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1987.5 彼女と彼女の邂逅(1)

 出会いは偶然である。それはどんなものでも同等に。

 もしもその日その時、その場所で、その人がその行動を起こさない限り、それ以外のファクターが全て揃っていたとしても、それは起こり得ない。

 そういう意味だったら、それは本当に偶然だ、と後になってハルは思った。



 「たまたま」ハルとマリコさんは県内のリゾート地へやってきていた。

 ハルもマリコさんも、基本的に「リゾート地」と名がつくところは避けて通るような人間である。

 その日そこへやってきていたのは、その近くで、ジャズ・フェスティバルがあったからである。何となく毎日をふらふらしているようなハルの退屈しのぎに、と誘ったのはユーキだった。音大のジャズ・サークルも出るから、ただ券があるんだ、と。


「ジャズねえ…」


 当初渋っていたハルも、マリコさんもどうぞ、と言われて喜んだ従姉の様子を見ては行かざるを得まい。もっとも、マリコさんは自分がそういう態度を取ると、ハルも乗ってくるだろうと思ってもいたのだが。

 それで、久しぶりに「旅行」という奴に出た。

 ハルは「旅行」というのがあまり得意ではない。こういうものに得意も何もない、と思うだろう。だが、得意でない人間というのもいるのだ。とくに、そこが「リゾート地」という、休むか遊ぶしか時間を潰すことができないような所は。

 目的がないと、旅行という奴は退屈だった。

 こういう時、歴史マニアとかは便利だろうな、と彼女は思う。とにかくどんなところでも、歴史的価値を見いだせば、退屈はしないだろう。とりあえず、自分はキョーミのあるもの以外に冷淡だ、ということを知っているハルにとって、音楽以外のために「旅行」するのははなはだ不本意であったといえる。

 行きの列車は昼間の鈍行。ひどく混むこともないが、夜更けの地方線のようにがらがらになるようなこともない。一応関東圏というのは。マリコさんはここぞとばかりにバスケットにお弁当を作った。


「ピクニックじゃないんだけど…」

「いいじゃないですか。私の趣味なんですから」


 そういうものらしい。まあいいや。ハルは黙る。いずれにせよ、美味しい食事が食べられるのは嬉しいことである。


「ユーキ君もどうぞ。その時には」

「あ、うれしーなあ」


 マリコさんは、この従妹の友達とも、ドラムの先生と化している「僕」と「オレ」をランダムに使う年下の彼を結構気にいっている。ちょくちょくやってくる彼は、時々、マリコさんに誘われて夕食をとっていくこともある。かといって、ハルとの仲が親密になったという訳でもない。あいも変わらず、「女友達の延長」の友人のままである。

 ユーキは一度、それらしいことはほのめかした。ハルも知っていた。だが、それに何らかの決着をつけようという気は起きなかった。ユーキがどう思っているかは知らない。

 泊まったホテルは、海に近いところにあった。ホテル、というよりも、別荘に近い感覚があった。幾つかの小さな「別荘」が、点々とその広い敷地内に建てられている。

 もちろん、いわゆる巨大建物の「ホテル」もあることはあった。だが、ちょうどそのジャズ・フェスティバルに来る人々で一杯だということで、まあ良い気候の頃である。カップルがちょうどいいデート・コースにするだろう、ということで、ホテル側も、その期間内だけ、その「別荘」を解放したのである。カギを渡され、あとは自由。自炊もできるように小さなキッチンがついている。ベッドが4つあった。このメンバーは3人だが、小さなことにはこだわるまい。

 それを事前に聞いていたからこそ、マリコさんは「バスケットに詰められたお弁当」なる古い映画にも出てきそうな代物をこしらえたのである。

 夕方から始まったジャズ・フェスティバルは野外だった。ハルは割合近い席をもらっていたので、真正面からその音を受けとめることができた。捉えていたのは、やはりドラムだった。聴き方までが違ってきている。聴き方、というより、それは「感じ方」に近かった。音が真っ向から、突き刺さってくる。それほど速くもないのに、重い太鼓の音、振動が、心臓を掴む。

 客は、ジャズ好きとそうでない者が半々、という所だった。そしてその区別は簡単だった。知っている者は、湧くところを知っていて、その直前に、身体が浮き上がる。知らない者は、スタンダード・ナンバー、CFの後ろで流されたり、ニュース番組のテーマだの、TVで耳にしたことがある曲の時、おっ、という顔をしている。そうでなければ、いったい何しにきたんだ、と言いたくなるくらいに、カップルはくっついて二人の世界を作り上げている。

 ハルはユーキとマリコさんに挟まれた恰好になっていたが、そういった類の「べたべた」とは無縁な人だったから、ただただ音に身体を任せていた。

 やはり久しぶりに感じる生の音は、心地よかった。でも、何か違う。軽く汗ばむ身体とは裏腹なコトバがひらめく。これは本当には熱くなれない。圧倒的だけど、だからといって、何かをかきむしりたいような衝動を、静めてくれるとも、弾けさせてくれるとも、思えない。

 ユーキは熱っぽくステージを見つめ、手も足も、ドラマーの動きを写し取っている。

 マリコさんは腕を組んで何となく身体を揺らしている。気持ちは良さそうだ。


 ―――背中に、冷たいものが走った。


 あの「からっぽ感」が、じわじわとやってくる。最近ずっと忘れていたのに。気付いてしまうと、それ以上集中することができない。

 ちょっとごめんね、と言うと、マリコさんの側からハルはその席から離れようとした。ハルさん? と小声で問うマリコさんに、先に戻っているから、と言って。カギは全員が持っている。マリコさんは、追いかけようか、と思ったがやめた。



 泊まっているその「別荘」は、わりあい海よりにあった。フェスティバルの喧噪からは少し離れて。街中や、住宅地に住んでいると、つい忘れてしまう、空の持つ光はここでは思う存分その手を広げていた。

 だがいくらそんな所でも、夜の一人歩きというのは危険である。それなのにハルときたら、のんびりと海ぞいを歩いている。最も、彼女の高い身長や、さほど起伏のある訳でもない身体つきは、夜に紛れて彼女が女だということを隠してしまうのだが。長い髪がわずかに主張しているようにも思えるが、今日あたりは、音楽人間が多いので、その限りではない。

 夜に見る海というのは、確かに吸い込まれそうだなとハルは思う。別に何かしら思う所があってもなくとも、海の絶え間なく続くその音のうずの中に引き込まれそうな気がしてくるのだ。それは雨の音を聴くときにも似ている。

 意図した訳でもないのに、延々と続く音。

 それは一定のビートを持っていて、しかも悪いものではない。速すぎず遅すぎず、ただひたすら続いている。

 澄んだものでは決してないのに、ノイズでもない。これがもう少しざわつきを増せばただの騒音だし、さらさらと通る音だったら、逆に耳ざわりである。

 意味のない繰り返しは、意味もなく時々ヴォリュームを増して、気付かぬうちにその音の中に聴く人を吸い込んでいく。

 それはあくまで下で気付かぬ程度に鳴っているものである。

 それに近いものをハルは思いだした。弾けなくなったショパンの曲の低音部。メロディを奏でる高音の下で、わさわさと細かい音を走らせている。ゆったりとしたメロディの下で、密かに革命を企んでいるような。


 …


 何だろう? ハルは片手を頬に当てる。「何か」出てきそうだったのに。

 ピアノを放棄してから、こういう感覚が時々やってくる。それは記憶にない衝動だった。だから、彼女にも「何に」似た衝動なのか、自分自身にさえ説明がつかない。自分に説明ができないくらいだから、マリコさんに言って「それらしい」ヒントをもらうことなど不可能である。彼女は感覚的な表現という奴はハル以上に苦手な人だったから。

 かと言って、ユーキだの、他の者に相談しようという気はそれ以上になかった。正確に言えば、しようと思ったことすらなかったのである。

 ざわ、と風が吹いた。長い髪がまき上がって顔全体に絡み付く。煩わしい、とジーンズのポケットからコットンのヘアバンドを出すとざっと一つにまとめる。

 と。風を避けてそれまで進んでいた方向にやや背を向けた恰好になったときに、ふと視界に奇妙なものが入ってくるのを感じた。

 白いかたまりが、目立たないように岩蔭にちんまりとまとまっている。月の光がちょうどそこだけに集中しているようにも見えた。

 何だろう。そう思った時、もう足はその方へと進んでいた。

 白っぽいさらさらした砂から、やや重い黒っぽい砂地へと。そしてそのかたまりがはっきりしてくる。


 は?


 ハルは一瞬混乱した。

 昼間、明るい太陽の下なら、それをここで見てもおかしくはない。だが、その時その「白っぽいもの」はもっとひらひらとしているはず。

 少なくとも、夜の海辺で、人目につかないように丸まっているものではない、と思う。総コットンのワンピース。フリルとリボンの満載の。そしてそれはどうやらからっぽではないらしい。中身が詰まっているようだ。


 どうしたものだろう。


 さすがにハルも迷う。


 まさか死んでるんじゃないでしょうね。


 そこで、とりあえずびっくりしている自分はさておいて、理性をフル動員させる。とにかく、こんな服着ている子がここで丸まっていること自体おかしい。だいたいいくら初夏だと言っても、夜に、こんな濡れてもおかしくないところで眠っていたら…

 眠っているなら、とりあえず起こすしかないのではなかろうか。つついてみる。まとわりつくワンピースの中の女の子の身体は弾力があって、ハルの指を軽くはじき返す。固くはない。生命のある感触という奴だ。

 死体はあの時、さんざん見てきた。それとは全然違う。としたら、とりあえず起こして…つついていた指を手の平にかえて、優しく背を叩く。


「…ん」


 声がする。だが起きる気配はない。手に触れる身体は、生きているとはいえ、冷たい。


 どうしよう。このまま置いていくのは。とりあえず近いから、「別荘」まで連れていく?


 だが誰かの手を借りようと思っても、まわりには誰もいない。いくら自分がわりあい力があると言っても、果たして気を失っている女の子を抱えて行けるだろうか?

 以前、授業中に気分の悪くなったクラスメートを保健室まで運んだことがある。かなり苦労した記憶がある。その時は、相手に意識があったに関わらず、だ。


 どうしよう。


 かと言って、このまま待っていたところでどうにもならない。だが、マリコさんやユーキを待ちかまえるために、もう一度この子を置いていくということも、したくない。


 …仕方ない。


 よっこいしょ、とかけ声をかけて、とりあえず肩を貸す恰好にする。それでも深い眠りについているのか、一向に女の子は気がつく気配がない。脱力した身体は、ひどく重い。ハルはその白いかたまりをずるずるとひきずっていく恰好になる。

 きっと明日は、腕や肩が痛くなるだろーな。奇妙に落ち着いてそんなことを考える自分をおかしく思う。



「…どーしたんですか!」


 滅多に物事に驚かないはずのマリコさんが目をまん丸くして出迎えた。


「あれ?マリコさん、コンサートは?」

「もう終わりましたよ… 遅いから…」

「え?」


 壁に掛かった時計を見上げる。確かに、心配するような時間だ。すると、時間がやはりかかったのだなあ、とハルは思う。そしてマリコさんの視線が肩に掛かっている女の子に向いているのに気付くと、


「えーと、あれ? ユーキくんは」

「先輩に呼ばれたから、帰りは明日になるかも、ということですけどね… 全く何拾ってきたんですか」


 貸してごらんなさい、とマリコさんは手を出す。さすがのハルもかなり疲れていたので、素直に肩を自分からマリコさんへと移しかえる。その時、マリコさんがぎょっとした顔になった。


「何ですかこりゃ」

「あ」


 それまで、月明かりしかない道を通ってきたので気付かなかった。白い服が汚れている。黒っぽい、ざらざらした砂。そして、もう赤黒く変色していた…血。

 何処ケケガしているのかしら、とマリコさんは砂だけ払ってから、女の子をベッドに横たえる。てきぱきと服を脱がせる。気がつく様子はない。コットンの白い服が幾重にも絡まっている。それを一枚一枚取るごとに、血の染みは消えていく。海水の染みだのはあっても、色のキツイ染みはペティコートにはついていない。

 と、いうことは、血は身体にキズがあって出たものではない… ゴーカンされたという訳でもない… そう思いながら、身体の下に広がった服を取ろうと、彼女の身体をずらしたとき、それは見つかった。


「なにこれ」


 白い腕に、赤の太い線が描かれていた。固まって、既に血は止まっている。


「手にケガしてたの?」


 ハルはマリコさんの後ろからひょい、と顔をのぞかせる。マリコさんは無言で彼女の手を見せた。は?とハルは顔を歪めた。両の手首に、ひどく太い線が走っていた。血の染みの原因はここだった。


「…何それ… いったい…」

「もう止まってますから… 見かけほどひどくはありませんよ。それに、これ、自殺用のキズじゃないですよ」

「は? どういう意味?」

「ちょっとよく見てください」


 彼女の手をベッドの上に戻して、手のひらを上に向ける。


「何か変だと思いません?」

「何か… って何」

「向きですよ」


 向き? 


 そう言われてみれば、そうである。左も右も、同じ方向に走っているのだ。


「例えば」


 マリコさんは自分の手で示してみせる。


「たいてい自分からやるってときは、力加減の関係から、手のひらを上に向けた状態で、外側から内側に向かって走ってるはずです」

「逆だと力がうまく入らない?」

「それに、そんなところまで考える余裕がある人なら、もう少しましな方法とりますよ。手首なんてのは、首の頚動脈に比べて成功率高くないんですから」


 ハルは顔を歪める。血の飛び散る様子。生々しい臭気が脳裏によみがえる。これ以上死体は見たくない。


「この子は大丈夫?」

「まあショックはずいぶん受けているし、何処かから落ちたのか… 結構打撲はあるようですけど、命に別状はないようですよ。ただ、これが自分でしたものでない、というのが気にかかりますねえ」

「自分じゃなければ」

「他人しかないでしょう?」


 あっさりとマリコさんは言った。


「誰かに、殺されそうになった、ということです。それも、この子にとって、結構大切な人だったんじゃないでしょうか?」


 よそいきの、としか思えないブランドものの服。それも全身白でまとめるくらいの… 自分自身のためだけに着る、という人もなくはないが、相手が居たことが事実なら。


「だとしたら、起きた時に厄介なことが起こらなければいいんですけど」

「ベッドが四つあってよかった」


 ハルはとりあえずそう言うしかできなかった。



 簡易キッチンがついているような「別荘」でも、洗濯機まではついていない。「彼女」の擦り傷切り傷の手当や、打ち身で熱を持っているような所を冷やしたりしているマリコさんに代わって、ハルはバスルームでコットンの服の洗濯をする。ついでに自分のほこりに汚れた顔や手も洗う。

 結構せっけんという奴は、血の染みをよく落としてくれる。だが、破れた所はどうにもならない。

 後で繕うしかないだろうが、目を醒ますだろう「彼女」がそれを着たがるかどうか。

 とりあえず、着替えは少し多めに持ってきていたので良かった、とハルは思う。「彼女」は自分よりやや小さい。マリコさんよりはやや大きい。ハル自身、どう考えたって「大柄な女」、身長175センチだったと記憶しているくらいなんだから、大抵の女の子は自分より小さいのだが。

 だいたい妹と同じくらいだったな、と肩を貸した時の感触を思い出す。背の高さも、身体つきも、何となし似ている。顔は全く似ていないが、「女の子」の醸し出す雰囲気、というものは共通していた。何かふわふわした、掴み所のない、甘い空気。

 たとえ「彼女」が血染めの服を着ていたとしても、だ。


 女の子は、人殺しだったとしても、女の子だと思う。

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