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生前、私は二十年という短い生涯のほとんどを病院のベッドの上で過ごした。
心臓の病気、治る見込みはおそらく、無い。小さい頃からその事実はいつも私の前にあって、受け入れてもいたつもりだけれど、こうしていざ死の間際になると色々と思うこともあるもので。
病室の窓から、子どもたちの駆けて行く姿が見える。――本当は私もああして走ってみたかった。
医師が私の視線に気付いて窓を開けてくれる。
小鳥が一羽、ふわりと窓際に降り立って、ぴぃと鳴いた。
「……っ」
ぴぃ、と返したかったのに私の声はもう出ない。ヒュッと空気の抜けるような音しか出せない自分がどうしようもなく哀しく惨めに感じた。
――君はいいね、誰より自由で、どこまでだって飛べる。
私の世界は窓から見える景色と、本の中だけだった。
出られもしない窓枠の外、行けやしない魔法の国に思いを馳せた日々。こんな世界に未練はないけど。
――空の色は好きだったな。
ぼんやりと薄れゆく意識の中で頬に感じたものは、雨か涙か――。
*****
晴れ渡る青の空を見上げる。
私は今、駆けている。月白色の髪を靡かせて一面の草原の上を、吹き抜ける風のように、あの鳥のように――自由に。
「ぎゃっ……!」
「ミラお嬢……怪我だけはすんなって言っただろ!」
躓いて盛大に転んだ私の小さな体の元に悪態をつきながらも駆け寄って来る黒髪黒瞳のこの青年、我が家の使用人であり、私の教育係兼従者のギルヴァートが、私の膝を見て眉を顰めた。ふむ、ど派手に転けただけあって血がたらたらと流れ出ております。
「ギル、このくらいだいじょーぶだよ」
怪我をした膝に手をかざせば、暖かい光に包まれたそこはほら、傷ひとつ残さず元通り。どうだ、と自慢気に笑えばなぜか拳骨がひとつ降って来た。なんで! 恨みがましく見上げれば折角の整った顔を不機嫌面で染め上げたギルヴァートがいて。
「魔力に恵まれてるからって調子乗ってんなよ。魔法だって万能じゃねェ、治せないもんだってあんだよ」
しかしながらいつもの仏頂面に見え隠れする心配の色に、悪いとは思いつつも嬉しくなる。それはもう本当に使用人とは思えないほど口の悪いギルヴァートだけど、その実垣間見える不器用な優しさが好きで、私は彼を従者に指名したんだ。まだ年も十六と若いのもあって、最近ではもはや兄のように感じている始末ですらある。
「あぁ? 何笑ってんだ」
「いひゃい!」
無意識に緩んでいたらしい頬を掴んで引っ張るギル。はなせー、と睨みつければ変な顔、と鼻で笑われて。しばらくそうしている内にだんだんと笑いが込み上げてきて、二人で声を上げて笑った。
――幸せだなぁと思う。
あの病室でひっそりと目を閉じたときに望んだもの。
――健康な体、奇跡のような魔法、暖かい家族、未来への希望。
どうやら異世界のような場所に転生、というものをしたらしい私は、侯爵令嬢ミラメティスとして新たな人生を歩むこととなったようで。
本当に我ながら恵まれた環境に生まれ落ちたと思う。満たされた生活を送ること七年。おまけになぜだか前世の記憶が残っている私は、いわゆる見た目は子ども頭脳は大人状態で、当然そこらの同年代の子達よりも出来が良かった。幼児ながらもだいたいのことをこなしてみせた私はいつしか神童、才女とまで呼ばれるようになり。
これは、人生イージーモードである。
侯爵令嬢という立場上、将来的には適当な地位高い家柄のもとへ嫁ぐことになるだろうことはちゃんと理解しているけど、せめてそれまでは目一杯自由を謳歌させていただこう! と思って過ごす日々。
まあ私の婚約事情は“あの子”の様子で決まるんだろうけど。
不自由のない暮らしの中で、唯一私が気に病んでいるのが“あの子”、私の弟のことである。
そうして、後に私の新しい人生の指針を決めたのもまた、私の弟アルメスであった。
*****
私が三歳になったころ、弟のアルメスが誕生した。
私もお父様もお母様も、使用人達までもがアルメスが生まれてくるのを待ち望んでいた。お母様のお腹が大きくなる度に屋敷の中は浮き足立ち、ついに生まれるとなったときにはそれはもうお祭り騒ぎのようであった。
ところが、予定日より随分と早く生まれ出たアルメスは、一般的に未熟児と呼ばれるほど小さく、また病弱だった。
病気がちですぐに熱を出す私の弟は、私と比べて魔力も弱く、だんだんと大きくなっても自室に篭りがちなことが多かった。まあ、かといって私達姉弟の仲が悪いわけでは決してなく、弟は舌足らずの口調でおねえちゃんと呼んでは屋敷のなかで私の後ろを付いて回ったし、かくいう私も魔導書なんかを読み耽るときは専ら弟の部屋へと通ったものだけれど。
アルメスは両親の血を受け継いで文句なしの美形だし、家族思い、姉思いの本当に可愛い弟だと思う。だからこそ病気ばかりする彼を可哀想だとは常々思ってはいたけれど、前世で家族の愛に触れることのなかった私はどこか安堵していた。私じゃなくて良かった、と。私は健康に生まれて幸福だ、と。
そんな嫌な考え方が変わったのは私が七歳、アルメスが四歳となった年のことだった。
いつものようにギルを連れて外に遊びに出た私が屋敷に帰ったとき、ちょうどアルメスの医師が出て行くところだった。週に一度往診に来るこの医師とは面識もあるし、いつも弟がお世話になっているからと会釈をすれば、いつもなら人の良さそうな笑みを浮かべて礼を返してくれる彼はただ曖昧に微笑むだけ。
不思議に思って、まず自室より先にアルメスの部屋へ行こうと足を向けた。ちなみにギルはじゃあなじゃじゃ姫、とだけ言うと、ひらりと私の頭をひと撫でして別の仕事へと向かった。
そうしてひとりで長い廊下を歩き、お父様の書斎の前を通りかかったとき、お母様の嘆きすすり泣く声が聞こえて思わず足を止める。
盗み聞きはよくないと思いつつも、気になるものは気になるので風魔法を使って部屋から漏れ聞こえる声を自分の元へと届ける。――後から聞いたことを後悔するのだけれど。
「なんてこと……! アルメスの病気が治らないなんて……」
「心臓が悪いんだ、今回ばかりはもう……」
自分の心臓が掴まれた気がした。息が、詰まる。
アルメスは確かに病気がちではあったけれど、これまで毎回どの病気もしっかり完治していた。だから甘く考えていたんだ、病弱でも死ぬわけじゃないんだしって。アルメスの担当医は王族の往診も任されるような腕の良い医者だからって。
居ても立ってもいられなくなって、弟の部屋まで走った。アルメスはこのことを知っているのか、今、どんな顔をしているのか。少し開いたドアの隙間からアルメスの部屋を覗きこんだ。
そこには、ベッドに腰掛けて窓の外を眺める弟がいた。その静かな横顔に、まだ知らないんだろうと判断して無責任にも少しほっとした自分がいた。
「アル……っ!」
でも見てしまった。声をかけて部屋に入ろうとしたとき、その凪いだ横顔に雫が伝う瞬間を。アルメスが手を伸ばした先には、窓枠に止まる一羽の小鳥。
目の前が滲む。チカチカと目が眩む。その様がいつかの“私”と重なって見えてどうしようもなくやるせない気持ちに襲われる。自由に手を伸ばして涙を流す気持ちを私はよく知っていたのに。
「ミラおねえちゃん……!?」
部屋の入り口に立つ私に気付いたアルメスが慌てて目を擦るのを私はどうしたって見ていられなかった。
「大丈夫だよ、アル……大丈夫だから」
四歳になっても痩せたままのアルメスの細く小さい体を抱きしめて、何度も言い聞かせるように大丈夫と繰り返す。
涙を堪えるように震えるアルメスの肩を掴み、彼の空色の瞳を覗きこんで、私はひとつの決意を打ち立てた。
「大丈夫。お姉ちゃんが病気も全部、治してあげる」
ひくっとアルメスがしゃくりあげるのが分かった。眉を下げ、顔をくしゃくしゃに歪めてアルは泣く。
「むりだよ……おいしゃさんも治し方わかんないって……」
この世界は、日本ほど医学が進んでいない。でも、ここには魔法がある。私には、魔力がある。
「お医者さんは知らないだけ。治す方法は必ずあるよ。私が見つけてあげる、アルは――死なないよ」
転生して七年。私の生きる意味が見つかった瞬間だった。