3月7日(水) ♨2♨
二人は帰り支度をやめて、再びテーブルにつく。ようやく、話し合いのスタートラインに立ったようだった。無駄な準備体操の時間があまりにも長過ぎる。しかし、これではまだまだ不十分である。
「それだけではダメだよ。お願いだから、私の事をあきらめてよ。それを約束してくれないと私困るから…」
「そうよ。さっきから言っているけど、悪いのは武下君、あなたよ。それをこうやって、穏便に済ませようとしているんだから…。それだけでもありがたいと思ってもらわないとね。だから、私達の言い分を全部飲んでくれないと…」
武下定昭はとても深く悩み、苦しんでいるのがはっきりと分かるぐらいうなっていた。もし、水戸あおいと浮気する前にこうやって悩んでいたなら、彼は違った答えを出していたかもしれない…。
そうすれば、武下定秋と紫の二人は今頃、こんなことをせずに結婚式をどうするかについて、真剣に話し合っていたかもしれない。たった一つの過ちで武下定秋は当然ながら全てを失ったし、紫もその巻き添えを受けた。
しかし、結局のところ、それも仕方ないと受け入れるしかないのだ。それがただ一つの現実だから…。
バーのBGMから「さよなら」が流れてきた。よりによって、こんな時に流れるなんて…。偶然にしては出来過ぎである。オルゴールのメロディーだけの音楽だが、紫の脳裏には曲に合わせて、歌詞がきれいに浮かんだ。
そうする事で嫌な沈黙を勝手に埋めていた。BGMにあわせて心の中で何度も、「さよなら…さよなら…」とつぶやく。
「分かった…いや、分かりました。悪いのは僕です。もう二度と桜田さんを追いかけるようなマネはしません。桜田さんのこともきっぱりあきらめます。本当にすみませんでした…」
悩み抜いた末にようやく武下定秋が折れた。陽美と紫はほっとする。ここで陽美はポケットからおもむろにICレコーダーを取り出す。
「いい、今、君が言った事はもちろんの事、今日のルーナバルでのやり取り全てがここに入っているからね。もし、約束を破るような事があれば、この音源を添えて、セクハラ防止委員会に訴えるから、そのつもりでいてね」
そう言えば、昨日の打ち合わせで陽美は制作部取材班の友人からICレコーダーを借りると言っていた。そして、借りたICレコーダーを実に上手に使い、見事に武下定秋を追いつめる事に成功したのである。
ルーナバルからの帰り道、陽美はICレコーダーの音源を複製して、武下定秋と紫に渡すと言っていた。紫はそんな物もらっても不快になるだけなので一度は断ったが、福岡に行くまでは何かあったときのために持っておいた方がいいと言うので受け取る事にした。
それから、陽美は水戸あおいも同じように追いつめないといけないと言い出した。しかし、紫はそこまではしなくてもいいと思った。なぜなら、もうすでに陽美が呼び出して話をしているからである。二人でしばらく話した末に、やっぱり改めて二人で呼んで話をしようと言う結論に落ち着いた。




