MW~優しい君のセレナート~
「えぇっと……、あ、あったあった。」
パソコンの液晶画面に広がったページの中からお目当ての物を見つけ出し、名前の欄をカチカチッとダブルクリックする。少しの読み込み時間と共に画面が切り替わり、画面中央に一枚の絵とその下に再生用のツールバーが表示され、その下部には評価だのリストだとの様々なタブが埋め込まれており、迷わずその中にある「DL」のタブをクリック。タブの上部に小さなウィンドウ─窓─が開かれ、中には「MP3」や「wav」「SMF」などの英字で書かれたタブが現れ、そこから「MP3」の項目をマウスで押した。
すると、画面左上部に小さな窓が立ち上がり、そこには私がクリックした曲名と「開く」「保存」「キャンセル」の3つのコマンドが表示され、馴れた手付きでエンターキーを二度叩く。すると二度の画面変移が起こり、ステータスバーが表示され、左端から少しずつ緑色の艶やかなバーが右端に向かって伸び始めた。
私はそれを目で確認すると、今度は画面右上部に視線を流す。
そこにはこの曲を投稿した時間と「再生数」「DL数」「リスト数」「評価」が一列ずつ並んでいた。
「うわっ、投稿時間四時って……、随分遅いなぁ……」
パソコン画面の右下部に表示された時間は午前七時。つまり、この曲はつい三時間程前に投稿されたばかりなのだ。にも関わらず、その再生数は既に五〇〇を超えており、DL数も一〇〇をオーバーしている。この調子ならば今日中には余裕で再生数は一〇〇〇に達成するだろう。
「ハァ……、まぁ仕方ないよね」
誰にでも無くボヤく。出来ればこの人の曲は自分が一番最初に聴きたかったのだ。
けれど、この人が投稿した時間帯、私は暖かな布団に包まれて安らかな眠りについていたという訳だ。
ハァ、と溜息を一つ吐いて、今度は投稿者のコメント欄を覗く。そこには何の装飾も施されていない黒い文字の羅列でこう書かれていた。
『どうも。カミナです。今回は星空をテーマに書いてみました。歌詞はともかく、今回もMWに素敵な作曲をしてもらえたので是非聴いてみてください! 追伸:前作のDL数一〇〇〇超え、ありがとうございました!』
カミナ──、それはもちろん本名では無い。ネット上で自分を名乗る際の偽名のような物である。私はこのカミナという人が歌う曲が好きで、毎日このMW──《ミュージック・ウィザード》を立ち上げて彼の新作を待ち続けているのだ。
《ミュージック・ウィザード》──、それは誰しもが待ち望んだ夢のようなソフトの名前だ。
人はそれぞれに自ら得意とする物を持っている。
例えば、作詞の能力だったり、作曲の能力だったり、演奏の能力だったり。あるいは、歌う能力だったり。
だが、それらは同時に自分の苦手な物でもあったりするのだ。
作詞は出来ても作曲は出来ない。歌唱力はあっても楽器の演奏が出来ない。
それは長い間多くの人々を悩ませ続け、人々の才能の発芽を滞らせてきた。
──自分はこんな曲を作りたいけど才能がない、こんな曲が出来たけど、乗せる歌詞が思いつかない。こんな歌を思いついたけど、自分じゃ歌えない。
そんな人達に、ついに僥倖が見えたのだ。
長きに渡りDTM業界を引っ張ってきたサウンド・ウィザード社が二十年もの歳月を経て、一つのソフトを完成させた。
それが、MW──《ミュージック・ウィザード》である。
このMWは「作詞」「作曲」「歌」を使い手の任意で創りだす事が出来、自分の想像した曲を生み出す事が出来る画期的なソフトなのだ。
サウンド・ウィザード社は遥か昔のレコードから現在出ている最新のCDまでの全てのサンプリングを手に入れ、また作曲に至る全ての音楽や歌詞を独自のシステムで解析し、それらを創り上げるソフトを生み出したのだ。
例えば、春をイメージした歌詞を書いたとしよう。その歌詞をMWに打ち込み、五十以上に及ぶ諮問に応えると、その歌詞にあった曲を自動で産み出すというシステムで、作曲の場合もこれと同じく、曲調をソフトが分析し、諮問に応えると歌詞を付けて仕上げてくれるのだ。声も最新の音声合成技術により、一昔前の機械的な音は解消され、人間の肉声に近い物が出るようになり、歌が歌えずとも自分の好きな歌声を曲に付ける事が出来るようになったのだ。
このソフトの開発により、日本の……いや、強いて言えば世界中の音楽が一変した。
今まで狭き門だった音楽業界の扉が広く開かれ、今では誰しもが簡単に自分の曲を作る事が出来るようになったのだ。
そうして作られた曲は、パソコンソフトのMWを通じて聴く事が出来、自由にダウンロードが出来るようになっている。
今やMWの使用人口は国民の携帯普及率と同じぐらいにまで成長している。幼稚園の学芸会で曲を作ったり、ご老体の方々が演歌を作ったり様々な所で活躍しているのだ。
さて、MWの凄さはこれぐらいにして話を戻そう。
私が好きなカミナさんは作詞と歌が出来る方で、主に作曲をMWに任せているようだ。
彼の作る詞は何処か甘い感じで『青春』という言葉がピッタリ嵌る物だと私は思う。
歌詞を読んでみると、自分と同じような悩みを抱えていたりする一面があったり、青空の下で走ってるような爽快感のある物もある。
でも、私が気に入っているのはそこではない。
私が一番気に入っている物──、それは彼の歌声だ。
なんと言えば良いのだろう、彼の歌声を聴いてるだけで心が暖かくなるのだ。まるで、春の柔らかい日差しの中にいるような、そんな感情が心一杯に広がって、私は今日も頑張ろうと思えるのだ。
ピコン、とダウンロードが終わった合図が鳴る。
デスクトップ上には新たに『星空ロマン』というファイルが置かれ、それを素早くパソコンに繋いだ音楽プレーヤーのフォルダーにドラッグアンドドロップする。ステータスバーが現れ、物の数秒でプレーヤーのフォルダーに移動が終わる。
プレーヤーを買った当初は使い方で悩んだりした物だが、なるほど。馴れてしまえば簡単な物だ。
パソコンとプレーヤーを繋ぐケーブルを外し、再び画面に表示された時計を見ると、私はパソコンの電源を切って、足元に置かれた学生鞄の中に音楽プレーヤーを詰め込み、ハァッと一息吐いて気合を入れる。
「さて、そろそろ行きますか!」
鏡の前に立って制服の乱れを確認。
紺色のブレザーに特に汚れはなくワイシャツもしっかり第一ボタンまで止まっている。白と茶色の線が入ったチェックのプリーツスカートにも特に問題無し。
鏡に写りこんだ自分の顔を覗く。そこには人畜無害そうな顔とサラサラとした深い青色の髪が背中まで伸び、左側頭部には赤いリボンが付けられており、サイドテールのように一束が揺れている。問題ない、いつも通りの私だ。
部屋の時計を確認すると時刻は朝七時半丁度。登校するには幾分早いが、今日は予定があるので丁度良いぐらいだろう。
今日は月曜日だし、少しばかり気分も落ちてるかと思ったが、そんな感じは一切せず、鞄を肩に掛けると心無しかいつもより軽く感じ、今日は何だか楽しく過ごせそうな気がした。
だって、今日は帰りの楽しみが、一つ増えたのだから。
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伴奏の音が止み、フゥ──と息を着く。すると、ピアノの向こう側からパチパチ、と小さな拍手の音が響いてきた。
「いやぁ〜、やっぱり遥歌の歌は素敵よねぇ……、弾いてる手を止めて聴きたいぐらいよ」
ピアノの方に視線を振ると、短く整えられた小ざっぱりとした髪が特徴的な少女が大げさな手振りをしながらこちらへ歩いてくる。
「そんな事ないよ。美優のピアノの音が綺麗だからそういう風に聴こえるんだと思うよ?」
ここは学校の四階にある音楽室。東側の窓から差し込む朝日が、黒塗りのグランドピアノに反射して朝独特の空気を醸していた。
私、結川遥歌は同じ合唱部の友人でもある明日乃美優と朝練をしていたのだ。
というのも、月曜日はうちの合唱部は休みで放課後に活動が無いため、こうして月曜の朝は二人で朝練と称しては自由な時間を過ごしているのだ。
「いやいや、遥歌がいないとこうはならないのよね。……なんていうか、つい最近になってからなんだけどさ。遥歌の歌声ってただ綺麗じゃなくて……その、楽しそうなのよね! あんたは気付いてるかわからないけど、歌ってる時の遥歌。凄く良い笑顔なんだから!」
「そ……、そう、かなぁ」
私は歌う時は頭を空っぽにする癖があるから自分がどんな顔をしているかなんて気にした事も無く、美優の直球の言葉に、少しだけ顔が熱くなるのを感じた。
「そこら辺が遥歌の良い所なんだから自信持ちなさいって。おかげでこっちも楽しく引けてるんだから、もう遥歌様様よ」
美優の繊細な手がくしゃりと私の前髪を掻き上げて頭を撫でる。
それがただ嬉しくて、私はヘヘッと照れ笑いをして誤魔化した。
「どうする? もうそろそろ時間だし、教室行こうか?」
音楽室の前に掛けられた時計を見ると時刻は八時五〇分に差し掛かり、全校のスピーカーから少量のノイズ音と共に予鈴のチャイムが一斉に鳴り響いた。
「そうだね、時間だし行こうか」
私達はパパッと後片付けをし、鍵をかけて音楽室を後にした。
廊下に出ると登校時には無かった生徒の喧騒で満ちており、私達は騒がしい廊下の中をパタパタと駆けて行った。
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「おはよー」
「おはよう、遥歌」
「おっすー、遥歌〜」
ざわついた教室に入り挨拶の言葉を投げかけると、四方から返事が返ってくる。
「ちょっと、私もいるんですけどぉ?」
美優がヤレヤレと最前列の席に着くと、近くにいた女子数名が美優の元に駆け寄った。
どうやらまだ先生は教室に来てないみたいで皆それぞれのグループに別れて昨日のテレビ番組や、今日の授業の課題についてだの色々な話題が飛び交っていた。
それらを横目に、私は窓際の後ろにある自分の席へと向かって行く。
私の席は窓際に近い後ろの場所で、朝方は陽の光が差し込む特等席だ。
そして、その隣の窓際の席。私が座る席よりも更に恩寵給う席に、そいつはこちらに顔を向けながら突っ伏すように眠っていた。
「幸せそうに寝ちゃって……」
朝の暖かな陽光が布団のように背中を照らし、窓から入り込むそよ風が髪を撫でるように吹いていた。
私は荷物を机の上に置くと、席に腰掛けてその顔を観察する。
少しツンツンした黒髪と、縁のないおしゃれなメガネを掛けた少年。
顔には思春期特有のニキビもなく、同年代の男子からすればとても綺麗な顔立ちだ。
眠った顔はとても幸せそうで、口の端からは一縷の液体が流れ、その下に小さな池を生成していた。あぁ……同年代というよりは、小学生とでも言った方が適当だろうか。そのあどけない顔は高校生というには少し幼すぎな気もする。
「……ほんっと、変わらないわねぇ」
何気なく顔を見て呟いた。
彼とは奇しくも小さい頃からの付き合いで、何故か幼稚園から高校まで一貫して同じクラスという最早腐れ縁という言葉でも足らない程の関係だ。まぁ……高校を選んだ時は私の意向も……ちょっとはあったけど。
彼には本当にお世話になった。小さい頃、きっと彼がいなければ私は……。
ふと、昔の事を思い出すと同時に、彼は重たい瞼を開けて目覚めた。
「んが、ふわぁぁぁ……」
グッと背伸びをしながら大きな欠伸を一つ吐いて、彼は寝ぼけ眼でこちらを見やる。
「おはよ……、遥歌」
「おはよう、直くん。ほら、これで口元拭いて」
彼の名前は神崎直哉──、クラスメイトのだいたいは苗字や名前で呼ぶが、私は小さい頃からの癖で、つい「直くん」と君付けで呼んでしまう。
始めのうちは彼に直すよう指摘されていたが、やはり癖という物は簡単には抜けず、彼が折れる形となって今に至る。
私は上着のポケットからポケットティッシュを取り出すと直くんに差し出した。
彼は欠伸まじりに「ありがとう」と受け取ると、何枚か取り出して子供のように口周りを拭いて、机の上に広がった池をぼーっと拭きとった。
「随分眠そうだけど、昨日何してたの?」
私の問いに直くんはさも眠たそうに再び大きな口を開けて欠伸をする。思わず私まで欠伸をしかけてしまった。
「えっと……、なんだったっけ。朝までゲームしてた」
カチャリと片手でメガネの位置を直すと、さぞやる気が無さそうに机にへばり付く。
「そんなゲームばっかりしてると、眼。悪くなるよ?」
優しく忠告するも、彼は片手をひらひら振りながら言葉を返す。
「大丈夫大丈夫。部屋の明かりを消してやってる訳じゃないんだ。これ以上悪くなりやしないって」
「全く……、今に目が見えなくなって泣きついたって知らないんだからね」
プイッと顔を反らし、鞄の中に入れてあった教科書を机の中に放り込む。
その時、朝のHRの時間に遅れた担任が教室に現れ、私たちの会話はそこで途絶えた。
横目でチラリと直くんを見ると、彼は先生の話に耳を貸す事もなく、何かを口ずさむように窓の外を楽しげに眺めていた。
その姿を見ると、少しだけ。本当に少しだけ、心の何処かが痛むような感じがした。
/
私が歌を好きになった理由。それは他でもない、直くんの影響だ。
遠い昔、私が随分小さい頃、母親が失踪したのだ。
理由は今でもわからない。
あの日は、確か隣住まいだった直くん家から帰ってきた時で、机の上にはただ一言『ごめんね』という書置きだけが残され、その言葉の意味も理解出来ず、私は母親が買い物に行ったのだと思い込んで、帰るはずない母親を待ち続けた。
それから三日間。父親になんで母親が帰って来ないのかを子供ながらに尋ねたら、父親は泣きながら私を抱えて「ごめんね」としか言わなかった。その時、初めて見た父親の涙に云い得ぬショックを受けた幼い私は、訳もわからずに父の胸の中で泣き伏せた。
それからの私は、何処かで母親がいなくなったという事を理解し、子供ながらに強くなろうと考え、甘える事を一切我慢して家事手伝いをするようになった。もちろん、学校の宿題もしっかりやったし、成績だって中ぐらいはキープしていた。
そうして過ごしていた小学六年生の時、ある事件が起きてしまった。
手馴れたオムライスを作り、私は居間で父親の帰りを待っていたのだが、ついうとうととしてその場で眠ってしまい、ある夢を──見たのだ。
夢の中では、大好きな母親が私の大好物を作ってくれて、あの時と寸分変わらない優しい笑みをこちらに向けながら、私の話を「うん、うん」と頷いてくれていたのだ。
その夢から覚めた途端、私の中に今まで我慢していた感情が溢れ出し、声を上げて泣き出してしまったのだ。
目からはポロポロと涙が溢れ落ち、今まで出した事も無いような声を上げて泣き続けた。
そんな時、誰かが居間の扉を開けて部屋に入ってきたのだ。
父親が帰ってきたと思って泣くのをやめたが、そこに立っていたのは、父親……、ではなく、直くんだった。
直くんは何も言わず私の事を抱きしめると、ある歌を歌ってくれた。
それはいつか学校の音楽の時間に習った曲で、奇しくも私のお気に入りの歌だった。
直くんの歌声は、まるで子守唄のように優しく、思わず泣くことも忘れて私は直くんの膝の上でその歌に耳を傾け、気付いた時には自分の布団の中にいた。
それから直くんは、いつも私の元を訪れては覚えたての歌を唄って私を勇気づけてくれるようになり、私も彼と一緒に歌を唄って、徐々に辛い出来事から救われていった。
しかし、ある日を境に直くんは歌を唄わなくなってしまった。
理由は後でわかったのだが、直くんが私に歌を唄って励ましてくれていた事が何処からかクラス中に漏れたのだ。
小学生という多感な時に、そんな行為をしていると知られれば、当然何らかしらの対象になってしまう。
例え、私がそれを否定した所で、子供に理解出来る訳も無く、火に油を注ぐだけでしかなかった。
そんな事もあって、私と直くんは小学校高学年から中学を終えるまでの四年もの間、一言も口を聞く事は無かった。いや、出来なかったのだ
そんな彼にどうしても謝りたくて、私は先生の反対を押し切って直くんが行く高校に入学した。もちろん、今になって私が何か出来る訳でもないし、失われた四年間を戻す事だって出来ない。
でも、今度は私が彼の為に歌う事が出来る。だからこそ、私は同じ高校に進んだのだ。
そうして久々に言葉を交わしたのは、昨年の四月。
この学校に入学した、初めての朝の事だった。
家の前で彼が出てくるのを待ち、せめてこの四年間の事を謝り、彼の手助けをさせて欲しいと進言しようと思ったのだ。
罵声を浴びたって構わない、嫌いだと言われても良い。
決死の想いで彼を待ち、彼が家から出てきた。
私は彼の前に立ち、頭を下げようとした──のだが、彼は私よりも先にある言葉を発した。
「その制服──、似合うね」
彼は照れたように笑みを浮かべると、頬を掻きながら私の制服姿を褒めてくれた。
彼は、この四年間の事を一切気にしていなかったのだ。
制服を似合っていると言われた事が嬉しかったのか、はたまた彼が怒っていなかった事に安堵したのか、私はその場で泣き崩れてしまい、あの時のように彼の胸の中で泣き続けていた。
でも──、それでも、彼の優しい歌声は戻って来なかった。
/
「……遥歌」
彼の優しい呼声がする。あぁ、私は眠っていたのか。重く閉じた瞼を開けると、そこは夕暮れ色の教室で、目の前には優しく微笑む彼がニコニコとこちらを見ていた。
「あっ……、えっ、や……」
夢の中で見ていた彼とダブり、思わず顔が紅潮していくのがわかる。夕陽の色でバレなければ良いのだけど……。
「なっ……、なんで直くんがここにいるのよ!?」
「あ、心外だなぁ。今日は月曜日だから一緒に帰ろうって言ったの遥歌だぜ?」
あぁ、そういえばそんな事言っていたような……。
「……ッじゃなくて! どうして起こしてくれないのよ!」
顔を背けながらいそいそと帰り支度を整える。
「そりゃあ、寝ている人を無碍に起こす訳にもいかないしさ。それに、寝顔も可愛かったし」
最後は小さく呟いたはずなのに、その声はハッキリと私の耳朶を揺らした。
更に顔の温度の上昇を感じ、私は鞄で彼の頭を叩いて足早に教室を後にする。
その後、昇降口で待っていると彼は駆け足で現れ、手早く外靴に履き替えて、私の前を歩き出した。
彼は私の少し前を歩き、私はそれに追従するように歩く。
私達は普段一緒に帰っているけど、そこに殆ど会話はない。
もちろん、彼に話しかければ返してくれるし、彼の場合もしっかりと私は返す。
でも、何故か私達はこうして距離を保って歩いていた。不思議な事に、私はこうして帰る事が嫌いじゃなかった。いや、むしろ望んでいた。
彼の後ろを歩きながら、お気に入りのアーティストの曲を聴き、暮れなずむ川べりを歩く。
それは、とても静かで、とても穏やかな時間だった。
それが、彼にとっても同じであったらなぁ、と何気なく思う。
校門を出て、少し歩くと大きな橋に差し掛かり、私達はその橋を渡らずに右の川下の方へと歩き出す。
ササッと準備していたプレーヤーを取り出し、イヤホンを耳に当て、宝物を開けるように再生ボタンを押した。
耳元から、MWによって作られたアコースティックギター特有の低音が静かに流れだす。
その音は何処か切なくて、不思議と今のような黄昏空にマッチしていた。
少し長い前奏が終わり、ようやく彼──《カミナ》の歌声が耳に届く。
──君が涙を流すなら、僕はそれを乾かす太陽となろう。
──君が夢を求めるなら、僕はそれを繋ぐと標となろう。
それは、随分と在り来りな恋人を思う歌詞だった。
それでも、その暖かな歌声は私の心を掴み、春風のような優しさで、私の心に染みていく。
ソフトで作られたとは思えない綺麗な曲と、《カミナ》という人の心を表すような穏やかな歌詞。そして、不思議な包容力で私を包み込む歌声。
オレンジの色に輝く川が、いつもより綺麗に見え、空に輝く星が音と同調するように燦然と輝いていく。
──星に祈ろう、君の笑顔を。
──月に願おう、君の幸せを。
不思議だった。
彼の歌声は機械が生み出した物でしかないはずなのに、こんなにも、こんなにも私の胸を強く打ち、心の中に充ち溢れていく。
やがて、それは一滴の形となり、頬を伝って零れ落ちていく。
気付いたら、私は目の前にいる彼の背中にヒシッと身を寄せていた。
「……どうかした?」
彼は、こちらに振り向く事も無く、その優しい声で私に尋ねる。
「……なんでもないよ」
嘘だ。
本当は、本当は言いたい事がいっぱいあった。
でも、それは絶対にしてはいけない、私が決めた不文律。
いつか。そう、いつか、彼が私にその歌声を聴かせてくれるその時まで。
私は何時までも待っていよう。
いつか、本当の声で、彼が唄ってくれる……、その時まで。
──大きな太陽になれなくたって構わない。
──君の道照らす一つの星になれればそれでいいんだ。
涙が零れ落ちないよう、空を見上げる。
そこには、他の星より一層強く一番星が輝いていた。




