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Geschichte  作者: hyu
第1部
39/177

036 - 「ごめんなさい」と「ありがとう」

 その日は曇天だった。

 太陽はすっかり空に輝いているはずの時刻だというのに、まるで黄昏時のように薄暗く垂れ込めた黒い雲からは今にも雨が降り出しそうだった。

そんな陰鬱な空の下、村人達は皆黒い衣を纏い教会へと集っていた。

 先日亡くなったジョゼフの葬儀が執り行われるのだった。

 フィタニ家も例外ではなく、また、アーシャも行くだろうと、マドーラはどこからともなくアーシャ用の喪服を用意してきていた。

 だが、アーシャは葬儀には出席しないことにした。

昨日の今日だ。アニタも、自分なんかには会いたくないだろうし、正直アーシャもまたこれ以上『自分がどれだけ弱いか』を突きつけられて惨めな気分になるのはイヤだった。

 それが逃げだと思われても構わない。やはり辛いものは辛いのだ。

自分で自分の弱さを責め悔やむのと、誰かにそれを辛辣に言われるのでは訳が違う。

 マドーラは、行きたくないと言ったアーシャに無理強いはしないよと何も聞かずにいてくれた。

 アーシャが行かないのならとイフルは一緒に残りたがったが、やはりそういう訳にはいかないだろうと両親と共に教会に行くよう勧めた。


 黒い喪服を着、アーシャは一人フィタニ家の前のベンチに膝を抱えて座っていた。

 空が、こんな模様では気分さえも重くなってしまう。

アーシャは溜息をつき、腕の間に顔を(うず)めた。

 昨日、あの後はちゃんと笑っていられたのに。普通にしていられたのに、一人でいるとやはり気が滅入る。

 イフルが何も言わないでいてくれて助かった。

 あそこでもし、優しく慰められてしまっていたら、馬鹿みたいに泣いて、自分の一番なりたくない姿を晒し、どうしようもなく自分自身の誇りを傷つけたに違いない。

アニタと言い争ったこと。

アニタに言われたこと。

そして自分がアニタに言ったこと。

――あたしは弱いわ……

 望んだ旅立ちではなかったが、旅をして多少なりとも"強くなれた"気がしていた。

自分は奢っていたのだろうか?

人助けなど、そもそもの目的ではなかったはず。

それなのに――弱い自分がでしゃばって、勝手に助けようとして、勝手に傷ついた。

 傷は、古くない。今も鮮やかに血を流す傷口を抉られたような気分だ。

いっそあの時、ホルス街道で何も感じなければ――今ごろきっとフォンティンの宿でこれまでと同じように過ごしていたはずだ。

こんな風に心痛めつけられることなどなく。自分の弱さをこれほどまでに自覚することなく。

ムルスとマドーラがどうなっていたかは――おそらく無事ではなかったであろうが、気付いていなければ後悔のしようもなかっただろう。

万人を助ける力なんて自分にはない。

 何を置いても幸せでいて欲しい、大切な人すら助けられなかった無力な自分。

 惨めな自分。

――馬鹿ね……

 違う選択をした自分を思い描くなど無駄なことだと常に言い聞かせてきた。

それは母が「あの時ああしていれば」と望む、違った現在に自分の存在はないから。

母が最も変えたいと願う過去の出来事の上に自分が生まれたことを知っているから。

『違う現在』を想像するのがアーシャは嫌いだった。

――母は自分を愛してくれた。

そして幸せになれとあの牢獄から逃がしてくれた。

 自らの身を賭した母の、強い愛を分かっていながらそれでも、自分が生まれなかった場合の今の母は幸せだったはずだと思ってしまうから。

 望まぬ子であるアーシャをあんなにも深く愛してくれた。

 アーシャにとって最も大切で、守りたいもの。

 そんな母に何もしてやれなかった自分。

 自分の力のなさを、立場の弱さを呪い悔やんだ。

そしていつか――それでも、出来うる限り早く――迎えに行くと心に決めたのだ。

 旅をしていて、その望みが少しでも近づいたと思った。

だが、それは気のせいだったのかもしれない。

どんなに足掻いても逃れられない、

どうしようもないものに押さえつけられているようで、苦しくて悔しい。


 ここはいい村だ。人々は皆優しく平和で、町の暮らしのような物質的な豊かさはないが、ただ穏やかに日々を過ごすなら何ら問題はないだろう。

イフルも、とてもいいヤツなのだ。

優しく働き者で、アーシャを見下したりその自尊心を傷つけることなど決してしない。

自分に好意を持ってくれていると思う。

フィタニ夫妻もまた、アーシャが戸惑う程に自分を気に入ってくれている。

この村で、ただの村人として、穏やかな時を生きる。

 アーシャにとってのよい暮らしとは、何にも心煩わされることなく、平穏に、自由にというものだったから、村人達の「ここに住めばいい」と言う言葉には惹かれない訳ではなかった。

母と、ユエ司祭を迎えに行き再びこの地を訪れる――終の棲家として――。


――『脆弱なるものが何を望む?』

だが、何度も囁きかけられた言葉のように。

そんなことは無理だという現実を突きつけられた。

迎えに行く、それはつまりあの場所から連れ出さなければならないということ。

――自分は何故一人でこんなことろにいる?

母とユエ司祭の助けを得て、自分一人逃げ出すのがやっとだったのだ。

それを迎えに行く? 帰る、というのか?

母の元に辿り着く前に捕らえられるのがオチだ。

たとえ万が一にでも連れ出すことが出来たとしても――ここまでの道のりを二人を守り旅することなど無理だ。できるわけがない。

自分一人の身を守るのすら精一杯ではないか。

――帰れない……

――……迎えに行けない……

――何も、できない……


だがそれは"少なくとも今の自分には"だ。


顔を上げ見開いた瞳を遥か前方へ、そして空へと向ける。

日の輪すら見えない暗雲の垂れ込めた空。

――曇り空が気分を滅入らせる?……違うわ。それは、あたし自身の問題

――弱さを悔やんで、呪って、それからどうするの?

――どうする……?


強くなるのよ。

強く――強く――。

もっと色んなものを見て、知って、強く――自分の大切なものをちゃんと守れるくらいに、強く。

それまでは、帰れない――帰らない。

――もうしばらく旅を続けよう。

そうアーシャは心に決めた。


そしてまた、いつかここへ……?

――否。

それはまだ、決めないでおこう。

世界は、ここだけではない。

 帰りたくなってしまう場所を、心に置いておくのは少し辛いから――。



ジョゼフの御霊が神の御許で安らかに居られるように、と。

そしてどうか迫り来る魔物より村を、人をどうかお守り下さい、と。

人々は祈りを捧げた。

 ムルスとマドーラ、そしてイフルが帰宅し、しめやかな昼食の席でアーシャは近々旅立つということを告げた。

「なんだって!?」

「ここを発つって、アーシャちゃん!?」

「何でまた急に!?」

予想通り三人が三人とも驚きの声を上げる。

「うん。明後日にはと思ってるの。急に、じゃないわ。……考えてたから」

「で、でも、そんなの急過ぎないかい!? それに聞いたろう? 村の外には魔物が……」

マドーラは食事をする手を止め乗り出すように言った。

「うん。分かってる。でも、魔物がいるのは外に出ればどこでも同じ。……それに、ずっとここでお世話になっている訳にもいかないしさ」

苦笑し、答えるアーシャ。だが、

「いても、いいじゃないか……!!」

思わぬ強い声で言われそちらを見遣る。

「イフル……?」

「ウチは、構わないって言ってるじゃないか。ねぇ? 父さん、母さん!」

なぜかひどく動揺した様子のイフルに、一瞬驚きつつも両親は頷いて答えた。

「あ、あぁそうだよ。あたしらに気兼ねなんてしてくれなくていいんだよ?」

「いつまでだっていてくれて構わないさ」

必死に引きとめようとしてくれる、そんな風にまで思われて嬉しくないわけがない。

たった数日にも関わらず、自分を優しく受け入れてくれている彼らの思いは本当に嬉しかった。

そんな風に接してもらったのは、初めてだったから。

「ありがとう。でもね、あたし、行かなきゃ。旅の目的が『住むところを探すこと』って言ったでしょう? だから……」

「だから、だったら、ここに住めば……!」

「それがね、あたし一人じゃないの……母さんを迎えに行かないといけないから」

「じゃ、じゃあ、すぐに迎えに行ってすぐにここに帰って……!?」

期待の込もった瞳でイフルがアーシャを見詰める。

「……」

だがアーシャは無言で首を振った。

「なんで!?」

「そう簡単には連れ出せないわ。――母は囚われの身だから」

静かに言ったアーシャの言葉は衝撃的だった。

皆が言葉を失う。

アーシャの困ったような表情は、どういうことかとは問わないで、と訴えていた。

自由に生きなさいと、自分だけがあの国を逃れたのだとだけアーシャは告げた。

「でも、それなら、そんな……! 自由に生きろって言われたんなら、そんな責任みたいなのにとらわれてないで、ちゃんと自由に……!! それがアーシャの母さんの望みなんだろう?!」

自由に、幸せに生きろとそう言ったのではないか?

そんな母が、自分を助けに娘が辛い目に遭うことを望むだろうか?

「そうよ。だから、助けに行くの。あたしが、助けたいの。あたしの自由意志で決めたことなの――誰にも強制なんてされてない。あたしがあたしの大切な人には幸せでいて欲しいって思うから、そうするのよ。それが、あたしの自由な生き方」

イフルが諭そうとするが、そんなもので揺らぐ決心ではなかった。

狭い狭い世界の中で、それでも何より大切なもの。母と、そしてユエ司祭の幸せ。

アーシャの瞳の奥の強い意志はそれだったのだろう。

 だがイフルにはまだ納得できなかった。

大切な人なら、その人の望むようにしてやればいいのではないのか?

彼らの幸せとはつまりアーシャの幸せなのではないのか?

「でも……!」と言いかけたイフルにアーシャは静かに語りかけた。

「――あたしの母さんね、まだ若いの。これからまだまだ長い人生を送る。――愛する人だって、いるのよ。結ばれない辛さを押し込めてこれから三十年、四十年……生きろなんて言えない。そんな風にいて欲しくない。幸せになって欲しいの。責任感なんかじゃない、母さんがそう望んだのでなくてもあたしは望むわ。

ね、イフル――あなたはあたしの……女の幸せは『自分を愛してくれる男と結ばれ、子を産み、円満な家庭を築くこと』だと思う?」

「そ、そんなこと……!」

唐突に問われ、イフルは咄嗟に首を振り否定した。

アーシャが嫌う言葉や考え方は知っていたから。

「そう。そんなの、今のあたしにとっては幸せとは思えない暮らしよ。でもね、否定はしない。それを望む人には、それこそが真実に幸福の形なの。分かる? 母さんの願う、そしてあなたの思う幸せの形と、あたしの思うのは違う……今、あたしの望む幸せは母さんの自由と幸せ。

親身に思ってくれるのはホント、すごく嬉しい。――でもあたしはあたしのしたいようにする。きっとあたしにしか出来ないこと……。だから、ね? 分かって?」

 敵わない。イフルは思った。

身を案じる思いに偽りは無いが、引き止めたいのはイフル自身の利己心にも因る。

自分の訴えなど、彼女の意志の強さに比べたらなんて希薄で説得力が無いのか。

たかが数日過ごしただけの自分の言葉など――過ごした時間の長さは関係ない、という者もいるかもしれないが――やはり敵わないのだ。

アーシャ自身がきっと、ずっと永い間心に刻み込んできたであろうものを揺るがすことなど自分には出来ない。

自分のちっぽけな利己心など敵うはずの無い少女の自我。

 だが、そうだ。それがこの少女なのだ。

自分が惹かれたのはこんな、アーシャの姿だった。

激しく、強い、自らの意志を持った少女。

その声を聞いて、微笑みを傍で感じたい。

抱きしめたい、一緒にいたいと思う少女は――。

引き止めることなどできるはずが無い。

「……っ!」

引き止めることが出来ないなら一緒に行きたいと思った。だが一瞬の後にイフルはその望みを打ち消す。

そんなことできるわけが無い。自分はただの村人で足手まといにしかなりえない。 その思いは所詮イフルの一方的な、淡い恋心でしかなく報われる可能性は、無い。

 イフルは黙って、そして「わかった」と微笑むしかなかった。

自分がそんなことをできる存在ではないのだと悔しく思わぬわけではなかったが、敵わない、どうしようもないのだ。

惚れてしまったことを不幸だと思うしかないだろう。

「ありがと、イフル」

アーシャは満足そうに微笑んだ。

自分の声が青年の心に届き、理解を得たことが心から嬉しかった。

「それで……その、旅に出て……それからどうするんだい……?」

二人のやり取りを見守っていたムルスが声を掛けた。

「しばらく、あてのない旅をするつもり。それくらいしか強くなれる方法が思いつかないから」

アーシャは苦笑して答える。すると今度はマドーラが

「……いつか、母親を連れ出すことが出来たら……また、ここに来てくれるかい……?」

また来ておくれよと祈りの形に手を組み訴える。

 アーシャは首を振った。

「来られたら……来たいとは思うけど――分からないわ。約束は、出来ない。だから、待ってないで……」

きっとつれない言葉に聞こえただろう、三人の落胆の表情を目にしてアーシャ自身も胸が痛んだ。

だが、下手な期待など持たせてはいけない。

果たせない約束をして、彼らの心を痛めつけ続けるわけにはいかないのだ。

自分はただの旅人。

通りすがるだけの者なのだ、と。

「……そうかい……仕方、ないね……」

マドーラが残念そうにポツリと漏らした。

「……ごめんなさい……」

「そんなぁいいんだよ、あんたが謝る必要なんてないさ――優しい子だね、ホント……」

目の端に浮かんだ涙を拭ったマドーラはアーシャを強く抱きしめた。

 その拍子に食卓から食器が滑り落ち、床に鈍い音を立てる。

寂しそうな微笑で見守るムルスと、イフル。

何故だかアーシャも、泣きたくなった――。


そう、経てきた全てを無かったことになど出来ない。

後悔は、しない。

ここへ来た。それはそれでよかったのだ。

自分の弱さに傷つき、そして強さを渇望する自分を自覚した。

こんなにも、優しい人たちに出会えた。

それはとても満ち足りた気持ちを与えてくれる――。



 あまりに早すぎるのではと言うフィタニの人々を、長居すれば旅立ちは辛くなると諭し、2日後。村人達を怯えさせている魔物をどうにかしてもらえないかと、街の教会に救援を請いに行くというギサノル司祭と共に少女はクミン村を発った。

 保存食などはフィタ二の人々が手配してくれ、これに関しては勿論相応の金を支払い――受け取りたがらないマドーラに「美味しい物でも食べて」と押し付ける形となったのだが――司祭が村に戻る際に返すとい言う約束で馬を借りた。

 アーシャが馬に跨ると村人達は「どうか無事で……元気で……!」と強く手を振って見送り、また特にフィタニの人々の寂しそうな表情はアーシャの胸を締め付け、故郷を発った時とはまた違った旅立ちの辛さをを実感させた。


 もし、途中出くわすようなことがあれば――逃げるか、倒すか――その時に応じた判断をしようと確認し合い、一路フォンティンを目指した二人だったが数刻後、ギサノル司祭は一人、二頭の馬を連れクミン村に戻った。

 ジョゼフの命を奪い、ルーテズ父子に大怪我を負わせ、村人達を怯えさせた3匹の魔物は教会の救援を待つまでも無く旅の少女によって倒された。

 アーシャはクミン村やトール村を含むフノッサ丘陵地帯で魔物の出現が増えている現状を教会に報告しておくことを引き受けフォンティンに向かい、そして司祭はアニタから頼まれていた言葉を伝えて村に戻ったのである。

「ごめんなさい」と「ありがとう」

やはり本人の口から聞きたかったと思ったアーシャだが、それはきっと心からの言葉だっただろうとアーシャの心を暖かくした――。

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