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イントロダクション1987・05 (2)

「今日でお別れです。お嬢さん」


 第二土曜の朝、着ていくものを選んで鏡の前に居ると、いきなりハウスキーパーは言った。珍しいことである。こんな時間にこのハウスキーパーが居るなんて。


「…え?」

「今までどうもありがとうございました」


 彼女はブラシを手にしたまま、ハウスキーパーのハリマさんの両腕を押さえる。


「…何で? 何かあったの? 何かしたの? それとも…」

「いえ、どうやら私の役目はもう要らないらしいと…」

「母様が?」

「お嬢さん…」


 ハリマさんは四十代後半の女性で、結構長くこの家に通っていた。ハリマさんは全く自分と話そうとはしない母親よりも、ずっと彼女と会話も接触も多かった。

 彼女はハリマさんの両腕を掴んで、揺さぶり、同じ問いを繰り返す。そして同じ反応が返ってくる。答は判っているけれど、それを口には出さない。

 何度か繰り返した後、彼女は腕にかけていた力を緩めると、


「そうなのね…」

「…」


 ハリマさんは無言でうなづく。彼女はため息をつく。ああ、またか…


「判った、ごめんね。十分な退職金はもらった?」

「はい、お嬢さん。心配かけてすみません」

「元気でやってね」

「はい。お嬢さんこそ…」


 彼女は目を伏せて、ハリマさんの手を握ると、


「一つだけ聞いていい?」

「はい?」

「あなたの本当の名は何?」


 ハリマさんは一瞬目を大きく広げると、低い声で問い返した。


「…知っていたんですか」

「ううん」


 知ってはいなかった。だけどかまをかける程度には気がついていた。この人も、まえの人も、そして彼…サカイも、自分に呼ばせるその名前は本当の名ではない。だが今までそのことについて尋ねる気はなかった。何故なら、その理由が自分の予想していたことと同じだったら。


「でも、考えたら、判ってしまったのよ」

「…お嬢さんは頭のいい方ですから」

「そんなこと、何になるっての?」


 彼女は顔を伏せて、やや自嘲気味に笑った。ハリマさんは握られた手をそっと放すと、


「砂原教子と言います。でも忘れてしまってください。いいですね」


 彼女はうなづいた。「ハリマさん」こと砂原教子は無言でお辞儀をすると出ていった。音一つ立てずに。


 砂原教子が出ていったあと、室内は奇妙に無音になった。

 もともと防音がよく効いている部屋だったが、会話していた人が消えると、急に音はその色を無くす。耳の奥でキ… ンと微かな音が響く。それだけだった。音楽を大音量で聴きすぎなんだ。彼女はふとそう思う。やがて耳なりはプツンと、スイッチを切り替えたかのように止んだ。

 妙なくらい、何も感じなかった。ただ、音が一つ消えただけだった。

 以前、音が一つ加わったのは、「ハリマさん」と「サカイ」が加わった、その二回だけだった、と彼女は思う。それ以前の記憶は薄い。だが、これから先、音が幾つ加わるか、それは全く想像ができなかった。

 彼女は三日先のことも、本当は予想できなかったのだ。その場に自分がいる保証はまったくなかった。

 ではその時自分はそこではない何処にいるのか、と問われたら、それはさらに予想がつかなかった。

 それ以前に、彼女には、自分がここに居ること自体に実感がなかった。

 毎日、何事もなく日々が過ぎていく。別に心が浮き立つような楽しいこともないが、涙がこぼれてくるような悲しいことも悔しいこともない。喜びも悲しみも怒りも、何処か遠い国の誰かの話にしか思えないのだ。サカイは自分と居て、さぞつまらないだろうな、と彼女は思う。

 それでも、「ハリマさん」や、サカイがいる時は、少しは感情らしきものもある自分に気付いた。とはいえ、それが一般的にいう、「楽しい」とか、「悲しい」であるか、それはやはり判らないままだったのだが。

 だが、彼女にもただ一つ実感として判る感情があった。もちろんそれはほんの時折にしかないが。「恐怖」である。色で言うなら、「白」。

 再び鏡の前に座る。ぼんやりと、半ばマヒしたような思考が走る。何を着て行こう。

 クローゼットには、割合沢山の服がある。彼女は結構多めの小遣いをもらっている。そして、その金額は、有名なブランドの木綿のひらひらのワンピースを毎月買って、そのお釣りで好きなLPレコードを何枚か買い込むのに充分なくらいだった。

 頭の芯がぼんやりしている。今話しかけられても、きっと他人ごとのように自分は返答をするだろう。そう感じながら、彼女はなんとなく、めまいの前兆のようなゆらゆらする視界の中、白のワンピースを選んでいた。そしてそれに淡い黄色のカーディガンを組み合わせて、一輪のコサージュをつける。

 このブランドの有名な色である「赤」は、妙に今、着る気にはなれなかった。



「あ、新しい服ですね」


 会うなりサカイはそう言う。彼に会ったとたん、こわばっていた頭の中が少し溶けるのを感じる。彼女はそお?と気のないように返事をする。内心、ふとこぼれそうになる笑みを押し殺しながら。


「ご希望の陸サーファーを見るなら、結構見晴らしのいい所を知ってるんですよ」

「何処だっていいよ。あたしあんまり知らないから」

「そうですね」


 カーステレオからは無性に明るいメロディが流れている。あ、あの…だ、と彼女はすぐに気付く。この声はそうそう聞き違えるものじゃない。

 それじゃわざわざ探したんだ。昨日会った時にはまだ彼はアーティストの名すら知らなかったのを思い出す。3rdアルバムだ。「NIGHT WAVES」。彼女の中で奇妙な暗雲が薄くたなびきだす。このアルバムの中の曲は、耳で流している分なら充分以上ポップなのに、耳を澄ますと、不安が混じっている。

 歌詞のせいだ、と彼女は思う。どの曲にもさりげなく漂っている、「何もかも捨てて楽になりたい」という気分が、そのポップなメロディのせいで、知らぬ間に心を染めていく。「ビートの中のスローなスーサイド」。


「買ったの?」


 信号待ちで彼女はこれ、とテープケースを指して言う。まだこの頃の主流はレコード盤だ。CDは普及していない。そうでなければミュージックテープという奴だ。


「とりあえず、ですからね、ちょっとレコードを買ってからダビングする暇が無くて」


 とりあえず、でわざわざ買ってくる訳ね。彼女は流れてくる曲に耳を傾ける。A面分が終わる。聴いているうちに重くなってくる感覚に、取り替えてもいい?と彼女は4thアルバムのテープを引っ張り出す。

 テープは途中からになっていた。何の曲を聴いたあとだったんだろう、とかけ始めてからインデックスを見る。彼女も好きな曲だった。


「あ、これか」

「はい?」

「サカイもこの曲、好きなの?」


とその曲のタイトルを挙げる。


「好きなのかどうかは判りませんけれど… 気がつくと、繰り返しかけてますね」

「それは一般的に好きだって言わない?」

「そうかもしれませんね」


 どうしたんだろう。彼女は次第に不安になる。サカイの答はいつもよりも気が抜けている。何か他のことが気に掛かって仕方がないように、彼女には見える。おニューのワンピースにすぐに気付いた彼なのに。


 街中を抜け、次第に車の数も減ってくる。点々と見えるのは高く回る国道ぞいのレストランの看板や、どこそこまで何キロ、とか書かれている青いプレートばかり。

 やがて、海が見えてきた。そうするとまた車の数が何処からともなく、増えてくる。


「やっぱり土曜日だもんね」

「でもあの半分が陸サーファーなんですよ」

「やーだー」


 結構景色がいい、と彼女はそのあたりで思う。だけど、サカイはさらに遠くへと車を走らせていく。何処まで行くんだろう、と彼女はふと不安になる。やがて、わき道に逸れると、他の車の姿は全く見られなくなった。

 道はない。そしてその道の終わりで、彼は車を止めた。


「…サカイ?」


 彼はハンドルにつっぷして、黙っている。その様子が余りに深刻なので、彼女は声一つ掛けられない。でも。


「どうしたの? ここが言ってたところ?」

「…ええ」


 エンジンを切る。それまで鳴っていたカーステレオの音も一緒に消えた。


「何かあんまり、景色ってほどの…」

「でも、終点なんです」


 それほど高い所でもない。海に近い所ではあるが、あと数百メートルも西へ向かえば、大きなホテルや、別荘がちらほらと建つ所もある。リゾートと生活の中間地点のようなところだった。


「でも、終点なんです。あなたの」

「…」


 全身に、悪寒が、走った。


「そのワンピース、良く似合ってます。かなり、可愛い」

「…」

「あなたは、頭のいい子でしたから、ある程度、気付いていたかも知れません」


 過去形を使わないで。


「何を」

「俺が、あなたの見張り役だったということ」


 彼女はうなづいた。

 あの母様が、ただの気まぐれだったら、良かったのに。

 彼女の悪い方の予感。もしくは推理。ただの、子どもを放り出している母親が、たまに何かしてやろうとする気まぐれ。そうだったら良かったのに。

 でも予測はしていた。


 母様は、何かしようとしていて、そのためにあたしが邪魔なんだ。


 彼女は思う。


 母様は、あたしを消去しようとしている。


 普通の子は、そういう予測は、しない。

 だが、普通の家庭なら、ともかく、彼女の母親は、この目の前にいる男の大切なものを何らかの形で握っているらしい。握れる立場にあるような人物であるということだ。


「何を、あのひとに、握られてるの?」


 サカイは視線をゆっくりと彼女に向けた。


「家族です」


 家族。彼女には縁が薄いもの。


「どんな人がいるの?」


 彼女はふと聞いてみたくなった。


「普通の家族って? サカイが守りたいと思うほど大切なものって?」

「普通だと、思いますよ… 父親がいて母親がいて、弟が二人… 猫が一匹… ごくごくありふれた、家族だと、思ってました。今でも、思いたいです。思ってます」

「大切な、ものなの? それって」

「大切です。大切なんです。だれも、誰一人、欠けさせたくないんです。全部揃ってこそ、家族なんです」


 そんなにまで大切なものなの? 彼女には判らなかった。

 彼女は、父親の顔も知らない。ものごころついたときには、母親とハウスキーパーしかいなかった。母親には聞くことも、できない。母親に聞いたら、…想像停止。ハウスキーパーが知っている訳もない。だいたい彼女は、母親の本当の職すら知らないのだ。

 家族どころではない。彼女は自分の名前に実感が無かった。母親はほとんど呼んだことがない。自分は彼女に声を掛けられたことが一体どれだけあっただろうか… 無かったかもしれない。

 そこまで考えが巡った時、ふと、一つの記憶がよみがえる。


 あれは、まだ記憶に新しいから、一年以内だったと思う。母親が帰ってきたのも気付かずに、つい、いない時と同様に、そのひどく通る声で、歌っていたとき。大好きな、洋楽の、ロックバンドの。

 その時始めて、母親が自分に感情を向けた気がする。やめなさい。耳に響く。その声は聞きたくない。黙りなさい。そして声を止めるために、彼女は始めて母親から殴られた。

 でもその制止する声は、自分のものとひどくよく似ていた気がする。よく通る声。

 ほとんどない記憶の断片は、自分に対する、怒り。それでもそれがある。それだけでも彼女は嬉しかった。


「そして、あたしを、消すの」

「…」


 今度はサカイが黙った。彼は黙るしかなかった。


「…親父は、あのひとのおかげで助かったんです。あのひとが上層部に掛け合ってくれなかったら、うちは全員、事故死して保険金を差し出さなくてはならなかった。そのくらいの失敗をした親父と、うちの家族を、あのひとは助けてくれた。そしてその代わり、俺を貸してくれ、と言った」


 いつになく彼は雄弁になった。いつもの、年齢以上に思わせるような喋りではなく、年相応の、よく学びよく遊んでいる大学生のような。


「親父は嫌な予感がしたらしいけれど」

「サカイはいいと言った?」


 彼女が続ける。サカイははい、と答えた。


「どちらにせよ、断る道はなかったんです」

「いつの話?」

「あなたのところへ来る少し前です」


 …ああ、そうか。


 彼女は思考が加速して回転するのを感じていた。感情はもうとっくの昔にその顔から抜け落ちていた。ただ、ここに起こっていることを必死で理解しようとしている理性だけがあった。


「じゃあ、あの時から、もう、母様は、あたしを要らなかったのね」


 あの時?

 そう言えば、あの歌って、叱られた頃に彼はやってきた。じゃあその頃から。…いや違う。要らなかったのは、始めから。


「母様は、最初の間違いを訂正したいの? そうなの?」

「…」


 泣きもしない、わめきもしない。ただ淡々と受け答えする彼女を、サカイは本当に可哀そうだと思った。

 だが、二人とも助かるという道は無かった。


 これが自分一人の問題だったら。


 サカイは思う。

 この子を連れて逃げてもいい、と思ったこともある。だけど、自分の手には、家族の重みがかかっている。自分は、この家庭で、ずっと、幸せだったから。自分はともかく、幸せな家庭を幸せなままにさせてやりたかったから。自分が欠けて、幸せかどうか、という問いはとりあえず無視した。

 自己満足かもしれない。

 でもいい、と彼は思った。そんなことをいちいち考えているより、何かしなくては、少なくとも、誰かが幸せになるためには。


 そして自分たちの幸せのために、この子は犠牲になるんだ。


 サカイはずっと迷っていた。そしてその迷いを「あのひと」に指摘された。

 時間はないぞ、とあのひとは言った。


「…すみません」


 出て、と彼は彼女を促した。何も言わず、彼女は言われるがままに車を降りる。そして手を引かれ、しばらく、雑草の繁る空き地を歩いた。海が見える。空き地もそこで行き止まりだった。切り立った崖。3、4メートル下に、底が見えない少し深い海が見える。大した高さではないが、のぞき込むと、やはり足が震える。

 ふ、と風が吹いて、彼女のカーディガンを揺らした。


「逃げるなら今ですよ」


 逃げる? その単語は彼女の中に無かった。

 もちろん彼女とて死にたくはない。だが、だからと言って、生きて何かしたいというものも何もなかった。

 いや違う、したいものは何か、あるのかもしれない。だが、まだ見つけていないのだ。


 でもそのために逃げる? 

 サカイを置いて? 

 そしてサカイの家族はまためちゃくちゃになって? 

 事故死させられて?


 考えが渦を巻く。ぐるぐるぐるぐる。答のない問いをずっとぐるぐるぐるぐる。


 違う。


 彼女は思う。


 答はあるはずなのに!


「…サカイ」

「はい」

「あたしのこと、好き?」


 彼は判っていた。だけど。

 サカイは、一瞬、彼女を力一杯抱きしめた。白づくめの、本当に、よく似合っているのに。

 そして引き離すと、そのまま手を取って、大きめのカッターナイフでその手首を切りつけた。彼女の目が大きく見開かれる。飛び散る血がワンピースとカーディガンにかかる。そしてもう片方も――― ふらふらと彼女は、痛みからか、ショックからか、判らぬままに、崖の縁へとバランスを崩し…


 コサージュが、飛んだ。


 落ちて行く瞬間、一気に画像が頭の中を乱れ飛んだ。色鮮やかに、飛び散るその中で、彼女は、幸せな光景を、見た、と思った。でも、その中には。


 これが幸せな光景?


 母様母様母様母様母様母様母様母様…


 母親が始めて自分の方を向いた瞬間。母親はその時、この日を決意した。


 こんなのは、違う。


 よく似た声。あなたの子供だという証拠のように。

 だから、居ては困るの?

 あなたは、はじめから、子供なんて、欲しくはなかったんだ。

 でも、少しでも、可能性があったなら。あたしの方を、見てくれさえすれば。あたしはあなたが邪魔だというなら、消えてもよかった。

 でも。

 なら、どうしてあなたの手で。

 あなた自身が、あたしに、そう言ったなら。

 それで、あたしは、充分、幸せに、消えていける、はず、だったのよ。

 でも、それすらもしないのなら。


(これは始めて持つ感情なのよ)


 あたしは。


 あなたを、許せない。


 そして、彼女は、その時、生まれて始めて、本当の、声をあげた。


 サカイは、その時、耳から入るその音に、全身に冷水を浴びたような感触を覚えた。この声は。

 足元に、淡い黄色のカーディガンだけが、残された。返り血を浴びて、所々に次第に赤から黒系の色へと変わっていく。


 …さん。


 殆ど呼んだことのない彼女の名前をつぶやく。


 …どうかあなたに全ての幸運を…!

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