽の。
さる時は天下に名を馳せる大名に仕える勇ましき武を誇る将の。
衰退した甲賀の里に伊賀の里の者を呼び込み、静かに力を蓄えては衰えていくその流れで、とうとう甲賀の侍衆は一つの裁定を下した。
「天下に一番近い者に、我らの最期を委ねよう」
目を開き、耳を澄まし、足でもって尋ね、戦国の乱世で生き抜く術を持つ者を見定めた。
血を絶やさぬことが武士としての誇りとなる。
お家の名を後の世に残すことぞ本望よ。
そうして静かに取り入ることにしたのは天下布武を謳う尾張の覇者。彼の者が今、敵をもっとも多く持ちながらも、もっとも賢く世を統べることができるであろう。
甲賀衆は当時まだ主君を持たないながらも、伊賀からの忍術全てを吸収し、甲賀の里一の忍びの技量を持つ者を尾張の覇者に贈った。
───主君の決まった者は従えないが、そうでないものは家臣団として組み入れてもらいたい。忍びとしての技量を持つ者は限られるが、そもそも甲賀者は伊賀者にも劣らない実力を持っている故、忠義を結べば其の命をとして力となる。貴殿なれば、我らを巧く活かしてくれるであろう。
安土に城を構えた彼の者は一笑し、贈られてきた主君を持たない忍びを冷ややかに見た。
なんてひ弱そうな忍びであろうか。まだほんの幼子で、大の男に力で敵うはずもない。しかも女児ときた。忍びとはいえども、足利の世に名を馳せし甲賀のなんと落ちぶれたことよ。
だがしかし、幼子といえども忍びであれば、その実力くらい測ってみても良かろう。
安土の城の大座敷の上座で、木瓜の紋を描いた扇を鳴らして忍びに命を下す。
「そなたが忍びであれば、どんな仕事をもこなすであろう。幼子だろうが容赦はしない。忍びならば忍びらしく、忍ぶが良い。七日の間に謀反の疑いのある者を調べて俺に献上せよ。それができたら甲賀の者らを家臣団として加えよう」
幼子故にすぐに泣き出して逃げ出し、甲賀の零落共に頼ることを狙ってのことだった。そうなれば、なんと情け慈悲の無いことかと言って大人しくなるか、悪くて反乱だろう。それはそれで焼き払うまでのこと。
だが、忍びはすぐに行動を起こした。
言われた通りに忍びの持つ技量全てを費やして、七日で命を遂行した。
安土に再び登城したのを迎えさせると、青い顔をした女中が次々と忍びのいるはずの部屋から離れていく。更には家臣団までもが襖の隙間から顔を覗かせ険しい顔でいるではないか。
廊をゆったりと歩み、女中と家臣を下がらせ悠々と部屋の襖を開けてみれば、さすがの覇者も目を見開かざるを得なかった。
家臣の制止も聞かずにその座敷の磨かれた床板を踏んで上座に腰を落とす。
その残酷な面が尾張の覇者の前に並んでいた。
「その年でここまですることを甲賀は赦すか。───是非もなし」
己の前にごろりと黙って転がった幾つもの毬を見やって、覇者は笑う。さすれば、いつの間にか忍びが髑髏の向こうで頭を垂れていた。僅かに開いた襖からは見えない絶妙な位置。そこに忍びは一言も発さずに控え続けていたのか。
忍びの能面にかすかな憐れみと嫌悪を抱きながらも、泥眼を慈しむ文殊のように懐に手招く。
「俺の支配下に入れ。甲賀は俺が保護しよう。お前は俺一人に忠義を尽くせ。俺の正道を見定めよ。気に食わなかったら俺の首をとっても良い。だが……巧くいかねばその時は俺がお前を殺すだろうがな」
忍びは頭を垂れただけだった。
だがそれも気にせず、天下に一番近き覇者が問う。
「名を述べよ」
細めた眼でしかとその忍びを自らに刻み付ける。
忍びはか細い声で淡々とその名を告げた。
「───是非もなし」
そうして安土城城主は甲賀侍衆を受け入れた。
中でも、主君を定めた例の忍びを重宝することになることは必然であった。安土の城でしばらく主君に従っていた忍びは心身共に成長し──…………。
尾張の覇者と共に、幾人もの兵とすれ違いながら、路を別つ運命の時を迎えることとなる。
───一生知ることもないだろうと思われた、人間らしい感情をも取り戻して。




