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アルメスの病気は私が治すと決意して五年――。
私が好んで修行するのは専ら火や水、風や土なんかを扱う自然魔法だったけれど、その熱意を治癒専門の白魔法へと移行し、持てる限りの才能と努力を注いだこの五年間。町の病院や療養所で少なからず無理を言って実践だって積んだし、知識も情報もとにかく仕入れた。
でも――。
「分っかんないー……」
何度も読み込んだ白魔導書を放り投げてそのまま後ろへと倒れこむ。視界に飛び込んでくる青空の色が目に痛くて思わず目を閉じれば、柔らかな風が頬を撫でてチリチリとした焦燥感を少しだけ和らげてくれた。
もうすぐ十歳になるアルメスの容体は、ゆっくりと、でも着実に悪い方へと向かっている。アルメスの担当医も言っていた通り、こんな病気は見たことがないのだ。確かに悪くなっているのに、どれだけ診ても心臓のどこがどう悪いのかが分からない。どれだけ知識や技術を身に付けても、原因が分からないと。
「治せない……?」
浮かんだその嫌な思考が口をついて出ると、それが一気に現実味を帯びてしまうようでゾッとした。ひとりでいるとこういうことを考えてしまうから、やっぱりギルを撒いて外に出てきたのは失敗だったかもしれない。
目を閉じた先の暗闇には何の希望も見出だせない気がして、だいすきな空色を求めて慌てて瞼を持ち上げると、しかし雄大に広がるそれを想像した先には。
「――だれ……?」
絹のように細く艷やかな髪は陽の光を浴びていっそうキラキラと金に輝き、深い紫水晶を連想させる双眼が私をじっと見つめていた。目を開けたら目前には知らない人、なんて、本来もっと声を上げて然るべきなのかもしれないけれど。そうさせなかったのは彼の纏う雰囲気があんまり静謐で現実味が欠けていたからだろうか。
天使かな。
ふとそう思うくらいには私も混乱していたけど、そうだと言われれば信じ込んでしまうくらいに彼は綺麗だった。
……綺麗だけど、こうもただじっと見下されるというのはずいぶん居心地が悪いんですが、あの。ギルを連れてくればよかった、本日二度目の後悔。
もそもそと起き上がりつつ、まだ混乱気味の頭をフル稼働させる。今アルメスの療養のために移り住んでいるここは王都から離れたところにあるうちの侯爵領で、自然溢れるこの場所にたくさんの動物はいても、人間はうちの侯爵家の者しかいないはずなのだ。でも私は屋敷でこの少年を見たことがない。
……じゃあやっぱり天使? まさか妖精?
あまりの驚きに混乱しつつひとりで首を傾げていると、天使、もとい少年がおもむろに口を開いた。
「……具合でも悪いのか」
これはこれは、私見ず知らずの美少年に知らない内に心配をかけているようで。え? なんで? 私の戸惑いの表情で察したのか、もはや声まで綺麗な少年が説明を付け足してくれる。
「倒れてたし、今も表情が百面相だ」
表情に関しては大方あなたのおかげですけどね、という言葉は飲み込んで、なるほどと思う。確かにこんな湖のほとりに人が倒れ込んでいたら不審にも感じるよね。私からしたら突然現れたあなたの方が不審ではありますけど。
「少し休んでいただけですので。お心遣いありがとうございます」
ひとまず侯爵令嬢として相応しいようにと叩き込まれた淑女の礼をとり、微笑みとともに言葉を返す。まあ草っぱらに寝転んでいるのを見られた時点で、淑女も令嬢もあったもんじゃないけど一応。
諸所の動作や身なりから洗練されたものを感じるから、どこかの貴族の子なのかも。父か母を誰かが訪ねに来ていて、そこに付き添っていただとか。何にしても、相手の地位が分からない以上下手にボロを出すのはよろしくないだろうなぁ。でも私令嬢モード苦手だし申し訳ないけどはやく立ち去ってほしいなぁ。
「……えっ、あの」
しかし笑顔の裏の私の思考に反して、あろうことか少年は少し思案する素振りを見せたあと、先ほどまで私が横になっていた場所の近くに腰を降ろし、そして――寝転んだ。ええええ。
「……なるほど、空の下で目を閉じるというのも、悪くない」
でもそう洩らす金髪の彼の表情が、予想外にあんまり儚げで穏やかなものだったから私は何にも文句も言えなくなって。
「そうでしょう。自然は雄大で、空は偉大です」
私もまた寝転んで空を見上げる。なんだか少年に対して抱いていた警戒心はすっかり緩んでしまって、私の瞼をゆるゆると下ろさせた。
そうして訪れた暗闇は、どうしてか不思議ともう怖くなくて。
結局この子は誰なんだろう。
ああ、魔導書、読まなきゃ。
ギルにバレたら怒られるかな。
とりとめなく溢れる思考は私にとって大事なことのはずなのに、ただ流れていく。
五年前の私にとってもアルメスにとっても転機というべきあの日以来、久しぶりに過ごす穏やかな時間に漂うように、溶け込むように。
起きたらまず名前を聞いて、そうしてもう少しだけ彼と話をしてみたいと、そう思って、私は意識を手放した。
――でも怒り心頭のギルに見つかって揺り起こされる頃には少年の姿はどこにもなくて、肩にかかる彼の外套だけが夢ではなかったことを主張していた。