001 - 修道院
唐突に闇は裂け見慣れた天井が視界に飛び込んでくる。それと同時に夢は、足跡さえ残さずに去っていった。
――私は……今、夢を……?
目覚めた瞬間に覚えた奇妙な既視感。なぜかどっと疲労感が襲い掛かり、微かに息が上がっていることに気付く。
一つ大きく息を吐き、ベッドの上に横になったまま窓の方に目をやった。カーテンの隙間から差し込む光はまだ淡く夜が明けて間もないようだが、再び眠る気にもなれずベッドの傍らの机上に置いた眼鏡に手を伸ばした。
カーテンと窓を開けると木漏れ日となった柔らかな朝日が頬に口付け爽やかな風が体を包んだ。大きく息を吸うと、憂鬱な全てが溶けて消えていくような感じがした。
――いい、天気ですね……
少しの間そうしてから、手早くもう一方の窓のカーテンを開けると、薄手の上着を羽織り部屋を出た。辺りは静まり返り、人の起きている気配はない。
自室の又隣の扉をくぐり長い階段を下りて少し行き、いつもの場所に置かれた桶を取って中庭に出た。まだ少し肌寒さを感じるがこんな季節では無理もない。それでも、辺りは新緑と花々の新鮮な香に溢れ、風の唄が春の訪れを、目覚めの時を知らせる。
今、森の教会から出てきた美しい亜麻色の髪の青年はこの瞬間がとても好きだった。あるはずのない記憶を、まだ見ぬ忘郷を思わせる。
「いけませんね、この季節はどうも……」
感慨深くなりかけ、青年は苦笑した。
「さて、と……」
出てすぐのところにある井戸の取っ手に手をかけ、数回上下させると汲み上げられた冷たい水が桶へと注ぐ。
井戸と台所を何度か往復し、水瓶がいっぱいになった頃、修道服に身を包んだ中年の女が台所に入ってきた。
「おはようございます。シスター=マーサ」
「おはよう。セフィ。いつも悪いわね」
シスター=マーサは苦笑しながら後ろ手に扉を閉める。
「気になさらないで下さい。……頼りないかもしれませんが一応男手ですし……」
「一応、って貴方、助かってるのよ? とても……。今日だって本当はもう少し休んでいてよかったのに……」
謙遜した風に言った青年――セフィに、シスター=マーサは微笑んで言った。
確かにこの青年はとても逞しいと言える風ではない。背はスラリと高いものの身体の線は細く、肌の色もずいぶんと白い。
顔立ちに至っては女性かと見紛う程で、美しく整っており知的で穏やかな印象だ。
「そうもいかないんです。色々と用意もしなければなりませんし……。それに、何だか目が醒えてしまって……」
言いながらセフィは捲し上げていた袖を下ろした。
「あら、よくない夢でも見たの?」
シスター=マーサは竃に薪を入れながら尋ねた。セフィがそれを手伝う。
「あぁ、ありがとう」
「……憶えてないんです。……目が醒めた瞬間、妙な既視感を感じた気がするんですが……。夢を見ていたかどうかも憶えていないんです」
「既視感、ねぇ……。――もしかしたら記憶を……見ていたのかもしれないよ」
「記憶を、ですか?」
火を入れ終えたシスター=マーサに怪訝そうな顔でセフィは尋ねた。
「そう。記憶。記憶を夢としてね」
「夢として……?」
「忘れてはいけない記憶。忘れてはいけないけれど、忘れてしまった記憶を、神様が夢として見せて下さるのよ」
「忘れてはいけない、記憶……――それなら何故、目覚めた瞬間にまた忘れてしまったのでしょう?」
セフィは呟き、再び尋ねた。
「それは貴方が思い出すことを拒んだからよ。思い出したくない、忘却の底に沈めた記憶を思い出すことほど辛いものはないからね」
「……」
シスター=マーサはセフィの顔を覗き込んでほくそ笑んだ。
「まぁ、今のは少し大袈裟だったかもしれないね。そんなに深く考えることないわよ。――あら? セフィ、貴方、髪をどうしたの?」
濡れそぼった色素の薄い髪に触れシスター=マーサは問うた。
「あ、これはさっき顔を洗った時……」
「おはようございます! スミマセン……! もう水汲み終わってしまわれましたか!?」
言いかけたセフィの言葉を、甲高い声が遮った。
「おはようございます。シスター=リリア」
「お、おはようございますっっセフィ様。院長様。申し訳ありませんっ私……!!」
落ち着いた声のセフィに年若いシスター=リリアは取り乱し、崩れてしまった修道服を急いで直し照れた様に、申し訳なさそうに深々と頭を下げた。
「本当は、今日、私、水汲みしなきゃいけなくて、早く起きようと……!」
「いいんですよ、シスター=リリア。私の起きるのが早すぎたんです。それに、他の方々にもいつも同じ様に言われてますから、どうぞお気になさらないで下さい」
セフィは優しく微笑んだ。
「でもっ私……! セフィ様、今日、お出かけになるって聞いてたからっ……! 絶対、私、早く起きなきゃって……!!」
言葉を詰まらせ、若きシスターは言う。
「……シスター=リリア。そんなに思いつめられると私も心苦しいです……」
「そうですよ、シスター=リリア。もういいとセフィが言っているのですから、そのくらいにしておきなさい。 それより、こちらへ来て朝食の準備を手伝って下さい?」
シスター=マーサは穏やかな、それでいて先ほどとは違った、この教会の管理責任者である立場としての口調で言った。
「は、はいっっ!!」
シスター=リリアが慌て従う。
「それからセフィ、貴方は先に朝のお祈りを済ませてきなさい。その間に朝食の準備はしておきます。 他の細々したことは食事の後にするといいわ」
「わかりました。ありがとうございます。シスター=マーサ、シスター=リリア」
そう言って去りかけたセフィにシスター=マーサが再び声を掛けた。
「馬は街の馬屋の方が連れて来て下さるんですね?」
「えぇ。7時頃に、ということになってます」
セフィは振り返って答えた。
部屋に戻ったセフィはクローゼットから聖服を取り出した。そして脱いだ服を側のイスの背に掛けた時、フト鏡の中の自分と目が合う。そこには鈍色の教会信徒である証を首から下げた、無数の古傷の痕を持つ青年がたたずんでいた。骨ばった肩、薄い胸板、細い腰。裸の上半身の白い肌に残るそれらの傷痕は、おそらく同時期に刻まれたものであろう。そしてかつてその傷が鮮やかな血の花を咲かせていたという事実、よく、今こうやって生きていられたものだと思わずにいられないほどだ。
この教会に引き取られたのは8歳頃、10年以上も前のことだ。それまでどこで何をしていたのか、記憶は全くない。ただ、差し伸べられた手が、大きくとても優しかったこと。花々が咲き乱れ緑の香に溢れる季節だった。
――私は何者なのだろう……?
鏡の向こうの眼鏡越しにリラの花のような淡紫の瞳が自分を見つめていた。ヒトならぬもの、魔性の証と云われる色の瞳――。白いシャツのボタンを留めながら思い、目を背けた。
黒に近い、濃い紺の聖服を身につけ、肩の下辺りまで伸びた髪を首の後ろで一つに結い、ピアスをつける。それからもう一度鏡の方を向き、ゆっくりと自分の身なりを確認するとクローゼットの扉を閉め、脱いだ服をきちんとたたみベッドの上に置いて部屋を出た。
礼拝堂は静まり返り空気は冷たく澄んでいた。
射し込む光は色硝子に包まれ、磨き上げられた床にまるで霧雨のように微かに唄いながら、柔らかく色とりどりの花を咲かせた。
足音が高い天井に響く。
礼拝堂の内部は、祭壇に向かって中央に薄い絨毯が敷かれ、その両側に礼拝者用の木製のベンチが幾列も並べられている。セフィはその最後部の辺りから絨毯の上に立ち祭壇の方を向いて軽く跪くと、歩みを進めた。数段高くなった向こうに、祭られた神の像は光を浴び、明るく輝いていた。
全ての始まり、原初の刻。創世の神によって世界は創造された。
全ての生きとし生けるモノが共に暮らす神の祝福と教えに満ちた世界。
平穏の時代が続き、あらゆるものが発展を遂げた。
殊に神が自らの姿に似せて創ったと云われるヒトは数多の文化、技術、学問等や、それらによって都市を発展させ、世界にその勢力を伸ばした。
ヒトは、栄華を極めた。
だが次第にその輝きの時代も陰りを見せ始める。
ヒトと相容れぬ存在――今にして「魔物」と呼ばれるモノたちもまた、その数を増やし、勢力を伸ばしていたのである。
魔物たちは支配者となることを望んだ。
突如台頭した魔王の存在により全ての魔物は統率され圧倒的な力を持った。
そしてヒトばかりでなく、他の全ての生き物に脅威を与え、破壊と殺戮の時代がはじまった。
抗う者もいた。幾人もの腕に覚えのある者達が、魔王を倒すべく立ち上がった。
しかし誰一人としてそれを成すことはできなかった。願いは無残に砕かれたのである。
恐怖と絶望の時代が続いた。
だがやがて平和への願いさえ忘れ去られてしまった頃、それでも創世の神への祈りを忘れなかった人々に救いは、齎された。背に純白の翼を戴いた神の救い、救世の神が地上に降り立ったのである。
そしてレバ=ガバーラ<神魔大戦>の際、その十字の剣を持って全ての邪悪なる者をこの世から消し去った。
神は世界に平和を齎し、光を与えた。
やがて救いを与え給うた創世の神へのより一層の敬愛と、世界を浄化し給うた救世の神への感謝の気持の思いから、その教えと言行録からサジャ=アダヌス教――教会と呼ばれる組織が生まれ、天より降り立ち天へと還った神のその翼と剣を象り偶像化した神の像が祭られるようになった。
セフィは胸の辺りで十字の印を結び両手を組み、静かに跪くと瞳を閉じた。
ここ数十年の間に、神によって齎された平和は揺るぎを見せ始めた。
殊にこの15年余りは意思持つ動植物の巨大凶暴化が目覚しく、神に――教会に救いを求めるものも多く出始めた。古の魔王の出現を畏怖し、不安の念を抱いているのだ。
――私達は何をすべきなのでしょう……?
――私に……何ができるのでしょうか……。彼らのために……。
セフィは輝きの光の中祈りを捧げる。その姿はまるで愛しい者の身を案じる乙女の様に、切なさと儚さに美しく彩られていた―――。




