3月8日(水) ☎1☎
どこを見ても、引き継ぎ作業の真っ最中である。五日までに提出された引き継ぎマニュアルが大泉新班長補佐と山部新班長のチェックを経て、昨日から始まった引き継ぎ作業で使われている。
十五日までには全ての引き継ぎを終えて、新年度を待たずに十九日の月曜から事実上の新体制へ完全に移行する事になっている。まずは退職者・出向者からの引き継ぎから行われる。その後、各支社・各営業所間の異動者、本社内異動者の引き継ぎと続く予定である。
十九日以降、ほぼ全員の退職者・出向者が有休消化に入るので、この十日が引き継ぎの山場となる。人によっては、もっと前から有休消化に入る事もあるため、実は今週一杯が勝負とも言える。
紫も入社三年目の滝川に社会保険関連業務の引き継ぎを昨日から始めていた。滝川は社会保険関連業務だけでなく、出張清算業務も引き継ぐ事になっていたため、今週中に全ての引き継ぎを終える必要があった。
「桜田さん、大丈夫ですか? このところ、忙しいようですから、疲れているんじゃないですか?」
「滝川さん、ごめんなさいね。私の事はいいから…。さあ、続きをやりましょう!」
紫は確かに疲れていたが、別に仕事に疲れていた訳ではない。昨日の武下定秋とのやり取りに疲れていたのである。今朝、陽美からICレコーダーの複製データをホットメールの添付データでもらった。陽美が言うには奴は真っ青な顔をして、それを受け取ったそうだ。
どうやら、武下定秋には複製データをメモリースティックに入れて、陽美がわざわざ奴に手渡したそうである。
「だって、武下のメールアドレスを知らなかったから、仕方ないじゃない。それに手渡しの方が脅しの効果があると思って…」
紫は陽美を敵に回してはいけない…と痛感させられた。味方であれば頼もしいけど、敵だと本当に何をされるか分からない。そんな彼女が今夜も紫のために暗躍する。
紫のために水戸あおいをこらしめてくれるのはありがたいが、紫にとってはある意味気が重くて仕方が無い。武下定秋と水戸あおいとの浮気がばれて以降、全く水戸あおいとは話していない。紫はあんな女性とは同じ空気を吸う事すらしたくないが、心のどこかにこらしめてやりたいと言う気持ちもあった。
水戸あおいを呼び出して行う夜の話し合いのセッテッングは全て陽美が行うと言っていた。陽美が紫のことを思ってやってくれる事は分かっているが、実は陽美が面白半分に首を突っ込んでいるだけではないかとさえ感じる事もある。
陽美は二ヶ月後の五月五日の大安に結婚式を挙げるのだ。本当はこんなことをしている場合ではないだろうに…。
もう、誰も信じたくないとさえ考える時もある。五年も付き合った人に裏切られ、一番かわいがっていた後輩に彼氏を奪われたのだ。本当だったら、気が狂っていてもおかしくはないだろう。よく、正気を保っているな…とさえ感じた。
紫は自分をねぎらってやりたい気分にさえなる。夜が近づくにつれて、紫の心は激しく揺れ動いた。




