1987.4 ドラムとの邂逅(2)
学校付近に来るのは久しぶりだった。大学の高い壁、校舎を囲む緑の木々の隙間から音がこぼれてくる。ロングトーンをしている管楽器の音が特に耳に響く。
「わーいハルさんだーっ」
にこにこしながら自分よりやや背の低いユーキが店の中へとやってくる。そしてレアチーズケーキとコーヒー、と頼むと彼はすとんとハルの正面に座った。
「元気そうでよかった。でも少しやせた?」
「どーかなあ。うちヘルスメーター無いから」
「じゃもっと食べてよ」
「あたしを丸くする気か?」
ハルはくすくすと笑う。
「で… 言われたとおり、ドライバも持ってきたけど… 何で要るの?」
だぼついたジーンズのポケットの中からTの字形のネジ回しを幾つか出す。
「何か知らないけれど、要る羽目になっちゃって」
「だってこれってスネアのだよ」
「だから要るのよ」
ユーキは首をひねる。何秒か複雑な表情をしていたが、ま、いいか、とその話はそこで打ち切った。コーヒーがいい香りをたててとケーキと共にやってくる。
「みんなどお? 元気?」
「うん、みんな心配してたよ。ナカザさんやヘーさんあたり。カスミちゃんなんかしばらく暗かったよ」
「ありゃ」
ハルの友達はこのユーキのように、他のパートに多かった。ヴァイオリンの同級生ナカザ嬢、フルートの先輩ヘーさん、それに声楽科のカスミちゃん。そのあたりがよく学内で出会うと話をしたり、共通学科が休講になったりするとフルールのような喫茶店、学内のカフェテリア、そうでなきゃ図書館や中庭でとりとめのない話をする仲間だった。
だが、それらの女友達は、切り捨てたところで、大した感触はなかった。いつか社会に出た時には、きっと別れて、忘れてしまうだろう。そんな感覚でつきあっていた。自分は冷たい奴かな、とも思うことは思う。
目の前にいるユーキは、どちらかと言うと女友達と付き合っている感覚があった。だかその「切り捨て御免」の女友達よりはずっと気楽で、つきあい易かった。まあ喋り方のせいもあるのだが、妙に「可愛い」。
とはいえ、顔形が女っぽいというのではない。小柄なせいか、何かしらちょこまかとあちこちを動きまわるハムスターに似てるな、と思っていた。特にこれといって、頼りになるとかそういう訳でもない。だが、一緒にいると、気が楽になる。そういう友達だった。あくまで友達である。
友達以外なら。
「ああ、メイトウさんにこないだ会ったよ」
「…ふーん」
「元気そうだった」
「そう」
「あなたの所へは、メイトウさん、行ってないんだ?」
「ないね。別においでと言ったこともないし…」
「留学、決定したみたい」
だろうな、と彼女は思う。メイトウという奴は、付き合ってた女に何が起ころうと、自分の予定は変えない。
「ねえユーキくん、メイトウの話はよそう。もう関係ないから」
「別れたんだっけ」
「や、別れたも何も、もうどっちでもいーな、と」
「ふーん… じゃもしあなたがフリーだったら、僕が立候補してもいいの?あなたのそおいう相手」
「はて」
どうしたものかな、とハルはコーヒーを飲み干した。別に驚きはしない。薄々知ってはいたから。
だがその場ではその話はそれ以上には出なかった。とりあえず本日の目的、のために、ハルは自宅まで彼を連れてきた。
「マリコさあん、専門が来たよ」
「あらまあ。よーこそ」
玄関にさっと出てきて、エプロンを翻し、花のようにふわっと笑うマリコさんにユーキは驚く。
「これは従姉のマリコさん。マリコさん、ユーキくんだよ」
「まあ、どーぞおあがり下さい」
殆ど「お母様」の役だな、とハルは思う。前からそういう要素はあったが、ここのところ特にそういう雰囲気が増えてしまった。いーのかなあ、結婚前の女性に。そんなことをちら、と頭の片隅にかすめつつ。
「こっち」
結構部屋数は多い。それに比較的新しい。彼女は練習室へと彼を迎え入れる。ダンボール箱が無造作に広い部屋のあちこちに置かれている。
「誰かドラムやるの?」
「やるつもりで買ったらしいのだけど」
「…ま、いーか」
彼もあの事故のことは知っていたから、それ以上は聞かない。つまりこれを組み立てたい訳ね。納得すると、開けてもいいか、と許可を求めた。
「どーぞ。あたし全く判らないから」
「やってみればいーじゃない。基本的なこと、ならピアノ覚えるよりずっと楽だよ」
「そお? だって手足四本別々の動きじゃない」
「何言ってんの。ピアノだってそうでしょ。しかも手なんか十本の指別々に動かしてるくせに」
「だってあれは子供の時からの訓練で」
「そーゆーのがないと、ピアノってのは本当に大成したりはしないでしょ。でもドラムってのは、僕らくらいの年から始めても大家になったひとだって大勢いるよ」
「でもセンスとか」
「リズム感は要るだろーけどね」
そう言いながら彼は一つ一つの箱を開け始めた。新品の楽器特有のにおいがふっと鼻につく。だが開けられた箱の数が増えていくに従って、それは気にならなくなっていった。
「とりあえず、の高さにセッティングしておくからね。もし直したいのだったら、ここで調節して」
「固くて動かないじゃない。どーすりゃいいよ… ペンチ?」
「そうゆうときは、ほら、これで」
彼は二本のスティックで椅子の調節ねじをはさんで見せる。手では固くて動かなかったそれが、以外に楽々と回った。
「ほー」
「まあこれも慣れの一つってことですか… だから、今からでも遅くはないって」
「…本気? あたしにやれっての?」
「別にそんなことは言ってないけど。でも、この楽器、誰も使うひとないのに、放っとかれるってのは可哀そうだと思うし」
「買った主がいるじゃない…」
「帰ってくるまで、でも、慣らしとくと、音が良くなってくるでしょ」
もっともである。
だけど。
ハルには疑問だった。何でドラムだったんたろう。
*
「あたしは知らなかったわ」
ユーキが帰った後の部屋は音も無く、ただ静かだった。目の前には、組み立てられたドラムセットが彼女の前に容赦なくその存在を見せつける。ぴかぴかの胴まわりには歪んだ自分の顔が映る。ボディの色は黒。全ての色を呑み込む。
ついつい妹のことを考えると、膝を抱え込むような恰好になってしまう。それ以上妹を見失いたくない。たとえ自分の心の中の彼女であっても。
だけど、自分の見ていたのは、本当に正しい彼女の姿だったのか、ハルは自信を失いかけていた。
妹が、マホがもしかしたらクラシックよりもロックが好き、ということ自体、知らなかったような気がする。自分が聞かないせいもあるのだろうが、妹が、そんな自分の聞きもしないジャンルの音楽など好きである訳がない、と思いこんでいたのだ。
だけど彼女は自分ではない。それを時々忘れそうになるのだ。
同じ夢を持って、同じものが好きだと、信じていた。信じたかった。学校の友人達よりも、音楽で知り合ったどんな人よりも、妹は、自分の一番の理解者であり、自分もまた彼女という人物を一番良く知っていた…そう思いこんでいた。だから、ずっと一緒にやって行きたかった。冷静に考えると、果たしてそれは普通なんだろうか、と思わなくもないが、あえて考えないようにしていた。そしてまた最初の疑問にたどりつく。
何でドラムなんだろう。
ふと、かちゃ、という音でハルは我に返った。あの楽器屋の男がサーヴィスだと言って渡したものだ。何だろう、と忘れていたのに気付き、彼女は袋を開けた。
中にはステッィクが二揃い入っていた。一組は少々太め。もう一組は細めだった。
…どうしろっていうんだろ。
楽器屋のサーヴィスとしては、妥当なところである。誰が演奏するのか、おそらく彼は知っていたのだろう。妹はもうお金を前払いしてあったというのだから。店の方にも多分、何度か顔を出していたはず。あの住所だったら、きっとアカエミュージックは、駅からそう遠くはない。
最寄りの私鉄の駅付近の商店街を思い浮かべる。帰りを急ぐ高校生の中には、そう言えば確かに楽器のケースを持っている者がいた。焦げ茶色のギターのソフトケースをかついで、駅の駐輪場に止めておいた自転車に飛び乗る奴。よくバランスを崩さないものだ、と彼女は以前感心して見ていた記憶があった。ああ、そうか。あのあたりか。
ステッィクの持ち方くらいは知っている。時々ユーキやその辺りのパーカッションの連中と遊んだ時に、握り方くらいは教えてもらった。
彼女は軽く両手にそれを握ると、立ったまま、まだまっさらなスネアドラムのヘッドに打ちおろした。ポン、と間抜けた音がする。ハルは目をぱちくりさせた。気が抜けてしまった。
そう言えば、そうだったな、とストレイナー(サイドについているスイッチ)を押し上げる。
パシッと音がして、太鼓の下に張られているスナッピー(響き線)がヘッドに触れる。そしてもう一度、打ちおろす。パシン。
…あれ。
ハルは手に何か掴みかけたような感じがした。それが何であるのか、よく判らないのだけど、スティックを伝わったその振動は、普段ピアノで味わうそれとは違っている。何だろう?
ペダルは二つ。一つはバス・ドラムに掛かっていて、もう一つはハイハット・シンバルの開閉に使われるらしい。
どすん、とまだ抜けない音が響く。足が一瞬けいれんして、一つの音だけを踏むことができない。ハイハット・シンバルも同様で、けたたましい音が割れる。
…何なんだいったい。
ユーキが学校で叩いていたのを見たことがある。彼のお得意はどちらかとジャズやフュージョンで、スポーツ番組のバックに流れているような曲をサクソフォンやクラリネットといった木管楽器の連中と合わせているのを見たことがある。
確かあの時はずいぶんいい音に聞こえたんだけど。もちろん彼女とて、素人が始めっからいい音が出せるとは思っていない。例えば、彼女にしてみれば、ご近所の小学生の女の子が嫌々やらされているピアノの音なんて、騒音でしかないのだから。
だとしたら、これも練習次第でいい音が出るってことかな…軽くざらざらしたヘッドをなぜてみる。
と、ぴろぴろ… と電話の音がした。コール十回。まだ出ない… ということは、マリコさんは留守なのかな、とハルはようやく部屋から出た。
確かにマリコさんはいないようだった。それでもひっきりなしに電話は鳴る。性懲りもなく、といいたいくらいしつこく鳴る。
ハルはあまり電話は好きではない。電話でいい知らせがきたことは彼女にはほとんどないのだ。
だが、三十回を切った時、やれやれ、と思いつつさすがに受話器を取った。
「もしもし」
『あ、ハル?』
「…ああ、あんたか」
さすがに判ってしまう自分が情けない。と、いうより、自分を呼び捨てにするような奴は約一名しかいないのだ。
「何か用? メイトウさん」
思いきり不機嫌な声を出してみせる。
『さっきユーキに会ったけど』
「会ったけど? 何?」
『オレには会えなくて、奴には会えるのかよ』
…何言ってるんじゃ。
「あたしの勝手でしょう?」
『お前が逃げ回ってるの、知ってたから、オレ近付かなかったのに』
「それはあんたの勝手でしょう? あたしはあんたに近付きたくなかったから、近付かなかっただけで、ユーキくんには用事があったから会っただけのこと。文句ある?」
『あるね』
「何」
ハルは受話器を持ち変える。
『用事ったって、何の用事なんだよ、お前学校辞めたんだろ』
「辞めたけどね」
『だって奴ぁ『学校の』友達だったんだろうが。何でわざわざ今用事があるってんだよ』
「…」
…馬鹿かこいつは。
ハルは受話器を切りたくなった。だがそういう奴であることが判ってしまったからこそ、あっさりと手を切る気になったのだが。
「いったい何を言いたいのよ。単にあたしにそのことを言うためだったら、すぐ切るから。あんたのぐぢぐぢ言うそおゆうコトバは聞きたくない」
『…』
「そうなら、じゃーね」
『ちょっと待てよ!』
「何」
『…本題は別だよ。オレ、留学決まったんだけど』
「そう。おめでとう」
『それだけか?』
「だって今更、あたしにどうしろっていうの? あんた馬鹿?」
受話器の向こうに沈黙。たいていここまで言われて怒らない奴はいないだろうと、ハルは思いつつも言っている。怒ればいいのに。
「だからあんたが何処行こうと誰と行こうと、あたしには全く関係がない。それとも泣きながら『行かないで』とでも言ってほしい訳?それともまた関係を戻したいっていうの? 忘れたの? 最初に切ったのは、あんたのほうなんだよ」
そうなのだ。メイトウは、半年前、自分に言ったのだ。オマエと居ると疲れる。だけどあいつは、一緒にいると気が休まるんだ。
ちょっと待ってよ。さすがにその時は怒った。悲しがるのではない。怒ったのだ。
事故の起きる少し前。めちゃくちゃにピアノを弾きまくって、手がしばらく使い物にならなくなったくらいだった。ようやく使い物になるくらいの時に、事故は起きた。踏んだり蹴ったり、とはこのことだ。その手のけがのおかげで妹と練習する時間はずいぶんと削られてしまった。あんな奴のために。
怒ればいい。「あんな奴」と付き合っていた自分が情けなくなってくる。自分にけなされて、それで多少なりともプライドが働く奴なら、まだほんのわずかでも評価は上がる。
『それでも、オマエがいないと』
メイトウは少しの沈黙の後、情けない声を立てた。ハルはいい加減うんざりした。
恐らく、「あいつ」が、奴の満足するような女の子ではなかったとでもいうのだろう。優しくて自分を頼ってきて、おそらくは、多少の嫉妬なんかもしてしまうような。それはハルと逆のタイプだろう。だが、そうゆう子は、きっと、優しすぎて、どちらかというとキツいハルに慣れてきた奴にとっては、つまらないものになっていったのだろう。
冗談じゃない。
「…」
いーかげんにしろ。次のコトバが聞こえる前に、ハルは受話器を力一杯叩き付けた。
これが電話でなくて、直接会いに来た奴だったら、塩撒いてやるくらいだ。ただまだ直接会いにくる手合いならまだましだ。そんなにそれが大事なことなら直接会いに来ればいい。そうすればまだ自分の中でそれなりに思い出になって残ったかもしれない。だが。
何であんなお馬鹿と少しの時間でも付き合ったりしたんだろう。むかむかむかむか、ハルは自分自身にまで腹が立ってきた。自分に相手を見る目が無かったと言えばそれまでだが、言い寄ってきた奴に断る理由もなかっただけのことなのだ。
とりあえず空いた時間に、「普通の夜遊び」を覚える程度の付き合いはしてきた。何度か寝たりもした。だが、それだけである。別にこいつがいなくては駄目とか、相手に執着したことはない。それはメイトウだけでなく、友達でない付き合い関係をしてきた相手に対しては大抵そうだったが…
執着を持っている相手と寝たら、絶対に湿っぽい関係を求めてしまうだろう自分が、自分の中にいるのをハルは知っている。そういうのは、嫌だった。
だから、ハルは執着を持ちそうな相手とは決して寝ない。
少なくとも、今は。