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「いいかミラお嬢、よーく聞けよ」
ギルが三本の指を順々にぴんと伸ばしながら、神妙な面持ちで言う。
夕暮れまでには屋敷に帰ること。
怪我をしないこと。
何かあったらすぐに魔法を打ち上げて知らせること。
「この三つが守れるなら、まぁひとりで外に行くのを許してやってもいい」
「ほんと!?」
許すと言いながらたいそう不服そうな顔のギルに思わず抱きつくと、やめろ暑い離れろと頭をぐいぐい押されるけど今の私にそんなことはたいした問題ではない。
「ギルありがとう! だいすき!」
「……おう」
口も素行も悪いくせに妙に過保護なところがあるギルからひとりで外出許可が降りるなんて! 駄目元で頼んでみただけだったけど、言ってみて正解だった!お父様とお母様は貴族としては大概変わっていて、侯爵家の人間として必要最低限の作法や教養さえ身に付ければ、あとは随分と自由にさせてくれた。いい意味で放任的な両親に代わってギルは多分に私を心配する節があったから、そんな彼から渋々ながらも許可が出たのは嬉しい誤算だ。
まあここが王都近郊じゃなくて地方の公爵領だからだろうけど。王都の方だったら光の速さで却下されるレベルだ。貴族の令嬢というのも思っていたより大変で、王都にいるときは誘拐未遂に暗殺未遂まであったものだから、ギルは私をひとりにすることにかなり抵抗があるみたいで。
でもいつかは私もギルがいなくて大丈夫なようにならないといけないんだし、これは従者離れのいい機会なのでは!
というわけで、私はめぼしい魔導書を数冊と、それからあの外套をこっそり抱え込んで、ギルに大手を振って駆け出したのでした。
*****
さて。
外套を返そうと持って来たはいいけど、果たしてあの少年はどこにいるのか。そもそも今日もいるものなのか。昨日屋敷に帰ったときに使用人にそれとなく聞いてみたけれど、特に来訪した貴族もなかったみたいだから、正体も分からずじまい。お父様たちに話すべきかも迷ったけど、あの少年から敵意や嫌な感じは全くしなかったし、何だかもう一度会ってみたいと思う自分がいたから躊躇してしまった。もしも、万が一、何かまずい人であったならすぐギルに連絡、っと。あれこれ考えてみても分からないし魔導書を読む時間が無くなるのも嫌なので(本音)、ひとまずは安直に昨日の場所に行こうと思い立って。
本読みながら待ってみよう。
そう思って歩き進めていたけれど、湖に近づくにつれてだんだんと。
「あれ……?」
湖のほとりの草原が金色に輝いて見えて。
「あれれ……?」
恐る恐る音を立てないように近づけば、その金髪を風にあそばせて目を瞑る姿。
「寝てる……」
その様子を見下ろしながら、昨日とはすっかり逆の立場に小さく笑う。悪くないとは言っていたけど、こうして眠るのがそんなに気に入ったのか。
少しの間逡巡したあと、持ってきた外套を起こさないようにそーっと掛けて、私は少し離れたところにこれまたそっと腰を降ろした。そうして魔導書をぺらりと捲り始めながら一度だけ横目で見やっても、起きる気配なんて全く無くて、穏やかに眠る姿にほっと息をついた。
私は彼の邪魔をしないし、彼も私の邪魔をしない。
彼の言葉を借りて言うなら、悪くない、時間だった。穏やかに流れるときを私は魔導書に没頭して過ごして、そして半刻ほど経ったとき。
ゴソッと音がした方に視線をやれば、少年が身じろぎをしてゆっくりと起き上がるところだった。緩慢な動きで目元を擦る仕草がやけに歳相応に見えてまた少し笑うと、少年はこっちを見て見事に固まった。
「……、は?」
紫の瞳が零れ落ちんばかりに目を見開いたそれは、私と同い年くらいであろう彼が初めて私に見せた子どもらしい表情で。何となく勝手に大人びた印象を抱いていたから余計にその反応が可愛く思えて、堪え切れない笑いを零しながらも淑女の礼をとる。
「失礼致しました。お借りしていた物をお返しに参ったのですが、お休みのようでしたので邪魔をせぬようにと存じまして」
寝起き特有の働きにくい頭をなんとか動かそうと何度も瞬きを繰り返す少年に、これ以上は本当にお邪魔になるなと思った私は、一度外套の礼を言うとさあ立ち去ろうと踵を返した。今日は森の近くにいってみようかな、なんて。でも。
「……えーっと?」
動けない。なんで? 少年が私の手首を掴んで離さないから。……いや、なんで?
「……良い」
なにが!? 寝ぼけてるのかと思って繋がれた手をブンブンと振ってみても、うーん離れない。
「ここにいて良い。……それにその敬語も無くて良い」
「いや、でもそういうわけには……」
前者の方はともかく、敬語はちょっと。この世界は日本なんかよりもずっと身分社会だ。年齢なんか関係なくて、身分の高い方が上、そうでない方が下。特に貴族社会ではそれをはっきり区別することは本当に大事なこと、らしい。この少年の出自は知らないけど、言動の端々から教養というか何というか、貴族っぽさを感じる。適当なことをしてこんなところで不敬になるのは何だか結構に間抜けだもの。そうだ、この機会に家名でも聞いたならば私の疑問も葛藤も解決で……。
ところが断りをいれようとした私の言葉を彼の声が遮る。
「俺はリュオン。……名は?」
……自身の真名に家名まですべて言うのが一般的な貴族の自己紹介って、習ったんだけどな。私に家名を知られたくないのか、それともこういう例外もあるのか。社交界デビューもまだな私には少し判断がつかない。
「……ミラメティス、です」
結局、彼に習って真名だけの挨拶に留めてしまった。機嫌を損ねてないか心配になって少年、改めリュオン様の方を盗み見れば全くそんなことはなく、むしろどこか満足気にも見えた。
その様子を首を傾げて眺めていると、リュオン様は自分の横の草に外套を敷き、そこをぽんと叩く仕草をした。……まあ座れ、と。
「お邪魔、します。リュオン様」
「敬語。……それと、リュオンだ」
戸惑いがちに腰を降ろせば、即座にそう返された。……何か発音に問題でもあっただろうか。
「リュオン、様?」
「リュオンだ」
……もしかして、呼び捨てで呼べってことかな。えええハードル高い……。私の思考を読んだかのように彼は言葉を続ける。
「さっき、家名を名乗らなかった。今はただのリュオンとミラメティスで、そこに身分も家も関係ない」
ちょっとめちゃくちゃな理屈じゃあないかしらとは思うけど、見つめてくる紫の双眼の光に意志の強さを感じて、思わずぐっと言葉に詰まった。さっき真名しか名乗らなかったのはこういうことか!
「リュ、オンで、いいの……?」
何となく嵌められたような悔しさを感じながら、緊張気味にそう尋ねると、リュオンは笑った。
貴族らしい微笑むとかそんな感じじゃなくて。ぷはっと、声を出して、歳相応に。
「そう、それがいい」
初めて見たとき、私は彼を天使と形容した。その瞳が、髪が、この世のものじゃないくらい綺麗に感じたから。でもこうやって笑うリュオンの方がずっと綺麗で、もっとずっと人間らしかった。
嬉しそうなリュオンを見ているとなんだか身分なんかを気にするのが馬鹿らしく思えてきて、私もつられて笑った。