イントロダクション1987・05
…その頃は、毎日風が吹いていたように、彼女には思えた。
それは大して強くはない。だのに、なま暖かく、奇妙に重くて、身動きさえままならない。
手ごたえのある風なら、重い風なら、冷たい風なら、逆らいようもある。どちらから吹いている風か判れば身のかわしようもある。だが、それは読めない。動きがとれないほどでもない。
それでいて、四方八方から絡み付き、吹き上げる風は不意に背後から襲いかかり、思うように動きを取らせない。
放して。
そして、いつも思う。
ここを通り過ぎれば、帰れる。自分の一番居心地のいい場所に。
長い距離ではない。晴れていれば、十分もかからないのだから。なのに、風が吹き荒れている。
気がつくと、周りは海なのだ。橋の上にいる。柵は低い。バランスを失ったら海に落ちる。しかも高い距離から。
風は冷たくはないのだから、冬ではないのだろう。落ちてもすぐに死ぬなんてことはない。だけど、そこから陸地までは泳ぎきれる距離ではない。少なくとも、それまでの日々で泳ぎきったことはない距離だ。
雨が降っても、傘さえさせない。濡れても仕方がない。ただ向こう側につくまでは。
…ではその向こう側は本当にあるんだろうか?
霧がかかっていて見えない。
ただ進むしかなかった。どれだけ風が吹こうが雨が降ろうが、そして陽が強烈に照りつけようが。
「そうしなければ、死ぬだけのこと」
目が醒めると、ひどい汗をかいている。
*
「お早うございます」
珍しく母親が、居た。
二人暮らしの家庭にしては広い部屋の、広いダイニングキッチンで、母親は既に朝食を終えようとしている。どうやら今日は仕事の方も大変なものらしい。 テーブルの上には大きな皿にイングリッシュ・ブレックファスト、きちんとした英国流の朝食が取られた跡がある。彼女はそういう日の前日はそういう習慣があるらしい。ハウスキーパーに前日に用意させる。電子レンジでチンするだけで見事な朝食。彼女の食卓にも同じものがラップをかけて用意されている。
母親はきれいにたいらげた皿を前に、最後のメニューとばかりにこればかりは自分で煎れた紅茶を飲んでいる。ポットに二杯作られたそれは何も入れずに一杯、ミルクを入れて一杯、そして綺麗にこれも空になる。
母親はさっと立ち上がると、彼女が見えていないかのように、皿を流しに運んでそのままバッグと上着を手にすると玄関へ向かう。きびきびとした足運び。その一連の動作は、彼女が物心付いた頃から全く変わっていない。その年齢よりも若く見える外見、肩より少し上で切りそろえたさらさらした髪、あまり大きくないけれどはっきりとして少しだけつり上がり気味の目も、よく似合う服の明るい色合いも。
そして、自分の居ることなど全く気付かないようにしていることも。
彼女はその母親の一連の動作中、決して視線を合わせないようにして座る。音を立てないように篭盛りのパンを手にする。自分でポットのお湯でインスタントのコーヒーを煎れる。そっと冷蔵庫を開けてミルクを、マーガリンを出し、ゆっくりと食卓に乗せる。その頃には母親はたいてい別室の鏡の前で見繕いの最後の点検をしているので、食卓の物音なんて大して聞こえる訳ではないのだけど。だが習慣化してしまったものはそう変える訳にもいかない。母親は朝に誰かの気配があるのをひどく嫌いなようだから。
ドアを閉め、鍵を掛ける気配。そしてやっと彼女はふうっと大きな息を吐く。
やっぱりもう少し眠っていればよかった。
そう思うのだけど、たまたま今日は当番の用事があって、早く学校へ行かなくてはならなかった。
いつもなら、ぎりぎりまで眠っている。眠ってはいなくとも、自室でじっとしている。あのドアの音と鍵の音が聞こえるまで。その音が聞こえるとほっとする。母親が仕事へ行ってしまったというしるし。何の仕事かは知らない。
昔は通ってくるハウスキーパーに尋ねたこともあったが、説明する言葉は難しすぎて意味の判らないものだった。そしてその直後ハウスキーパーは変わってしまった。
それは禁止事項だったのだ。奇妙だ、と思う余裕などない。
成長していくごとに、彼女はこの家の中で平穏に暮らしていくための禁止事項が増えていくのを感じていった。
何のための「禁止事項」かも、年を経るごとに判ってくる。何の秩序もないような事項の羅列。だが、かっこでくくったその頭に「母親の嫌いなもの」という単語を付ければそれは成立する。
だから、母様の嫌いなことは、してはいけないのよ。さもないと。
そこで彼女の思考は停止する。
それ以上考えてはいけない。自分の中から命令が飛ぶ。
彼女は手にしたパンにマーガリンを塗りながら、意図的に、今日の天気を考えていた。東の風、曇り。風がどんなに暖かくとも、ほんの一筋だけ寒気を感じさせるものが混じっている。雨が降るんだ、こんな日には。
変わりやすい五月の空。金曜日の朝。
傘を持っていかなければ。大きな傘を。
*
彼女は学校はそう好きではない。
と、言うより、好きなところがない、というのが本当だった。
少なくとも、この学校は自分に合っていないと思う。だが、何が合っているのかと言われたら、答は見あたらない。
好きなものが特にない訳ではない。だが、学校の中にはない。
ないないづくし。
考えがもう既に逃げの体勢だ、ということは判っている。彼女はそう馬鹿ではない。母親譲りの頭は学校でもいい方だ。だがだからと言って、学校で目立つかというとそうでもない。校内に張り出されるベスト10の中には入らないが、20位以内からは落ちることもない。
学校で習うことは、ある程度はその場で覚えてしまえば、家で勉強する程ではない。家にまで、大して好きでもない勉強は持ち込みたくはなかった。学校でやることは彼女にとってその程度だ。
学校全体のレベルは悪くはない。だが、進学率はさほどいい訳でもない。進学すると言っても、それはその後の生活に色をつける程度の生徒ばかりである。
彼女の通っている学校は、私立のミッション系の高校だった。通ってくる少女達は一般家庭よりは明かに裕福だったり、伝統があったり、何らかの、そこへ通うだけの理由があった。紺ではなく、黒の制服は他の近隣の学校の制服よりも、ずっと何かしら重みがあって、近付こうとする男の子もよほど限られてしまう。
つまりはお嬢様学校、と言う奴だ。
自分の意志ではなく、彼女はそこへもう六年も通っている。これも母親譲りの病気一つもしない強靭な身体のおかげで、休むこともなかったが、好きにだけはなれなかった。だが、好きではないからと言って、行かない訳にはいかない。学費を出しているのは母親だったし、母親は彼女が登校拒否などしたら…想像拒否。
そこへ通わないと、生活ができないから働くブルーカラーのように、彼女は黒の制服、おっとりとしたお嬢様方のふわふわと入り乱れる鉄の門の中へ通っていた訳だ。
ブルーカラーの彼女は、それが何処であろうと、時間の止まったきらきらした世界、その中には馴染むことはできない。三年ないし六年間のその世界は、いずれは意志を奪われて、道具にされる訳ありのお嬢様ばかりの、時間制限つきの「楽園」だった訳だから。
そして、自然、クラスの中でも、自分で暗闇へと墜ちていくような態度を取り続ける彼女に近付く者はいない。一人でいたい奴にまでいちいち構おう、なんて暇な者はいない。「お嬢様」達はご多忙なのだ。時間は少ないのだ。楽しめるうちに楽しまなくては。終わりはあるのだ。現実はすぐそこ。
彼女がその「楽園」に馴染めないのは、彼女自身はいつも現実の中にいることを身に染みていたからだった。
馴染めないから、一人でいる時間は長い。けれど少なくとも、傷つけられることはない、と彼女は思う。。
「お嬢様」達が時々好意に似た感情を見せることもある。それも判る。が、彼女は応え方を知らない。
好意を受けたら、どう返せばいいのか、誰も彼女に教えてはくれなかった。だから、もしかしたら、自分が考えに考えて出した反応は、「お嬢様」達にとっては、「とんでもない」ことなのかもしれない。
疑心暗鬼。もしかしたら陰で笑っているのかもしれない。
「そうゆうのは嫌」。
失敗は嫌い。
いや、自分は別にどうだっていい。ただ、自分が失敗すると母親は嫌がる。だから、失敗はできない。
彼女はそれを教えてくれなかった相手に向かって内心叫ぶ。
「だからあたしの方を見て」。
*
「ナイト・フライっていう曲ですよ」
彼は答えた。
「夜に翔ぶ?」
「タイトルには『夜翔』とありましたがね」
「へー… 判った、あのひとでしょ」
特徴のある声。すぐに判る。
「こないだ買ったアルバム。聴いたことはありますか?」
「ううん、まだ。出たばかり… じゃないよね」
「結構前のですよ。三、四年前ってところかな」
彼はいろいろな日本のポップスをよく仕入れ、その都度彼女に聴かせる。たいていは彼のカーステレオに入れたテープである。
彼は「サカイ」と名乗った。この近くの国立四年制大学の学生だと言う。母親から自分の家庭教師を言いつかったとのことである。何でも、彼の父親が彼女の母親の部下だということで、その紹介だということだ。
何をいきなり、と言う感はあった。母親が自分の成績のことまで気にすることがないのは判っているし、これもただの時折起こる気まぐれに過ぎないのは判っている。もしくはただの気まぐれであってほしいと思う。気まぐれでないときの方がよっぽど恐い。
高校に入ってすぐ、彼は自分の前に現れた。
週に二、三度部屋へやってきて勉強をみてくれる。月に一、二度週末には車で何処かへ連れ出してくれる。
横に並ぶと彼の肩が彼女の頭くらいの身長で、こざっぱりとしたスーツ系の服が好きで、声はやや低めに、甘い。顔は十人並だと思ったが、優しくて、しかも頭もいい。高校の時はスポーツ系だったらしい。
まるで雑誌の「恰好いい男」のサンプルじゃないの、と彼女は半ば冷静に観察していた。
だが、それはそれとして、彼がやってくる日の中で、日曜とか祭日の、自分を連れ出して何処かへ一緒に行ってくれる時なんかは、どうしても自分がいつもよりも可愛いブランドのワンピースを着込んでしまうのにも気付いている。
何なのよ一体。そう思っても、答は知れない。
理性で考えれば、自分はある程度、このファッション雑誌の「シティボーイ」欄に載っかっていそうな彼を、結構好きだ、ということは理解できる。だが、そのあたりがよく判らなかった。
好きという感情が、どういうものなのか、よく判らない。
自分は、好きなものには、もっと突き詰めて好きになるタイプじゃなかろうか、とは思っている。少なくとも、読む本の中で、シンパシイを感じるのはそういうタイプのヒロイン。
だから、こんなふうにふわっと、「何となく」で始まる感情なんて、知らない。
五月の第二金曜日。とりあえずこの日は、「お迎え」に来た車の中だった。
「何てタイトル? アルバムは」
「MELODIES」
「ふーん」
彼女は車の窓を少し開ける。
「今度ダビングしてあげますよ。こないだのはいかがでした?」
と別のアーティストの名を出す。しばらく前にN・Yへ行って、帰ってきたらいきなりサウンドが違っていたシティ・ロックアーティスト。
「二枚目と三枚目が良かった。四枚目は聴く側のこと、考えてないってかんじ」
「…趣味に走った、という感じはありましたね」
「でも、趣味ばっか、だったらいつかは消えていくんじゃない?」
「そうですね。でもきっと彼はそうならない」
「どーして?」
「彼は頭がいいし、社会人経験者だからですよ」
「それは初耳。社会人経験してると強いって訳?」
「学生時代なんて、ぬるま湯のようなものですよ」
珍しく、サカイは断言する。彼女はしばらく黙って、特徴のあるヴォーカルを聴いている。よく伸びる声は日本人離れしているし、他のアルバムに入っている多重録音のアカペラはヘッドフォンで聴いたとき、身震いがした。とりあえず現在かかっている曲は、さほど装飾はかけられてないけれど、気持ち良かった。
「この曲は好きだな」
「ナイト・フライですか?」
「うん。気持ちいい。初夏の夜っぽい」
「今の季節ですか」
「そおね。でも夏だけのひとではないでしょ? 確かに夏な曲多いけど」
彼はそれには笑って答えない。
「あなたの方は、どうですか? 何か面白いアルバムはありましたか?」
「去年か一昨年、カルピスのCMに使ってた奴」
「…ああ、あのグループですか。確かにあのグループのヴォーカルはいい声ですよね」
「気持ちいい声だよね」
「何処が気にいりました?」
「だだっぴろいの」
「…は?」
それでね、と彼女はサカイの疑問は無視したように続ける。
「あれと… の… ってアルバムが妙に似た感覚で引っかかってて」
「…誰ですって?」
やがてポップス界最高の売れっ子、彼が曲を提供すればまず大抵売れる、と言われるようになる彼も、まだこの頃は、知っている者も少なかった。高校生百人したとして、その中の一人が知っているかいないか… そんな時代だった。
彼女は肩をすくめる。やっぱり大学生でも知らないんだ。
「金色が空を覆うとき… てのがあってね。歌詞の中に」
「夕暮れ?」
「とは限らないとは思うんだけど。ただカルピスのも、…も、どっちも、すごく広い所が浮かんでくる」
「広いところ、ですか…」
「広いところって、好きだもの。閉じこめられてるの、嫌い。息が出来なくなりそう」
「…そうですね」
交差点で、信号は赤。
「明日暇?」
助手席の彼女は、唐突に言う。
「何処かへ行きますか?」
「行こう」
「何処がいいですか」
「陸サーファーをからかいにいこう」
「そうすると帰りが夜になってしまいますよ」
「昼間のうち! いいでしょ」
「いいですよ」
彼はあっさりと言った。そういうだろうというのも判っている。判っているから、言う。無理なことなど、絶対に口には出さない。
でも、彼と会うまで、そういうものの頼み方なんて、知らなかった。それで言うことを聞いてくれる人がいるなんて。ひどく不思議だった。
「したいことは、ありませんか?」
それが最初に会った日、帰り際にに彼が彼女に言った言葉だった。
「俺にできることなら、しますよ」
きょとん、と彼女はしていた。意味をしばらく考えているようだった。やがて、それが言葉通りの意味なのだと理解すると、おずおずと、いいの?と訊ねた。いいですよ、と彼は答えた。
彼女は基本的には無理な頼みはしない。考えたうえ、相手に可能に範囲な頼み事しかしない。それさえも、ようやく最近定着してきたところだ。
「じゃ昼ね」
「あなたの好きな時でどうぞ。『MELODIES』のテープも忘れずに持ってきますよ。クリスマスの曲であなたの好きそうな奴が入ってましたから」
*
その日は帰ってから勉強だった。
彼女はたいていの教科も平均的に出来る。ただ、やや文系の方が強いかな、という感はあった。
サカイは確かにいい大学の学生らしく、知識が豊富だった。その知識の中でも、音楽関係は特に豊富だった。彼女の音楽の好みは彼の影響が非常に大きい。だがそれは主にポップスだった。
「ロックは聴かないの?」
と以前尋ねたことがある。すると彼はひらひらと手を振ると、
「ちょっともうおじさんですからね」
何を言ってるんだ、まだ二十代になったばかりだろ。そう言おうと思ったが、よした。所詮、そう言ってしまっているということは、本人がそう思いたがっている、ということだから。