073 - 大樹を望む祭壇(後編)
割れ門から一歩、足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
それまでうるさいくらいにひしめいていたあらゆる生命の音が突如途絶えた。
濃密な湿度も空気も花の香りもない。
葉々のざわめきさえも遠く遮断され、小さな羽虫の1匹すら存在しない気がした。
遠い空を後方から大樹に向かって、真紅の鳥が長い尾を引きながら飛び去っていく様を、まるで何かを通して見るような、不自然な距離感。
瞬時にして、別のどこか隔絶された場所に放り込まれた感覚。
ミナが確かめるようにぎゅっと手に力を込めた。心許ない様子で寄り添う。
無音ではないにも関わらず、音を忘れてしまいそうなほどの静謐さに不安を感じたのだろう。
リーは歩みを進めながら、徐に口を開いた。
「……ミナ。お前は、どうしてついて来たいって言ったんだ?」
すっかり黙り込んでしまっているが、ミナがお喋りな少女であることは知っている。
だから、張り詰めた空気を解く意味も込めて、聞いておきたかった少女の思いを問うた。
ただ自分も行くのだとミナは言っていたけれど。
「……」
一度彼を見上げて表情を確認する。そこにあるのが素朴な疑問だけだと知ると、また前を向いて口を開いた。
「どうしたのって聞きたいと思ったの。歌が聞こえたって言ったでしょ? その歌がね、あんまり悲しそうだから……どうしたの? って。だって、聞こえてるのはミナだけなんだもん。
それと……みんなが、色々枯れちゃうのはミナのとおさんのせいだって言うでしょう?
だから、でも、本当にそうなのか知りたいの。それに、どうしてとおさんとかあさんが死んじゃったのか、知りたい。
とおさんは優しかったから、そんな悪いことをしたとは思わないけど、でも、もし、本当なら……謝りたいの。
ミナ、ごめんなさいってちゃんと言いたい。とおさんも、かあさんも、死んじゃったからミナがちゃんと訳を聞いて、ごめんなさいって。いっぱい、いっぱい謝るから、どうか許して下さいって。
だってミナ、どうしたらいいか分からなかったんだもん。ずっと、いっぱい、どうしてって聞きたかったのに。どうして、とおさんとかあさんは死んじゃったの。どうして、ミナを一人置いていったの? って。
でも、何も分からなかった。誰も、教えてくれないんだもん。だから、直接、ちゃんと聞きたいと思ったの」
堰切って溢れ出した言葉は、理路整然とは程遠いものだが、いつの間にか立ち止まり必死で自分の思いを表す言葉を探すミナ。
この少女とよく似た子供を彼は知っていた。
わかるか? と問われ、ただ何も分からないと答えていた子供。
分からないならそれでいいと大人達は言ったけれど。
本当はずっと、意味を、理由を、真実を、知りたがっていた子供を。
真実を知るのは、大人だけの特権ではない。
寧ろ何故と問うてよいのは子供にこそ許されたことではないか。
「ちゃんと聞いて、ちゃんといっぱい謝る……」
だから、許して。そして、父と母を返して欲しいと。
本当は、叫びたいはずだ。
返して、と。
もう二度と触れることのない暖かく優しい両親に会いたい。
そんな思いを抱えて、ミナは一人でずっと戦っていたのだ。両親を亡くした孤独と、分からないことばかりの現況と。
「そうだよな」
愛された記憶があるなら、恋しく思って当然だろう。
咽喉の奥に何かが支えているような感覚を、彼は知っていた。
最後の方は、やや涙声になってしまっていたが、決して弱々しくはない。
幼い少女の無垢な強さがそこにあった。
くしゃり、とその頭を撫でてやり、潤んだ瞳で見上げるミナにリーは微笑んだ。
「真実を、聞きに行こうな。大樹のところに――」
そのまま歩みを進め、二人は広漠とした緑の中央に置かれた建物へと辿りついた。
取り囲む壁と同じく、この巨大な建造物も全て金の班の入った灰色の石でできている。
道は、四角錘の周りを同じ幅でぐるりと囲み、そして辿ってきたままに階段へと続いている。
幾何学模様の精緻な細工が施されている壁面もまた階段状ではあるのだが、一段一段が大人の身長よりも随分高い。
見上げると、大樹の姿は既に、真っ直ぐに切り取られた四角錘の天辺の向こうに隠れてしまっていた。
二人は顔を見合わせ頷き合うと、ミナを前に、リーはその後ろについて慎重に階段を登り始めた。
「気をつけろよ、ミナ」
各段は幅が狭く傾斜が急で、真っ直ぐに立つと後ろに転げ落ちそうになる。
手をつき、前傾姿勢でいなければとても登ることは出来そうになかった。そして登るより下る方が恐らく難儀だろう。
「うん! 大丈夫!」
ミナは先程口を開いてから元気を取り戻した様子で明るく答えた。
時間をかけてなんとか登りきると、そこは平らかで思ったよりも広さがあり、中央に一段高く設けられた祭壇らしきもの、その奥側、大樹に向かう方に石座があった。
柱や天井はなく、ただあるのはそれだけだった。
辺りに視界を遮るものは何もなく、眼下には見渡す限りの広大な樹林が広がっていた。
どの木々よりも高い場所にあり、急すぎる傾斜の階段や辿ってきた道を見下ろすと思わず足がすくみそうになるが、ユトの村や王都シュスまで見えるのではないかという素晴らしい景観だった。
地平線まで続く緑。広く、いつもよりほんの少し近い空。そして象徴的に佇む、他から抜きん出て巨大な母なる樹。
遠くはあるが、その大樹と目線が同じになった気がした。
ぐるりと四方を見渡した後で、二人は祭壇――石座へと歩み寄った。
それは光沢のある黒い石で出来ていた。
丁度リー自身の身幅とほぼ同じ四角い石、高さは腰より少し高いくらい。
風雨にさらされているであろうはずが、磨り減ったり苔生した様子のない不思議な黒い石。
「文字が彫ってあるな……古代文字、か?」
方形の平らな上面にびっしりと刻まれている模様は、見慣れぬものではあるが確かに文字だった。
「なに、なんて書いてあるの? ミナも見る! 見たい!」
石座に手をかけぴょんぴょんと跳んでみるが、少女の身長では覗き込むことはできない。
リーは荷物を下ろしミナを抱き上げた。
「……これ、文字なの?」
「あぁ。前に見た事がある」
「読める?」
「んー……なんとなく、意味は分かるけど……」
確かに、以前目にしたことのある文字だ。
古代文明に深い知識を持つ幼馴染が見ていた文献。
様々な言語の翻訳を得意とする彼と共に、リーもまた数多の言葉に、文字に触れてきた。
「何て書いてあるの?」
「訳せって、ことか?」
「うん!」
「……ちょっと、怪しいところもあるけどな」
言って、リーは石座に視線を落とした。
緑の瞳が文字を追い、そして優しい声で言葉を紡ぐ。
「私は 唯一の命を持つもの
私の声を聞きなさい
私は 天を支え地を支え 光を受けて浄化する
姿のないものを あなたに見せて
小さい者たちは 私の腕に羽を休め そして安らぐでしょう
あなたも 私のところにおいでなさい
花と果実をあげましょう
私の呼吸は空気に溶けて いつか世界を巡るでしょう
私の元に おいでなさい
私はここに居ます
私の声を聞きなさい 優しく歌ってあげるから
私の元に おいでなさい
花と果実 記憶と真実を あげましょう
ここに 私はいます
長い間 私はここにいるのです
私は唯一の命を持つもの
私は全ての命を持つもの
私は空になり 大地になって 祈りを届けます
私の元に おいでなさい
私の元に おいでなさい
ここに 私はいます
長い間 私はここにいるのです
忘れずに 覚えていなさい
私は――
……直訳だとこんな感じになるな。ちょっと、この辺単語が微妙に……『私は……』何だ? 何て書いて……」
言って、リーはミナを下ろし石座の文字を指で辿る。
日はもう随分傾いてきている。間もなく太陽は姿を消し、辺りは暗闇に閉ざされるだろう。
光を掲げずに石座の文字を読むことが出来る、ぎりぎりの時刻だ。
「ミナ、知ってる、これ……」
呆然と、ミナは呟いた。
「知ってる?」
「聞いたこと、あるの……!」
見上げる大粒の瞳が確信の光を湛えていた。
「とおさんと、かあさんが歌ってくれたお歌よ。知らない言葉だから、どういう意味? って聞いた時に母さんが……」
「歌? 知らない言葉って……発音が分かるのか?」
失われた言語の音を再現する困難さを知っているから、リーは頷くミナを驚きの瞳で見た。
実際彼は目の前に刻まれた文字の意味を読み取れても、正確に発音することは出来ない。
「文字は書けないし、読めないから分からないけど、とおさんとかあさんが何て歌ってるか教えてくれたもの。
ミナ、このお歌大好きだから、何回も何回も歌ってもらったの。だから、全部ちゃんと覚えてるわ」
言って、ミナはおもむろに歌い出した。
『私は唯一の命あるもの
私の声をお聞きなさい
私は天を支え地を支え 光を受けて清らにする
姿なきものを可視にして 小さきものは私の腕に翼を休め 私の中に憩うでしょう
さぁあなたも 私の元においでなさい
花を 実りを あげましょう
私の吐息は大気に溶けて やがて世界を巡るでしょう
私の元に おいでなさい
ここに 私はいるから
私の声をお聞きなさい 優しく歌ってあげましょう
私の元に おいでなさい
花を 実りを 記憶を 真実を あげましょう
ここに私はいるから
私はずっとここにいるから
私は唯一の命あるもの
私は全ての命あるもの
私は天となり地となりて やがて祈りを届けましょう
私の元に おいでなさい
私の元に おいでなさい
ここに私はいるから
私はずっとここにいるから
覚えていて 忘れないで
そして 名を呼び 私に触れて
私は大樹 久遠に近き時を知るもの』
まだ稚い少女の声で旋律を持って紡がれる古代語の歌。
伸びやかに、ミナが最後の楽句を歌い終えた瞬間、石座に刻まれた文字から光が溢れた。
「!?」
そして目の前の景色が、意識が純白に覆われ足元にある硬い感触までもを溶かし消し去っていった――。




