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水の向こうへギルを見送りながら精霊に祈る。
どうかギルが無事に帰りますように、すべてうまくいきますように。
水飛沫が収まった頃もうそこにギルの姿はなくて、詰めていた息を一度大きく吐き出すと、すっかり凪いだ水面を見つめて立ち尽くすリュオンを振り返った。これで舞台の準備は整った、後は役者を揃えるだけ。
「今のは……どうしてコーネルの屋敷に、あいつが、何だ……?」
雫の消えた紫の瞳が戸惑いに揺れて私を見る。私が今からしようとしていることは、リュオンを、そしてアルを傷付ける結果になるのかもしれない。担当医として支えてくれたコーネルを一番信頼しているのはふたりだろうから。でも、それでも私は。
「それを今から確かめに行くの」
リュオンに向けて手を差し出す。お願いだからこの手を取って。私はまだリュオンに生きていて欲しいんだ。これから踏み出すのは、そのための一歩にするから。
恐る恐る、でも揺れていた瞳に決意の光を宿してリュオンもまた手を伸ばす。そうして繋がれた手の温度に、私は小さく安堵した。
*****
「……正門、通り過ぎたんだが」
急ぎ足で戻った屋敷の前を素通りするとリュオンが不可解そうにそう言うけれど、私は気にせず彼の手を引いて外柵沿いに屋敷の裏手の方へと歩いて行く。
「この辺からでいいかな」
立ち止まり向き合った柵は高く、思わず見上げる形になりながら頭の中で詠唱を組み立てていくと足元に感じる浮遊感。最近は白魔法ばかりしてきたから少し不安だったけど、うん、うまくいきそうだ。
「おい、まさか……」
端正な顔を引き攣らせてリュオンが呟いて。
「うん、ちょっと浮くよ」
「ちょっ、待、」
「あ、手離したら落ちるかも」
即座に強まった手の力に少し笑いながら、もう一度気を引き締める。まだコーネルとリュオンを引き会わせるには不安があるし、誰かにリュオンの姿を見られたら説明が面倒そうだし。となると。
三階のアルの部屋から少し離れた一室。そこに高度を上げて近づいていき、窓枠を少し揺らせば窓の向こうで軽やかに鍵が開く音がする。何を隠そう以前ここを開きやすく細工したのは私だ。唯一まだギルにバレていない秘密の脱出口があるここは私の自室だったりする。
そっと音を立てないように部屋に降り立つと、部屋の中と廊下を見渡してみて、使用人の姿が無いことにひとまず息をついた。
「……おい」
そうしていそいそと窓の鍵を掛け直していると、暫く黙り込んでいたリュオンから疲れたような声がかかって不思議に思いながら振り返る。するとそこにはやはり疲れきった様子で座り込むリュオン。そんな恨めしげな顔で見上げられても私は首を捻るしかないんだけど。何か不満でもあっただろうか。
「もっと普通に帰宅できないのか……」
「あれ、空中歩行はお嫌いでした?」
負担がかからないように慎重に飛んだつもりなんだけどなあ。この魔法もまだまだ改良の余地があるのかもしれない。そう考えていると、リュオンがため息混じりに言葉を零した。
「嫌いも何も、宙に浮いたのは初めてだ」
初めて。なるほど、私も初めて宙を歩いたときはちょっと怖かったもんな。でも、そっか。
「そっか、初めてかぁ……!」
思い出すのは、初めて自分の足で駆け回ったときの喜び。初めて魔法を使ったときの高揚感。初めて空の広さを知ったときの感動。じわじわと懐かしい感情が蘇ってくる。
「……何だ」
私の緩んでいく頬に、馬鹿にされたように感じたのかリュオンが不機嫌そうに顔を顰めたけど、ああ、そうじゃなくて。
「それはすごく、良い事だと思う!」
初めての経験。それは過去を彩って思い出に変え、今を輝かせて未来に繋げる。リュオンもアルも、自由と呼ぶには少し窮屈すぎる世界で日々を過ごして来た。でもそれも今日でお終いで、彼らの世界はきっと色付いて。
「これからもっと、いろんなことが出来るようになるよ。絶対、そうなるよ。約束する」
「……そんな訳、」
「私が全部、治してあげるから」
五年前、アルに向けて言った言葉を、建てた誓いを、もう一度。
*****
扉を叩いたノックの音がやけに大きく響いて、部屋の中から誰だ、と声が返ってくる。この声は、お父様だ。ひとつ息を大きく吸ってから言葉を返す。
「ミラです。ただいま帰りました」
言うとすぐに中から扉が開かれて、飛び付いて来たのはお母様。
「ああ、ミラ! ギルが血相変えて出て行ったと聞いて、あなたに何かあったんじゃないかって心配してたのよ」
そう言って私を抱き締めたお母様の肩越しに今にも泣き出しそうな顔をしたアルと目が合って、安心させようと笑って見せれば同じようにアルもふにゃりと笑った。
「ごめんなさい。ちょっとギルに用事があって来てもらっただけなの」
その用事についてはまだ言えないんだけど。お父様もお母様もギルをすっかり信頼しているからそれ以上言及されることもなくてひとまず安心する。
「ギルったら、ミラのことになるとすぐに必死になるんだから」
お母様はそう言って小さく笑うと、抱き締めていた腕を解いて今度は私の手を引く。
「さあ、ミラもお入りなさい」
「……、うん」
最後に廊下の向こうの自室を一瞥してから、私はその手の導きに従って一歩。視線を前に戻せば、部屋の奥、アルのベッドの傍らに立つコーネルと――目が、合った。
「こんにちは、ミラお嬢様」
いつもの、柔和な表情でコーネルが笑う。彼は伯爵位でうちとは身分差こそあるけれど、以前私が希望してからというもの、私に対してあまり堅苦しい態度をとらないようになって。私は彼を、少なからず師匠のようだと、慕っていて。
「こん、にちは」
渇いた喉から、それでも何とか平静を装って挨拶を返す。強張りそうになる頬を持ち上げて笑顔を作る。
まだだ、まだ話を切り出すときじゃない。私がリュオンの存在を知ったことを、気付かれちゃいけない。
大丈夫、リュオンには私が呼ぶまで私の自室から出ないように言ってあるから、大丈夫、大丈夫だよ。
自分にそう言い聞かせるようにしながら、アルのところへと歩み寄って行く。それは同時に、コーネルに近づいて行くことにもなるわけだけど。
「アルー、ただいまー!」
震えてしまいそうになる体を誤魔化すように、ベッドから身を起こしたアルへと抱き着くと、嬉しそうなアルの声が聞こえて少しだけ心が落ち着いた。
「おかえりなさい、ミラ姉!」
アルの笑顔は好きだ。まだ一度しか見たことはないけど、リュオンの笑顔も。
『はじめまして、これからアルメス様の往診をさせて頂くコーネルと申します』
思い出す、コーネルと交わした言葉。
『私があなたに医術をお教えしましょう』
師となり、私に救う力を与えてくれた。
『よくできました、ミラお嬢様』
そう笑って、私の頭に手を伸ばして。――でも、その手は冷たくて。
脳裏に浮かぶコーネルの優しい笑顔。それがどんどん靄のようなものに包まれていく気がして、遠くなっていく気がして、私は思わずアルの肩口に額を押し付けた。零れ落ちてじんわりと滲んだ一滴に気付いたのは、きっとアルだけ。
「ミラお姉、ちゃん……?」
「その呼び方、懐かしいね」
戸惑いがちに私の名前を呼ぶアルを一度だけぎゅっと抱き締めて、私はまた笑った。私が笑えばアルも笑うから、アルが笑えば私は嬉しいから。
「それじゃあコーネル、そろそろアルを診てやってくれるか」
お父様がそう言う。
「はい、分かりました」
コーネルが近づいて来る。視界の端で精霊がくるりと回った。
舞台は整った、役者は揃った。さあ、幕開けです。
「……ミラお嬢様? 何を、」
アルへと伸びたコーネルの手を、絶対離さないように両手で掴む。
ねえ、コーネル。あなたは――
「あなたは、悪い人ですか」