第六話 ~渡る世間は碌でもない~ その一
話を一話ではまとめきれなかったので、前篇後篇としました。
※2015/1/13追記
・年月を表記
・改上田原の戦いについて追記
※2015/1/19追記
・年月を変更 9月→4月へ
・一部加筆修正しました。
※2015/3/05追記
・旧村上領の現状について加筆しました。
1548年(天文17年)3月
先ず結果から言うと、オレは父【武田晴信】からようやく息子の三郎と認めて貰い、躑躅ヶ崎館で生きていくことが許された。
今まではオレを見極めるために、生かされていただけだったのだ。
やっぱり怖いよ【甲斐の虎】。
そんな相手にどんな話をしたかって?
そんなの簡単、お互いの利益についてお話ししただけ。
オレが描いた上田原周辺の地図を見せながら、『ここでオレを殺して地図を手に入れますか?それとも生かしてこれからの武田の、武田晴信の為に使いますか?』って。
勝算はあったし、ダメでも一応あの場から逃げおおせる力はあるから、交渉中は虚勢を張って自信満々に笑って見せてたけど今でもあの時の恐怖を思い出すと指先が震え出したりする。
オレみたいな現実を知らない平成生まれとは、別次元で生きてきた兵の眼力と迫力。
…今更ながらにビビりながらも、武田晴信と一応WINWINな関係を築くことが出来ました。
もちろんその後、母上と高白斎と和尚の三人から夕餉が運ばれてくるギリギリまで怒られた。
こっちも滅茶苦茶怖かったです(泣)。
涙を流しながらキレまくる母上と、顔面蒼白のままゲッソリした顔つきで怒る高白斎と、交渉内容について先に何で相談しなかったのだ!とか交渉内容が余りにも打算過ぎて逆に危険だ!と説教しながらオレの美麗なお尻を力いっぱいに叩いてくれた和尚。
ぐっ、あれのせいで一週間はマトモに正座出来なくなった(泣)。
ともあれ、オレはようやく躑躅ヶ崎館内を共付きながらも歩き回れるようになった。
外に出てはじめて知る、オレの部屋チョー離れじゃん。
寧ろ隔離?もしくは迫害?躑躅ヶ﨑館にこんな滅茶苦茶な僻地があったとは…、そんな風に扱われていたなんてオレショックで涙が出そう。
だからか、だから周りにいた大人達はオレに優しかったのか!?(一部の人間を除く)
別にイケメン関係なかったとか、イケメン力言ってたオレチョー恥ずいじゃん。
…この問に身内びいきせず答えてくれる知り合いを、オレはまだ出会っていない。
※※※※※※
1548年(天文17)4月
『上田原において武田軍、村上軍を撃破。』
オレから威圧感たっぷりに地形図をひったくった父上が、史実通り武田軍を率いて北信濃の村上領に向けて進軍。
領主【村上義清】も史実通り軍を率いて【葛尾城】と北東部の【戸石城】を拠点に陣を敷き、岩鼻まで南下して上田平に展開して、千曲川支流を挟んで武田方と対陣。
が、しかし歴史はオレの知らない、夢見た方向に進んだ。
3月23日、両軍は上田原にて激突し村上軍は多数の死傷者を出して敗退、武田軍は戦に勝利した勢いのままその日の内に砥石城を落城させた。
最初に村上軍が武田軍に一当たりしたあと負けを装って退却して武田軍の慢心を誘ったが、それを読み切った武田晴信は態と本陣を晒して逆に村上軍を誘い込みを狙った。
読み通り村上義清は一挙にとって返すと、全軍で武田本陣に掛け込むが【空陣の計】を敷いた父上の計略により混乱した所を伏兵によって多くが討たれ、村上義清は討てなかったが屋代氏・小島氏・雨宮しなどの村上軍の中核をなす諸将も討ち死にした。
翌日葛尾城を包囲するも村上義清は既に城を捨てて越後に逃げた為に城は開城したらしい。
葛尾城に入城した父上達はその後、村上義清に味方した、もしくは様子見で父上からの出征要請を無視した国人衆への仕置きと、功績を挙げた者への手続きなどをしたらしい。
この勝利で北信濃の半分を勢力圏にする事ができたのだが、旧より村上氏とは距離を置きつつ長尾氏と関係を持つ飯山の高梨氏や、支援関係にありながら今度の戦を静観していた林城の信濃守護小笠原氏がまだ残っているから、そう厳しい仕置きはできず治安が不安定なんだとか。
また領主の村上義清が長尾氏に落ち延びた所為で、手にした筈の領地では武田家は侵略者であるといった風潮が、地侍と領民はもちろん、寺院や国人衆にまで拡がってしまい支配力が強くないから領地としての旨味も乏しいし、一部ではひそかに長尾氏に繋がって反乱を計画している、なんて話もチラホラあるらしい…。武田家ってどんだけ嫌われてんだ?
その為なのか父上は、村上氏の本拠地だった葛尾城の取り壊しを決め、北信濃の最前線を戸石城とし小諸城を本拠地と定めた。
城代にはそれぞれ戸石城に【小幡虎盛】を、小諸城に両職の1人【甘利虎泰】が就く事になった。
これらは戦から帰ってきた高白斎に教えて貰った事だ。
えっ、歴史的梃入れ成功しちゃったよ…。←これ百足衆の戦勝報告を聞いて思わず呟いてしまったオレの言葉。
母上や留守番役の家臣達がその報告に喜び沸き立つ中、オレは1人頭を抱えていた。
やっべぇー…、オレやっちまったぁぁぁーっ!!!
確かに地形図の他にも、少し調子に乗ってあれこれ言っちゃったけど…。
どーしょう、どーすんだよ!どーすっぺ、この後!?
おぉぉ…、この後起こる筈だった【塩尻峠の戦い】も【戸石崩れ】もフラグ折れの可能性が。
ん?………も、もすかして【真田幸隆】登用もフラグ折れしたか…も、ヤベェェー!マジやっちまったぁぁぁーっ!!!
あまりの衝撃に和尚の講義中も苦悩し続けた結果、注意散漫だと言われて、和尚に教材で頭を叩かれた。
とまあこんな事を悩む暇も、父上達の帰城により吹っ飛んだ。
何故ならオレは父上から命令で、北信濃と越後の国境についてのレポートと地形図の作成をしなくてはならなくなったからだ、勿論極秘で…面倒くさい。(←自業自得)
只でさえ下京してくる祖父へのプレゼント制作で悩ましいし忙しいのに…。
と愚痴ばかり零しても仕方ないので、海野家の再興やら川中島フラグ諸々ひっくるめて頑張ろうかなと思えば、何故か難問ばかり舞い込んでくる。
それは高白斎からの一言だった。
※※※※※※
「…マジで?」
「はぁ、“マジ”…というのがどういった意味合いかは分かりかねますが、お館様からの指示にございます」
お館様の、父上からの指示とは、簡単に言うと“引っ越し”である。
『快復したんだから何時までもこんな隅っこの離れじゃなくて、母屋(←ここは本屋敷と言うべきか?)に移って生活しろよ』的な内容だった。
昔の記憶を呼び起こせば、どうやら生まれてこの方身体が弱い為に人の行き来が少ないこの離れで暮らしてきたこの三郎くんからすると喜ばしい事なのだろうが、今のオレからすると面倒の一言に尽きる。
「それから、快川紹喜殿の講義についても『太郎や他の若衆と共に学べ』との事にございます」
はぁ!?なにそれ?超面倒臭いぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃーーーーーっ!!!!!!
別にコミュ障じゃないけどなんか滅茶苦茶嫌な予感がするぅーーーー!!!!!
躑躅ヶ﨑館の離れで雄たけびを上げたくなった三郎であった。
今回、葛尾城は放棄・取り壊しにしました。
対木曽・小笠原・長尾への防衛線と補給線の縮小が目的です。
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