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猫の少女と千日のおまじない―神鼠の大王は猫を愛せない

作者: ソーセージ
掲載日:2026/10/16

本作は、長編『神鼠の大王は猫を愛せない』の序盤を、一つの短編に再構成したものです。


本編は、この短編の先からがいよいよ本番です。


その前に、まずはこちらの秋の収穫祭から。


はじまり、はじまり……。

一 おまじない


「お兄ちゃん、下手くそ!」

 豆がぽとりと足元に落ち、子供たちが一斉に笑った。

 秋の収穫祭で、背の高い銀髪の青年が子供に囲まれている。銀髪というだけでも目を引くのに、その青年は物語から抜け出したような美貌の持ち主だった。平民の服に青い布を腰に巻き、飾り気のない姿で、いかにも真剣に豆飛ばしの竿を握っている。

「もう一回!」「ちゃんと狙えよ、お兄ちゃん!」

「うまくいかないなあ。そうだ、この豆におまじないを掛けてみよう」

 青年は豆を額の辺りまで持ち上げ、何かを小さく呟いた。子供たちが口を閉じる。隣で見ていた黒髪の少女も、つい耳を澄ませた。

 青年は、今度は的から離れ始めた。十歩、二十歩。子供たちが驚き、通行人をよけさせるほど遠くまで下がる。

「そんなところからじゃ絶対無理だよ!」

「無理じゃないさ。絶対」

 豆が飛んだ。カン、と乾いた音がした。

 歓声の中、青年はさらに豆を放ち、次々に的を倒していく。子供たちが飛びつき、青年は両腕に何人もぶら下げたまま笑っていた。

 少女はその様子を見ながら、三年前の大晦日を思い出した。

 あのころの彼は、こんなふうには笑わなかった。

 それどころか、彼を笑わせるために自分が呼ばれたという事実さえ、少女には信じられなかったのだ。


二 猫の少女


 ツヴェルフェト王国の首都ディモイゼは、リヒト・ネコミヤにとって最悪の街だった。

 故郷エクウスの高等学院では優等生だった。大学への推薦を勝ち取り、母親に見送られて上京した。しかし大学の最終試験では失敗し、希望していた学部に進めなかった。かつての同級生からは笑われ、生活は苦しく、ひとり故郷に残した母が病気で亡くなったときにも帰れなかった。

 首都の空気が合わないのだと思った。人生がうまくいかないことを、ディモイゼのせいにしているだけなのだと自分を戒めた。

 街へ出るたび、理由の分からない憎悪が湧く。空腹なのに吐き気がし、うなじが焼けるように痛む。大晦日の夕暮れ、食べ物を買いに出たリヒトは、街の大きな橋の上でとうとう倒れた。

 目覚めたのは、豪華な天蓋の下だった。

「ここは大神殿です」

 背の高い男が穏やかに告げた。男は十二支の王のひとり、神牛(しんぎゅう)ロベルト。王国の大王を補佐する人物だという。

 リヒトは恐縮する間もなく謁見室へ案内された。しかし扉が開いた瞬間、彼女の中で何かが切れた。

 玉座の前に銀髪の少年が立っていた。十三歳の少年王シリウス・ソイリ。十二支を束ねる神鼠(しんそ)の大王である。

 美しい、と考える余地もなかった。

 憎い。食べたい。

 天井近くまで跳ね上がったリヒトは、少年に飛びつき、首元に噛みついた。温かい血が口に広がる。次の瞬間には衛兵に引き離され、意識を失った。

 再び目覚めたとき、服にも口元にも血が残っていた。

 人を噛んだ。しかも子供だ。あの少年は死んだのではないか。

 震えるリヒトに、栗色の髪の貴婦人が「生きていますよ」と教えてくれた。神亥(しんい)の王ステファニーだった。リヒトはその場に崩れ落ちた。これから自分がどう処罰されようとも、少年が生きているなら、それでいい。

 ところが、その少年自身がリヒトの部屋へやって来た。

「僕はシリウス・ソイリ。貴女が僕の生死を心配していると聞きました」

 包帯の巻かれた首が痛々しい。なのにシリウスの表情は、ひどく静かだった。

 リヒトはまた牙を剥いた。ロベルトの神通力に抑えられ、身動きできない。少年は青ざめながら彼女に近づき、唇に残った血に指で触れた。

「これが、恐怖……?」

 震える指を引っ込めて、少年は不思議そうに呟いた。

「ゾクゾクするんですね」

「気安く触るな! シリウス!」

 そう叫んだリヒトの方が、何も分からなかった。


 リヒトのうなじには、見慣れない刻印が現れていた。

 彼女は、二百年前の猫狩りで絶滅したとされる猫族(フェリス)の生き残りだった。猫族は神鼠を食べたいという本能に逆らえない。神鼠は猫族を恐れる。二つの種族は、神の定めによって互いを害する。

 リヒトの体調不良は、その本能が神鼠の住む首都で刺激され続けたためだった。

「シリウス様は、感情を失っているのです」

 ロベルトが説明した。少年は五歳から七歳までの二年間、隣国に誘拐され、苛酷な虐待を受けた。帰還してからは喜びも悲しみも感じない。十二支は、猫族による恐怖をきっかけにシリウスの感情を再生できないかと考えたのだ。

「そんな危険なことをして、あの子が死んだら?」

 国の安定のためには感情の再生が必要だという。計画の意義を聞いても、リヒトは納得できなかった。

「私が協力したら、シリウスは少しでも幸せになるんですか?」

 王たちは答えられなかった。国の安寧と大王個人の幸せは、同じものではない。

 リヒトはしばらく黙っていた。

「では、お願いがあります。私に、あの子を殺させないでください。あの子の命が危なくなったら、私の首を刎ねてでも助けてください」

 ロベルトとステファニーは約束した。

 こうして、人を噛んだ罪で処刑されると思っていた少女は、自分が噛んだ少年王と暮らすことになった。


三 巻き尺の距離


 計画が始まると、リヒトは大神殿で鎮静薬を使いながら生活することになった。薬を打っていてもシリウスが近くに来れば獣の本能が目を覚ます。王と同じ食卓につくたび、食器が飛び、衛兵が走り、ステファニーが叱りつけた。

 シリウスはそうした騒ぎにも、当初はほとんど表情を動かさなかった。十三歳にして大学の学者たちと議論できる頭脳があり、膨大な知識を記憶している。国の政務をこなし、訓練を受け、夜遅くまで書類に向かう。リヒトが初めて見たときには、少女が噛みついた首の包帯を巻いたまま、淡々と仕事をしていた。

 しかし、ある昼下がり、その少年が巻き尺を持って庭園に現れた。

「何をする気?」

「距離を測ります」

 シリウスは平然としていた。薬の効果が薄れてくる時間に、リヒトへどこまで近づけば恐怖が強くなるのか、自分で確かめたいという。

「三メートル。どうですか?」

「別に……」

「では二メートル」

 近づくごとにシリウスの顔が青ざめる。リヒトもうなじを押さえた。

「もうやめなさい!」

「一メートル」

「シリウス!」

「五十センチ」

 巻き尺を持つ手が震えた。少年はさらに近づく。

「三十センチ……」

「襲うぞ!」

 シリウスは、リヒトの手を取った。

「ゼロセンチ」

 彼女の手を自分の額の刻印にそっと触れさせる。二人はすぐに跳び退いた。

 怒鳴りかけたリヒトは、声を失った。

「ゼロセンチ達成です、リヒトさん!」

 シリウスが笑っていた。初めて見る、無邪気な笑顔だった。

 それから少年はすぐに真面目な顔へ戻り、リヒトの顔立ちを褒めた。突然のことで赤くなったリヒトを見て熱があるのかと心配する。近づくなと言われると、今度は自分が彼女を襲う方ではないかと妙な冗談を返した。

「馬鹿シリウス!」

 リヒトは逃げた。

 恐怖を覚える練習のはずなのに、どうして自分の方がこんなに慌てなければならないのか。


 シリウス自身も、彼女が来てからの日々を不思議に思っていた。

 かつての自分にとって一日は、人生という本の白いページを一枚めくるだけのものだった。大王として務めを果たす。それは理解できる。しかし、生きることを楽しむ理由はなかった。

 今は違う。食事の時間に何が起こるか分からない。リヒトが学者たちの講義を嬉しそうに聞いていると、自分ももっと議論したくなる。彼女がいるかどうか、気がつくと目で探している。

 ただ、リヒトには分からないことがあった。彼女が猫族である以上、いつまでも大神殿で暮らせない。二人が離れる日を考えると、胸が痛んだ。

 少年王には、竜族のマリアという婚約予定者までいた。

 リヒトは、自分がここにいるのは感情再生計画のためなのだと、何度も自分に言い聞かせた。

 リヒトは計画を進めようとした。次にどんな感情を再生できるかを考え、記録を整えた。シリウスは苛立った。計画が終われば、彼女は帰ってしまうのか。彼女が自分のそばにいるのは依頼されたからだけなのか。


四 恋という名前


 十二支の王たちが大神殿に集まる春、華やかな晩餐会が開かれた。

 その夜、シリウスは廊下でぐったりしたリヒトを見つけた。慌てて抱き上げて部屋まで運ぶと、彼女は眠っていた。ベッドの傍らで顔を覗き込み、呼吸を確かめる。触れた頬は冷たく、少年は胸を撫で下ろしながらも心配になった。

 彼女が近くにいた以前の日々を、どれほど恋しく思っていたことか。

 リヒトは半ば眠ったまま、会いたかったと口にした。シリウスは抑えきれず彼女を抱きしめた。彼女も腕を回してくる。しかしリヒトがはっきり目を覚ますと、二人は急に照れてしまった。

 窓の外から微かな音楽が届いた。

「少し踊りませんか」

「私、ダンスなんて……」

「僕となら大丈夫です」

 シリウスは彼女の手を取り、歌いながら部屋で小さな舞踏会を始めた。リヒトは初めこそぎこちなかったが、やがて足が合った。

「さっき、僕に会いたかったと言いましたね。あれは本当ですか?」

 リヒトが何か答えようとした、その瞬間だった。

 夕日色の瞳に黒い色が広がる。

「逃げて!」

 少女の悲鳴を聞いても、シリウスは動けなかった。天敵に襲われる恐怖に体が硬直していた。

 噛みつかれたのは顔だった。口元が裂け、血があふれる。衛兵が駆け込んで、何もかもが暗くなった。


 激しい痛みで目覚めたシリウスは、顔を包帯で巻かれていた。

 傷の痛みを自分の神通力で抑えようとして、やめた。昨日の出来事を思い出す。抱きしめた体、照れた顔、二人だけのダンス。リヒトに触れられた場所の感覚が次々に蘇った。

 恋だ。

 猫族の少女に、神鼠の自分が恋をした。

 認めた途端、やるべきことがいくつも浮かんだ。マリアとの婚約予定を断らなければならない。リヒトには自分の気持ちを伝えたい。彼女が「会いたかった」と言った意味を、今度こそ確かめたい。

 少年はロベルトとステファニーを呼んだ。

 ところが、彼らが持ってきたのは、リヒトが大神殿を去ったという知らせだった。

「どこへ行った?」

 答えられない二人を前に、シリウスは激昂した。神通力が溢れ、部屋に光の鎖が走る。

 ステファニーは、泣きながら説明した。リヒトは、いくら鎮静薬を打っても憎悪と食欲が止まらなくなっていた。注射で腫れ上がった腕や脚を引きずって、自分がまたシリウスを殺してしまうと訴えたのだ。

 少年の中で、昨夜から膨らんでいた幸福が崩れた。

 リヒトの部屋には、まだ枕のくぼみが残っていた。抜け落ちた黒髪が数本、そこにあった。シリウスは一本ずつ集め、握りしめて泣いた。

 ようやく人を好きになったのに。好きだと伝える前に、その人は消えた。

 朝が近づくころ、シリウスは涙の跡が残る顔を上げた。

 感情を取り戻す計画は終わった。これからやることは別にある。

 神鼠と猫族が互いを害するという、神の定めから解放される方法を探す。

 少年は鏡の前で、自分の目を見た。

「きっと、お迎えに参ります」

 今度は自分の意思で決めたことだった。


五 三年後の約束

「シーリン! ねえ、シーリンったら!」

 帳簿に向かっていたリヒトは、呼び声に顔を上げた。神羊コルデール州随一の大商家、ハードウィック家の令嬢メアリが、部屋の入り口からこちらへ手を振っている。

「少し休みなさいな。お茶を用意したの」

「ありがとうございます。でも、まだ納品の確認が……」

「まあ! あなたったら、いつも仕事ばかり。今日は今度の祝賀会に着ていくドレスも選んでほしいのよ」

 それでは休憩にならないではないか。リヒトは苦笑したが、メアリは構わず彼女の手を取った。

 リヒトは三年前、大神殿を去り、この屋敷に行き倒れたところを拾われた。以来、シーリンと名乗っている。

 あの日、シリウスの顔に噛みついた。自分を抱きしめ、歌いながら一緒に踊ってくれた少年の口元に、一生消えない傷をつけた。

 もう二度と、あの子を傷つけてはいけない。

「ほら、シーリン。こちらの空色はどうかしら?」

 メアリに呼ばれ、リヒトは現実に引き戻された。部屋には色とりどりのドレスが並べられ、窓から差し込む日差しが絹地に柔らかな光を落としている。

「綺麗ですね。メアリ様には、こちらの方がお似合いになると思います」

「そう? では、これにしようかしら。ああ、そうそう! 大変なことを聞いたのよ!」

「今度のオスカー様の就任十周年祝賀会に、シリウス大王がいらっしゃるんですって!」

 リヒトは、足元に広がっていたドレスの裾を踏んだ。

 派手な音を立てて転んだ彼女を、メアリが慌てて助け起こす。

「シーリン! 大丈夫? そんなに驚くこと?」

「い、いいえ……少し足を滑らせただけで……」

 シリウス。

 胸の奥で、その名前を繰り返した。

 三年間、口にすることさえ避けてきた名前だった。

「シリウス様はもう十六歳になられたのよ。とても背が高くなられて、今ではそれはもう素晴らしい美青年なんですって!」

「ただ、お口のところに大きな傷跡がおありなんですって。北方民族と戦ったときについた、名誉の傷だそうよ」

 リヒトは息を止めた。

 それは違う。

 三年前、彼の顔に噛みつき、肉を食いちぎったのは自分だ。

 あの傷を、彼は名誉の傷跡と呼んでいるのか。

「……シーリン?」

 顔を上げると、メアリが心配そうに覗き込んでいた。

「本当に大丈夫? 顔色が悪いわ」

「大丈夫です。少し、驚いただけですから」

「そういえば、ジェイクの求婚はどうするの?」

 けれど、リヒトにはどうしても、彼と結婚する自分を想像できなかった。

「シーリン、聞いている?」

「……ごめんなさい、メアリ様。やっぱり仕事に戻ります」

 それなのに、机へ戻っても、数字がなかなか頭に入ってこなかった。

 シリウスが来る。

 あの子が、この州へやって来る。

 リヒトは何度も帳簿の同じ行を読み直し、とうとう小さく息を吐いた。

     *

 同じころ、十六歳になったシリウスは、神羊オスカーと向かい合っていた。

「このたびは騎士学校の御卒業、誠におめでとうございます」

 祝杯を交わしたあと、オスカーは穏やかに微笑んだ。

「オスカー。ほかにも用件があるのだろう?」

 オスカーはグラスを置いた。

「この三年間、ずっと研究しておられたのでしょう。成果はいかがですか?」

 シリウスは、すぐには答えなかった。

 今度こそ、リヒトを安心して抱きしめたかった。

「……まだ、実際に試したわけではない」

 シリウスがそう答えると、オスカーは頷いた。

「そうでしょうね。何しろ、お相手がいらっしゃらないのですから」

 シリウスは顔を上げた。

「リヒトさんは、コルデールにいます」

 シリウスの手が止まった。

「……何?」

 オスカーは、商家で働く黒髪の女性の噂を聞いたという。不思議な夕日色の瞳をしているらしい。

 それだけ聞けば十分だった。

「……名前は?」

 シリウスの声が、わずかに震えた。

「シーリン、と名乗っているそうです」

 シリウスは顔を覆った。

「来月、私の就任十周年式典があるでしょう」

「最上級の来賓室が一つ、空いているのです」

 シリウスはゆっくり顔を上げた。

「……オスカー」

「はい」

「就任十周年式典、僕もコルデールで祝わせていただこう」

「それは光栄でございます」

 オスカーは深々と一礼した。

 退出するその背中を見送ってから、シリウスは胸元へ手を伸ばした。

 取り出したのは、小さな箱だった。

 三年前、リヒトが大神殿を去った朝、彼女の枕に残っていた黒髪を一本ずつ集めた。それを箱に収め、今まで肌身離さず持っていた。

 シリウスは箱を握りしめ、壁にもたれて床に座り込んだ。

 何度も黒髪に口づけをした。

 やがて、その瞳から涙がこぼれた。

 会える。

 三年間、ただその日のために生きてきた女性に。


六 迎えに来た少年王

 祝賀会の日、コルデールの州都は朝から大変な騒ぎだった。

 白馬に乗ったシリウス大王と、黒馬に乗ったオスカー王が、並んでパレードを行うというのである。街の大通りには見物人が詰めかけ、ハードウィック家の使用人たちも、仕事を放り出さんばかりの勢いで出かけていった。

 リヒトだけが屋敷に残った。

 一目でもいいから見たい。けれど、シリウスの血肉の味を、リヒトは今でも覚えている。

 リヒトは胸元の銀のロケットを開いた。中には小さなアクアマリンの石と、一本の銀髪が収められている。

 指先でそっと触れてから、蓋を閉じた。

 午後になってパレードから戻った人々は、興奮冷めやらぬ様子で大王の美貌を語り合っていた。

 リヒトは仕事をしながら耳を傾けたが、ある話を聞いて顔を上げた。

「途中で石を投げつけた奴がいたんですって!」

 襲撃の話が気になったリヒトは、仕事を終えると一人で丘へ向かった。

 州都の外れにあるその丘からは、遠くに王宮が見える。

 あそこに、シリウスがいる。

 リヒトはロケットを握りしめ、目を閉じた。

「どうか……シリウスをお守りください」

 風が吹き、黒髪が頬にかかった。

「どうか、あの子を死なせないで……」

「リヒトさん……」

 後ろから声がした。

 リヒトは目を開けた。

 ゆっくり振り返る。

 黒いマントをまとった、背の高い青年が立っていた。

 帽子を目深にかぶっているため顔はよく見えない。しかし、口元に残る大きな傷だけは見えた。

 青年は帽子を取った。

 銀色の髪が夕日に輝いた。

 アクアマリンの瞳。彫像のように整った顔立ち。

「僕のこと、分かりますか……?」

 シリウスだった。

 リヒトは声を失った。

 けれど、彼が微笑むと、あのころの面影がそのまま現れた。

「リヒトさん……!」

 シリウスは嬉しそうに近づいてきた。

 その瞬間、リヒトのうなじが焼けるように痛んだ。

 憎い。

 食べたい。

 忘れていた獣の本能が、激しい勢いで蘇った。

 シリウスの顔から血の気が引いた。

「しまった!」

 慌てて神通力を封殺したが、リヒトはすでに走り出していた。

「馬鹿シリウス! ついてくるな!」

 叫びながら丘を駆け下りた。

 彼を傷つけたくない。その一心で走ったが、不思議なことに、ほどなくして憎悪も食欲も消えていた。

 そのまま、リヒトは屋敷へ戻った。

     *

 その夜、シリウスは浴槽に顔を沈めて叫んだ。

 せっかく会えたのに。術をかけてから近づく予定だった。

 名前を呼び、顔を見たら嬉しくなって、そのまま近づいてしまったのである。

 そして、逃げられた。

 シリウスが湯船の中で盛大に落ち込んでいると、オスカーが訪ねてきた。

 身支度を整えて事情を説明したところ、オスカーは呆れたように眉を上げた。

「泣いている女性は、さっさと抱き締めなさい」

「そんなことをしたら、また襲われるかもしれないだろう!」

「そのために三年間、研究しておられたのでしょう?」

 シリウスは言葉に詰まった。

「……術を使うのを忘れたんだ」

「ところで、リヒトさんには求婚者がいらっしゃるそうですよ」

 シリウスは顔を上げた。

「何?」

「ハードウィック家の大番頭の息子です。明日、お二人で出かけることになっているとか」

 シリウスはしばらく黙っていた。

 三年間。

 自分は、ただ彼女に会いたくて研究を続けてきた。

 けれど、彼女にも彼女の人生がある。

     *

 翌日、リヒトはメアリに連れられ、華やかな空色のワンピースに着替えさせられていた。

「ほら、素敵でしょう! ジェイクも喜ぶわ!」

 鏡の中の自分を見て、リヒトは困った顔をした。

 ジェイクとの外出など、一度も承諾したつもりはなかった。それなのに、屋敷の人々は皆、二人の結婚が決まったかのように喜んでいる。

 しかし、玄関で待っていたジェイクに手を取られ、長々と口づけされた瞬間、涙がこぼれた。

「涙を流すほど嬉しいの? 僕の可愛いシーリン」

 違う。

 嬉しいのではない。

 シリウスに会いたいのだ。

 けれど、屋敷の人々は微笑ましそうに眺めていて、リヒトは手を引くことさえできなかった。

 そのとき、涼やかな声がした。

「黒い髪で、夕日色の瞳の女性です。ああ、失礼。こちらでは『シーリン』と……」

 人々が振り返り、道を開いた。

 白いシャツにズボンという簡素な服装の青年が、まっすぐこちらへ歩いてくる。

「泣いているのですか……?」

 シリウスだった。

 ジェイクが嬉しそうに答えた。

「ええ、僕と出かけるのが嬉しいようで」

 シリウスはリヒトを見た。

「そうなんですか、リヒトさん?」

 リヒトは必死に首を横に振った。

 シリウスは一度頷き、ジェイクへ向き直った。

「なるほど。では、失礼」

 そう言うなり、ジェイクに手を握られたままのリヒトを軽々と抱き上げた。

「シ、シリウス!」

「昨日、オスカーに言われたんだ。泣いている女性は、さっさと抱き締めろってね!」

 リヒトを腕に抱えたまま、彼は玄関へ向かった。

 シリウスは屋敷の前に待たせてあった白馬にまたがると、リヒトを自分の腕の中に抱き直した。

「今日はこの女性を、僕が連れて行きます!」

 白馬が走り出した。

 メアリだけが、呆然と立ち尽くすジェイクを見て小さく呟いた。

「ごめん、ジェイク……」

     *

 白馬は街を抜け、昨日の丘へ向かった。

 やがて、シリウスが口を開いた。

「リヒトさん。今、僕を食べたいという気持ちはありますか?」

「……え?」

 リヒトは驚いて顔を上げた。

 そういえば、ない。

 これほど密着しているのに、あの恐ろしい食欲がほとんど湧いてこない。

「……ないわ」

「本当ですか?」

「うん。どうして……?」

「やったあ!」

 シリウスが突然、歓声を上げた。

 リヒトは驚いて彼にしがみついた。

「やりましたよ、リヒトさん!」

 丘に着くなり馬から飛び降りると、今度はリヒトを抱き上げ、くるくると回り始めた。

「シリウス! ちょっと、目が回る!」

「やった! 本当に成功したんだ!」

 自分の神通力を最小化し、猫族への影響を封殺する。まだ身体には大きな負担がかかるものの、ようやく術が完成したのだという。

「昨日は、すっかり忘れてしまったんです。貴女を見たら嬉しくなってしまって……」

 シリウスは少し恥ずかしそうに笑った。

「……シリウス」

 リヒトは彼の胸元に顔を寄せた。

「ありがとう」

 シリウスは嬉しそうに微笑んだが、やはり術の負担は大きかったらしい。草の上へ仰向けになると、深く息を吐いた。

「少し休ませてください。貴女が近くにいてくれれば、それで十分です」

 リヒトは隣に座り、彼の顔を見つめた。

 銀色の髪が風に揺れている。

 そして、口元には大きな傷があった。

 そっと指を伸ばすと、シリウスが目を開けた。

「気になりますか?」

「……ごめんなさい。こんな傷をつけて」

「これは名誉の傷跡です」

「もう痛くないの?」

「ええ。もう全然……ああ、でも、まだ少し痛むかもしれません」

 シリウスは何かを思いついたように口元へ指を当てた。

「リヒトさんが、ここに口をつけてくれたら治るかも……」

 リヒトは真っ赤になった。

「冗談ですよ」

 けれど、リヒトは笑えなかった。

 リヒトはそっと身を屈め、彼の口元に唇を重ねた。

 シリウスは目を見開き、そっと彼女の手を握った。

     *

 帰り道、シリウスは手を離さないまま尋ねた。

「僕が怖いですか?」

「そんなことを考えているの? 馬鹿シリウス!」

 彼の首に残る傷へ、そっと唇を押し当てる。

 シリウスはしばらく黙っていたが、やがて彼女の手を取った。

「リヒトさん。僕と共に大神殿に帰ってください」

 リヒトは顔を上げた。

「私には……大神殿に帰る理由も、資格もないわ」

 シリウスは結局、夕方までにコルデール宮へ来てほしいと伝えるだけで、彼女を屋敷へ送り届けてしまった。

     *

 宮殿へ戻ると、オスカーが待っていた。

 事情を聞き終えたオスカーは、冷静に言った。

「零点ですね」

 シリウスは顔をしかめた。

「……何が?」

「何も説明せずに帰ってほしいと言う。しかも、彼女に宮殿まで来いと仰る。これでは何のために迎えに来たのか分かりません」

「僕は、彼女と一緒に大神殿へ帰りたいんだ!」

「では、なぜそう仰らないのです?」

 シリウスは立ち上がった。

 三年前、必ず迎えに行くと誓った。

「オスカー、馬を借りる!」

 返事を待たずに部屋を飛び出した。

     *

 ハードウィック家では、リヒトが旅支度を終えていた。

 彼女はもう、コルデール宮へ向かうつもりだった。

 ところが、シリウスが再び訪ねてきたと聞くと、急に怖くなった。

 何を話せばいいのだろう。

 自分は彼に、何を聞きたいのだろう。

 分からなくなってしまい、階段の陰へ隠れた。

「リヒトさん!」

 階段の下から声がした。

「僕は分からないんです! 貴女が何を聞きたいのか、僕が何を伝えればいいのか!」

 リヒトは息を止めた。

 シリウスの声が震えている。

「三年間、貴女に会うことばかり考えていたんです。会えた後のことを、何も考えていなかった!」

 リヒトは階段の手すりを握った。

「僕にも聞きたいことが山ほどある。どうして僕の前からいなくなったのか。三年間、何を考えていたのか。ほかに好きな人がいるのか……!」

 シリウスは一度言葉を切った。

「でも、貴女が何を聞きたいのかも分からない。だから、ちゃんと話をしたいんです!」

 声が大きくなった。

「僕は忙しい。この国の大王だから! でも、なんとか時間を作ります。貴女が聞きたいことには、全部答えたい。貴女の話も、全部聞きたい!」

「だから……僕に、時間をください!」

 リヒトは、ゆっくり階段の陰から姿を現した。

 シリウスが見上げている。

 彼は泣いていた。

 リヒトは大神殿の官吏のローブを着て、小さな鞄を持っていた。

「私……今からコルデール宮に行こうとしてたの……」

 シリウスは呆然とした。

「……え?」

「シリウスと、一緒に帰りたくて……」

 リヒトはうつむいた。

 シリウスはゆっくり階段を上り、両腕を広げた。

「リヒトさん!」

 リヒトが顔を上げた。

「ここに、飛んで来い!」

 彼女は跳んだ。

 三年前、彼を食べようとして跳びかかった猫族の少女が、今度は自分の意思で、彼の腕の中へ跳んだ。

 シリウスはしっかりと抱き止めた。

 リヒトは彼の首に腕を回し、胸元に顔を埋めた。

「私も……シリウスと一緒に、大神殿に帰りたいです……」

 シリウスは何度も頷いた。

 そして、彼女の額へそっと口づけをした。

 ようやく、この腕の中に彼女がいる。

 シリウスはリヒトを抱きしめたまま、しばらく離そうとしなかった。


七 燭台の向こう側

 大神殿に戻って三か月。シリウスは、少々深刻な問題を抱えていた。

「……で、一緒に大神殿へ帰ってきて、三か月経っても進展がない、と?」

 神虎ファリスの問いに、シリウスは頷いた。

「二人で会う機会がないんだ。リヒトさんは大学に復学したし、僕も仕事があるからね」

「同じ大神殿に暮らしているのでしょう? 夜に会いに行けばよろしいではありませんか」

 神羊オスカーのもっともな意見に、神猿アダムも大きく頷いた。

「そうそう。お嬢さんの部屋へ行って、ちょいと夜這いの一つや二つ……」

「そんなこと、やれるわけないだろう!」

 シリウスは耳まで赤くなった。

「僕とリヒトさんは、まだ結婚していないんだ!」

 男たちは、一瞬黙り込んだ。

「……結婚?」

 ファリスが恐る恐る聞き返すと、シリウスは不思議そうな顔をした。

「何を言っているんだ。僕とリヒトさんの次の進展といえば、結婚の申し込みだろう?」

「いや、ちょっと待ってください。今、進展がないという話をしていたのでは?」

「だから、申し込もうと思っているんだよ」

「……申し込んでいないんですか?」

「まだだ」

 男たちは揃って天井を仰いだ。

「三年前、リヒトさんが大神殿を去ったとき、僕は必ず迎えに行こうと決めた。今度こそ、彼女を安心して抱きしめられるようにする。そのために神通力を研究してきたんだ。だから、迎えに行って一緒に帰れたら、その先は結婚だと思っていた」

「シリウス様。お嬢さんには、そのお話を?」

「……していない」

 ロベルトは静かに目を閉じた。

「では、リヒトさんのお気持ちは?」

「それも、まだ聞いていない」

 そんなシリウスへ、ロベルトは何気なく告げた。

「そういえば、テオが三年前、リヒトさんに求婚したことは御存じですか?」

「……何?」

 シリウスが顔を上げた。

「テオが……リヒトさんに?」

「ええ。彼女が大神殿を去る前の晩餐会で」

 シリウスは、しばらく口を開かなかった。

 やがて、両手で頭を抱える。

 シリウスが突然、窓辺へ駆け寄った。

「あっ、リヒトさんだ!」

 男たちが顔を見合わせる間にも、彼は向かいの棟を眺め、指を折って何かを数えている。次いで窓際の燭台の前に立つと、一冊の本を使って蝋燭の光を隠し始めた。

 一度、二度、三度。

「……何をしておられたんです?」

 オスカーが尋ねると、シリウスは照れ臭そうに鼻の頭を掻いた。

「向かいの棟がリヒトさんの部屋なんだ。僕の仕事が遅くなると、彼女の部屋も遅くまで明かりがついている。あるとき気づいたんだけど、僕が火を消したあと、あの部屋の明かりが何度か点滅してから消えるんだよ」

「それ以来、毎晩やっているんだ。さっきは七回だったから、『おやすみなさい』なのかな」

 シリウスは心底幸せそうに窓を見つめた。

「それで、シリウス様は何回?」

「六回」

「六回……?」

「だ・い・す・き・で・す。六文字だろう?」

 大王は誇らしげに答えた。

 男たちは盛大に倒れ込んだ。

「……その意味を、リヒトさんは御存じなんですか?」

「いや。教えていない」

 シリウスは少し考えたあと、もう一度窓の向こうを見た。

「でも、いつかはちゃんと伝えるよ」

     *

 翌夜、十二支会議の閉会前夜を飾る晩餐会が開かれた。

 大神殿の大広間には楽団の演奏が響き、各州から集まった貴族や令嬢たちが、華やかな衣装をまとって行き交っていた。

 シリウスが令嬢たちへ挨拶を返していると、広間の階段で小さなどよめきが起こった。

 シリウスは顔を上げた。

 神馬ツムギと神亥ステファニーに付き添われ、黒いドレスを着たリヒトが階段を下りてくるところだった。

 細身のドレスには銀糸で控えめな刺繍が施され、耳元には白い花が飾られている。いつもの質素な服とは違うが、華美な装飾で飾り立てたわけでもない。

 森の奥に咲く百合のようだ、と思った。

 周囲の令嬢たちに礼を述べたかどうかさえ、よく覚えていない。気づけば、彼はリヒトの前に立っていた。

「リヒトさん」

 彼女が顔を上げる。

 シリウスは一礼し、手を差し出した。

「どうか私に、貴女とダンスを踊る光栄を与えてください」

 リヒトは驚いたように瞬きをしたが、すぐに嬉しそうに微笑んだ。

 シリウスは彼女の腰へそっと手を添えた。

「三年前を思い出してください。僕に身を任せれば大丈夫です」

 リヒトは彼を見上げた。

 三年前は踊った末に彼を傷つけてしまった。けれど、今は違う。

 シリウスの手が腰に触れても、顔が近づいても、恐ろしい食欲は湧いてこない。胸は激しく鳴っているけれど、それは彼が好きだからだった。

 リヒトはようやく肩の力を抜き、シリウスの動きに身を任せた。

 一曲を踊り終えるころには、二人とも自然に笑っていた。

 やがてツムギが気を利かせてくれたおかげで、二人は夜の庭園へ出ることになった。

     *

「こちらへ行きましょう。夜の景色が綺麗です」

 すると、リヒトの足が止まった。

「晩餐会のときは、いつもこうやって女の人と二人きりで散歩するの?」

 シリウスはぎくりとした。

「今の台詞を言うの?」

「……ええと」

「じゃあ、今もいつものことね」

 リヒトが、そっと彼の腕から手を抜いた。

 リヒトは少し黙ったあと、ぽつりと尋ねた。

「……マリア様との婚約は、どうなったの?」

 シリウスは足を止めた。

 そして、ようやく気づいた。

「あれは、貴女がいなくなったその日に断りましたよ」

「……どうして?」

「そんな、僕はリヒトさんが好きなんだから、当然です」

 リヒトは驚いた顔で彼を見上げた。

「好きって……どういう意味の……?」

「もちろん、恋しているという意味です」

 リヒトの頬が、みるみる赤くなった。

「……ごめんなさい。順番に話します」

 シリウスは彼女の手を取り、ゆっくり歩き始めた。

 三年前、恋という感情を初めて知ったこと。マリアとの婚約予定を断り、その後に持ち込まれた縁談もすべて断ってきたこと。

 そして、自分がリヒトを迎えに行くために、神通力の研究を続けてきたこと。

 リヒトは黙って聞いていたが、やがて小さな声で言った。

「私……シリウスが、あんまり立派になったから……」

「はい?」

「すごくかっこいいんだもの。まともに見られなくて……」

 今度はシリウスの顔が真っ赤になった。

「……リヒトさん」

「な、なあに?」

「そういうことは、もっと早く言ってください」

 シリウスは思わず笑った。

 リヒトも恥ずかしそうに笑う。

 いつの間にか、二人は三年前に巻き尺で距離を測った東屋の近くまで来ていた。

 あのころは、三十センチ近づくだけでも恐ろしかった。ゼロセンチを達成したときには、嬉しいような怖いような、何とも奇妙な気持ちになったものだ。

 シリウスは、今も楽しそうに話しているリヒトを、木の幹へそっと追い込んだ。

「リヒトさん」

「な、なあに?」

「今夜の貴女も、とても綺麗です」

 彼女の頬に指を添え、ゆっくり顔を近づける。

 リヒトは逃げなかった。

 唇が触れると、彼女はシリウスの首へ両腕を回した。

「……【封殺】をかけて」

 リヒトが、小さな声で言った。

 シリウスは頷き、額の刻印を彼女の額へ寄せた。

「神通力【封殺】」

 術を終えて目を開けると、リヒトが優しく微笑んでいた。

 シリウスはその唇へ、もう一度口づけようとした。

 その瞬間。

 夜の庭園を、耳を劈くような悲鳴が引き裂いた。

     *

 シリウスがリヒトを庇って駆けつけると、紫の瞳をした金髪の少年王、神竜フレドリックがいた。

 彼は双子の妹マリアの髪を掴み上げ、その胸に短剣を突き立てていた。

「来た来た。さすが大王様、一番乗り……」

 柔らかな声で笑っている。

 その足元には、数人の男が血を流して倒れていた。

 シリウスはリヒトを背後に庇った。

「フレドリック。マリアを放せ」

 シリウスは回復の神通力を放った。

 しかし、マリアがシリウスの名を呼ぼうとした途端、フレドリックの顔が歪んだ。

「……どうして、僕じゃないんだ?」

 どす黒い刃が閃き、マリアは命を落とした。

 リヒトは悲鳴を上げ、その場に崩れ落ちた。

 少年は異様な紫の靄をまとい、人ならざる竜へと変じた。

 シリウスは神通力【真実の口】で、その竜に取り込まれたマリアの思いを聞き出した。

 そして静かに告げた。

「君の気持ちには答えない。これまでも、これからも。ただ、冥福は祈ろう」

 マリアは最後に、彼のそういうところを慕っていたのだと答えた。

 やがて、神牛ロベルトの【闘牛】が発動し、フレドリックの変じた竜を討った。

 シリウスは、リヒトをそっと抱き起こした。

 彼女の顔は真っ青で、全身が震えている。

 つい先ほどまで、互いに恋していることを確かめ、口づけを交わしていた。

 たったそれだけの時間で、世界は恐ろしく姿を変えてしまった。

     *

 朝になり、リヒトは寝台のそばに座っているシリウスを見つけた。

 銀髪が少し乱れている。

 普段なら、とっくに仕事へ出ている時刻だった。

「シリウス……」

 彼はすぐに顔を上げた。

「リヒトさん。具合はいかがですか?」

 リヒトは頷こうとしたが、昨夜の光景が蘇り、言葉を失った。

 リヒトはシリウスの手を握った。

「ねえ、シリウス。君も……命を懸けて戦うことがあるの?」

 シリウスは、少し考えてから答えた。

「僕は大王ですから。国と貴女を守るためなら、命を懸けることもあります」

 次の瞬間、乾いた音が部屋に響いた。

 リヒトが、彼の頬を引っぱたいたのだ。

「馬鹿シリウス!」

 シリウスは驚いて彼女を見た。

「リヒトさん! 何をするんです!」

「君こそ、何を言ってるのよ!」

 リヒトの目から、涙がこぼれた。

「君が命を懸けて国を守ったら……私を守って君が死んだら……私、すぐに死ぬから!」

 シリウスは言葉を失った。

「この国では、王の命は軽すぎるのよ!」

「君が命を懸けないと守れない国なんて、ツヴェルフェトなんて、滅んじゃえばいい!」

「君が命と引き換えにしか私を守れないなら、私が今から出ていけばいい!」

 シリウスは泣いている彼女を抱きしめ、そのまま寝台へ戻した。

 そして両手でその頬を包み、涙を拭った。

「リヒトさん……貴女は、もしかして……」

 何かを言いかけたところで、扉がノックされた。

 閉会の儀の支度をする時刻だった。

 シリウスは名残惜しそうに立ち上がり、扉へ向かった。

 リヒトは、その背中を見送った。

 行かないで。

 ここにいて。

 そう言いたかったが、言葉にならなかった。

 しかし、扉の前でシリウスは立ち止まった。

「今日は忙しいから、貴女に会えないかもしれません。でも、僕、寝るときに燭台で合図します。いつもみたいに」

 振り返った彼は、少し切なそうに微笑んだ。

「だから……きっと、ここにいてください」

 扉が静かに閉まった。

 リヒトは、しばらくその扉を見つめていた。

 やがてエデが温かなスープを運んできた。彼女は何も聞かず、窓際の燭台を丁寧に磨き始めた。

 リヒトは、ようやくスプーンを取った。

 今夜、あの窓に明かりを灯そう。


八 五回の合図

 昼過ぎ、リヒトの部屋へ神蛇テオが訪ねてきた。

「顔色わるっ」

「ですから、体調が悪いと申し上げました」

「そら、ごめん。でも、昨日は大変やったしな。安否確認くらいさせてくれや」

「なあ、三年前のプロポーズ、まだ答え聞いてへんねんけど」

「お断りいたします」

「えっ、即答!?」

「三年前もお断りしたでしょう」

 テオは苦笑した。

「まあ、しゃあないな。ほな、友達でええわ」

「あの、もう一つお願いがあるんですけど」

「何や?」

「その、リヒトって呼び捨てにするのは、やめていただけませんか?」

 テオは目を丸くした。

「何でやねん。友達やろ?」

「でも……特別な関係みたいに聞こえます。シリウスに勘違いされたら困るんです」

 テオは天井を仰いだ。

「そこまで言われたら、俺もさすがに落ち込むで……」

「申し訳ありません」

「謝られたら、もっと落ち込むわ!」

 すると、テオは何か別の呼び方を考えてほしいと言い出した。

 仕方なく、大学でかつての学友たちに呼ばれていた愛称を思い出す。

「では、『リティ』はいかがでしょう?」

「お、それええやん!」

 テオは勢いよく立ち上がった。

「リティ、一度きりの人生、お互い楽しもな!」

 そう言うと、返事を待たずに帰っていった。

     *

「今日は、何回合図なさるんですか?」

 部屋を整えていたエデが、そっと尋ねた。

 リヒトは蝋燭を見つめたまま、しばらく考えていた。

「五回……『会いに来て』は駄目でしょうか……」

 エデの手が止まった。

 彼女はすぐにリヒトのそばへ来ると、膝をついて微笑んだ。

「お嬢様、ぜひそうなさいませ」

「えっ?」

「今夜は、大王様とご一緒にお過ごしください。周囲のことは、私とダンテスで取り計らいます」

 リヒトは耳まで真っ赤になった。

「そ、そこまでお願いするつもりは……!」

 エデは何とも頼もしげに頷いた。

「ご安心ください。お二人のことは、私どもがお守りします」

 窓辺に座り、燭台を眺める。

 今夜は五回。

 会いに来て。

 向かいの棟に明かりがつく。

 リヒトは、胸元の銀のロケットを握りしめた。

 そのとき、うなじの刻印が焼けつくように痛んだ。

 リヒトは思わず振り返った。

 部屋の中央に、見たこともない黒い穴が開いていた。

 穴は渦を巻きながら大きくなり、そこから伸びた黒い触手が、彼女の身体に絡みつく。

「……っ!」

 声を上げる間もなかった。

 触手が口を塞ぎ、リヒトの身体を引きずっていく。

 必死に燭台へ手を伸ばしたが、指は何にも触れなかった。

 最後に見えたのは、向かいの棟の明かりだった。

 シリウスの部屋。

 あそこまで、ほんの少しの距離なのに。

 リヒトは、その明かりへ向かって手を伸ばしたまま、黒い渦の中へ消えた。

     *

 その夜、シリウスは浴室から戻ると、髪を拭きながら窓辺へ行った。

 リヒトの部屋には、明かりがついていた。

 シリウスは燭台を手に取り、最初の合図を送った。

 返事がない。

 シリウスは、ふと違和感を覚えた。

 部屋の明かりはついている。

 しかし、そこに人がいる気配がない。

 胸の奥が、急に冷たくなった。

「ヤン!」

 扉を開け、従者を呼ぶ。

「エデにリヒトさんの部屋を確認させろ!」

 返事を待たず、シリウスは自ら廊下へ飛び出した。

 ほどなくして、青ざめたエデが駆け寄ってきた。

「シリウス様……リヒト様が、いらっしゃいません……!」

 シリウスは部屋へ踏み込んだ。

 寝台は整えられ、窓は閉まっている。出入り口を守っていた衛兵も、リヒトが外へ出るところを見ていないという。

 けれど、彼女の姿はどこにもなかった。

 窓辺には、火のついた燭台が残されている。

「……リヒトさんが、自分から出ていく理由はあるか?」

 シリウスは努めて冷静に尋ねた。

 エデは強く首を振った。

「ございません。今夜は大王様へ、五回合図をするとお決めになって……」

「五回?」

「『会いに来て』という意味にしたいと……」

 シリウスは息を止めた。

 会いに来て。

 彼女は、自分を待っていた。

 床に青い光が走る。

 無数の透明な鼠が現れ、壁を抜け、廊下を走り、大神殿の隅々へ散っていった。

 神通力【独楽鼠】。

 彼の目となり耳となって、あらゆる場所を探る術だった。

 そのとき、寝台の上で小さな光が瞬いた。

 銀のロケットだった。

 シリウスはそれを手に取り、蓋を開けた。

 中にはアクアマリンの石と、自分の銀髪が一本収められている。

 ならば必ず、連れ戻す。

     *

 そこへテオが駆け込んだ。

「リティがいなくなったって、ほんまか!」

 シリウスの眉が跳ね上がった。

「……リティ?」

「あ? 羨ましい? 本人に許してもろたんやで」

 テオはわざとらしく笑った。

「呼び方一つで差がついてるんやし、もうええやろ」

「……テオ」

「何や」

「今は、リヒトさんを捜す」

 テオは一瞬、彼の顔を見た。それから真顔で頷いた。

「せや。それでええ」

 しばらくして、独楽鼠の一匹が反応を返してきた。

 遠く離れたゴテスベルク。

 猫族の天神があるとされる山だった。

「ゴテスベルクだ!」

 シリウスが叫ぶと、テオは即座に立ち上がった。

「先に助けに行くわ!」

 テオは神通力で白金の道を開き、姿を消した。

 シリウスも必要な手配を済ませ、狩りの服に着替えた。胸元のロケットを握りしめる。

「リヒトさん。必ず助けに行きます」

 そして、単身ゴテスベルクへ向かった。

     *

 リヒトが目を覚ましたのは、冷たい石造りの広間だった。

「お目覚めですか?」

 穏やかな声がした。

 リヒトは顔を上げた。

「ロベルト様!」

 神牛ロベルトが、すぐそばに立っていた。

 リヒトは胸を撫で下ろした。

「よかった……あの、ここはどこですか? 私、部屋で黒い穴に引き込まれて……」

「大丈夫ですよ。シリウス様も、もう少しすればいらっしゃいます」

 ロベルトは微笑んだ。

 その言葉に、リヒトは安心しかけた。

 しかし、広間の隅に倒れている人物を見つけて、息を呑んだ。

「テオ様!」

 駆け寄ろうとすると、身体がうまく動かない。

 リヒトはロベルトを振り返った。

「大変です! テオ様が倒れています! 早く助けないと……!」

「ええ。もちろん知っていますよ」

 ロベルトは、いつもの穏やかな口調で答えた。

「私が殺しましたから」

 ロベルトは微笑んだまま、奥の祭壇を指さした。

「こちらも御覧ください」

 そこには、神犬クロエと神竜フレドリックの首が置かれていた。

 リヒトは悲鳴を上げた。

 後ずさろうとした瞬間、ロベルトが神通力を使った。

 【牛歩】。

 身体が重くなり、床へ縫いつけられたように動かなくなる。

「どうして……!」

 リヒトは震えながら、彼を見上げた。

「ロベルト様、どうしてこんなことを……!」

「私は、シリウス様を幸せにして差し上げたいのです」

「シリウス様は幼いころ、この国の独立派にも虐げられた。それでも国を守るために働いておられる」

「ですから、十二支という仕組みを壊してしまえばいい」

 ロベルトが望むのは、九人の王を犠牲にして神通力の制度を壊す【怨霊祭】という儀式だった。

 リヒトは祭壇を見た。

 クロエの首。

 フレドリックの首。

 そして、床に倒れているテオ。

 ロベルトは、それらを儀式のために集めていたのだ。

「九人が犠牲になれば、残る三人で新しい国を築けます。シリウス様は、もう独立派の襲撃に怯える必要もなくなる。貴女も、猫族という属性に苦しめられずに済むのです」

「貴女は、シリウス様に仰ったそうですね。あの方が命を懸けなければ守れない国など、滅べばいいと」

「どうか、貴女からシリウス様を説得してください。貴女がお願いすれば、きっとお聞きになるでしょう」

 ロベルトは優しく微笑んだ。

「私は、あの方に幸せになっていただきたいのです」

 リヒトは、ゆっくり息を吐いた。

「お断りします」

 ロベルトの笑みが止まった。

「……なぜです?」

 リヒトは彼を見上げた。

「全部説明しなければ、分かりませんか?」

「私の計画の、どこが不満なのです?」

「本当に……馬鹿ロベルト」

 ロベルトは目を丸くした。

「シリウスと同じですね。全部話さなきゃ分からないんですか」

「でも、説明しません。時間の無駄です」

 ロベルトは、しばらく彼女を見つめていたが、やがて笑い出した。

「なるほど。シリウス様が貴女に夢中になられるわけだ」

 その笑い声には、少しも温かさがなかった。

「では、仕方ありませんね」

 リヒトの身体が石の台へ押さえつけられ、鎖が手足に絡みついた。

「貴女が説得してくださらないのであれば、貴女の命を盾に、シリウス様に残る王たちを殺していただくしかありません」

 ロベルトは、逃げられない彼女へ手を伸ばした。

「やめて……!」

 リヒトの声が震えた。それでもロベルトは手を引こうとしなかった。

 怖い。けれど、明日もシリウスに会いたかった。

「シリウス!」

 リヒトは声の限り叫んだ。

「助けて!」

 空間が大きく歪んだ。

 黒い渦が現れ、ロベルトの身体を一気に引き剥がす。

「リヒトさん!」

 青い光が、広間を満たした。

     *

 シリウスだった。

 銀髪が乱れ、アクアマリンの瞳が強い光を放っている。

 彼はリヒトへ駆け寄ると、鎖を片手で引きちぎった。

「リヒトさん!」

 リヒトは飛び起き、彼の背中へ回った。

「……シリウス」

 ようやく声が出た。

 シリウスは振り返らず、黙って頷いた。

 ロベルトは、青い光の鎖に縛りつけられている。

 シリウスは彼を見据えたまま、床に倒れているテオへ歩み寄った。

 そして、突然その頬を往復ビンタした。

「いつまで寝ているんだ! 起きろ!」

「……どうも、おはようございます?」

 仮死の術で倒れていたテオは、目を開けた。

 シリウスは呆れたように彼を掴み、リヒトの方へ押しやった。

「リヒトさんを守れ」

「大王様に言われたないなあ……」

「黙れ」

 そう言うと、シリウスはロベルトへ向き直った。

 彼の耳元から、透明な独楽鼠が一匹降りてくる。

「お前が何をしようとしていたかは、全部聞いた」

 ロベルトは感心したように微笑んだ。

「なるほど。独楽鼠をそこまで器用に使われるとは。さすが、シリウス様です」

「私は、貴方様を幸せにして差し上げたかったのです」

「私は、あれほど貴方様に尽くしてきたというのに、弁解の余地もありませんか?」

 ロベルトの声には、なおも親しみが残っていた。

 シリウスは、彼を見つめた。

「お前が今述べたことは、酌量の理由にならない」

「大王は、直接手を下さない」

 そして、静かに命じた。

「神蛇テオ」

 テオがリヒトのそばを離れた。

 抜き放たれた剣が、青い光を受けて鈍く輝く。

 リヒトの目の前を、シリウスのマントが覆った。

 次の瞬間、鈍い音が響いた。

 ロベルトの命は、そこで絶たれた。

     *

 シリウスは【封殺】をかけ、リヒトを自分のマントで包んだ。

 それから、テオと向かい合った。

「後始末は僕がやる。お前はリヒトさんを連れて帰ってくれ」

「……え?」

「クロリ州へ」

 テオは眉をひそめた。

「何で俺の州なんです?」

 シリウスは顔を背け、ようやく口を開いた。

「……結婚するんだろう?」

 テオは固まった。

「……は?」

「リヒトさんと」

「何でやねん!」

「お前、彼女をリティと呼んでいるだろう」

「そんなんで、何で結婚の話になるんです!?」

 テオは、思わず彼の肩を掴んだ。

「リティは俺のこと好きちゃいます。結婚の約束もしてません。これでええですか?」

 シリウスが、ぱっと顔を上げた。

「……本当か?」

「ほんまです!」

「でも、愛称で……」

「愛称で呼んでええ言われたんと、結婚の約束したんとは、全然別の話です!」

 シリウスはようやく息をついたが、すぐにテオを見上げた。

「……もう一度、ちゃんと言ってくれ」

 テオは呆れながら一語ずつ繰り返した。

「リティは俺のこと好きちゃいます。結婚の約束もしてません」

「これで、ええですね?」

「……ありがとう」

「ほんま、馬鹿シリウスやなあ」

 シリウスは、珍しく素直に頷いた。

「……そうだね」

 そして、ようやくリヒトのもとへ戻った。

     *

 マントの中で小さくなっていたリヒトは、近づいてくる足音に顔を上げた。

 シリウスだった。

「リヒトさん」

 彼は膝をつき、彼女を覗き込んだ。

 シリウスは彼女の顔を見て、ふっと表情を和らげた。

「もう大丈夫です。大神殿に帰りましょう」

 リヒトの目から涙がこぼれた。

 シリウスは両腕を広げた。

 今度こそ、リヒトはその胸へ飛び込んだ。

 彼は、しっかり抱き止めてくれた。

 温かい。

 シリウスの心臓が、すぐそばで鳴っている。

 リヒトはその音を聞きながら、ようやく声を上げて泣いた。

 シリウスは何も言わず、彼女の背中を撫で続けた。

 やがてリヒトが顔を上げると、彼はそっと頬に触れた。

「……本当に、よく頑張りましたね」

 リヒトは、また泣いた。

     *

 シリウスは犠牲になった王たちに黙祷した。

 それから二人は、石造りの天神を出た。

 山の冷たい風が吹きつける。

 夜は明けかけており、東の空が淡く色づいていた。

 シリウスは、リヒトが裸足であることに気づいた。

「リヒトさん」

「なあに?」

「歩くの、辛いでしょう」

 答えを待たずに、彼女を抱き上げる。

「だ、大丈夫よ。歩けるわ」

「僕が抱いて行きたいんです」

 少し困ったように笑う彼を見て、リヒトはそれ以上何も言わなかった。

「ねえ、シリウス……」

「はい?」

「ありがとう」

 シリウスは、少しだけ笑った。

「こちらこそ」

 それから、彼女を抱く腕に力を込めた。

「生きていてくれて、ありがとう」

 リヒトは、彼の胸元に顔を寄せた。

 シリウスは、遠くに町並みが見えてくると、ようやく小さく息を吐いた。

「リヒトさん。近くの門前町で、宿を取りましょう」

 声には、ひどい疲労が滲んでいた。

 それでも、リヒトを抱く腕は緩まなかった。

 二人は、夜明けの道を進んでいった。


九 白紙だった人生

 バカンティエの門前町に着いたころには、東の空がすっかり明るくなっていた。

 シリウスは、その町並みを眺める余裕もなく歩いていた。

 彼の腕の中にいるリヒトは、先ほどから何度も顔を上げている。

「ねえ、シリウス。少し休んだ方がいいんじゃない?」

「ええ。宿を取ります。もう少しだけ付き合ってください」

 いつもの朗らかな声ではなかった。言葉を絞り出すように答えると、シリウスは彼女を抱く腕に力を込め、町の中心へ向かった。

 宿へ入ると、シリウスは寝台へ倒れ込んだ。

「シリウス、大丈夫?」

「……少し、眠らせてください」

 ようやく布団を掛けようとしたとき、シリウスが目を開いた。

「リヒトさん」

「なあに?」

「……どうして、テオは『リティ』と呼んでいいんですか?」

 リヒトは掛け布団を持ったまま固まった。

 今、それを聞くのか。

「テオは貴女に許してもらったと言っていました。僕は三年間ずっと『リヒトさん』なのに、呼び方一つで差がついている、と」

 シリウスはひどく弱々しい声で訴えた。

「違うのよ、シリウス。もともとテオ様が勝手に『リヒト』って呼び捨てにするから、やめてほしいって言ったの。そしたら、ほかの呼び方を考えろって言われて……」

 リヒトは寝台の縁に腰を下ろした。

「昔、大学で私をいじめていた人たちが『リティ』って呼んでいたでしょう? それを思い出して、もう何でもいいから、その呼び方にしてもらったのよ」

「……そうだったんですか」

「それだけ。特別でも何でもないわ。求婚だって、ちゃんとお断りしているし」

 シリウスは、ようやく安心したように笑った。

「なんだ……そんなことだったんですか。僕は馬鹿シリウスですね」

「私はね、シリウスの『リヒトさん』って呼び方が好きよ。優しくて、いいと思う」

 シリウスは彼女の手を取り、指先に唇を押し当てた。

「……ありがとう」

 それきり瞼が下り、握っていた手から力が抜けていった。

 寝息が聞こえ始めると、リヒトはようやく胸を撫で下ろした。

 あれほど疲れ果てても、気にしていたのは、テオに許した愛称のことだったらしい。

「……馬鹿シリウス」

 寝返りを装って、そっと近づく。

 額に彼の寝息がかかり、寝台を通して身体の温かさが伝わってくる。リヒトはその温もりを確かめるように目を閉じ、いつの間にか深い眠りに落ちていった。

     *

 シリウスが次に目を覚ましたとき、窓の外は賑やかな人声で満ちていた。

 明るい。

 シリウスはロケットをそっと握り、昨日までの出来事を思い返した。

 ロベルトは、自分を幸せにしたかったのだという。

 その言葉が嘘だったとは思わない。

 けれど、彼が望んだ新しい国家のために、クロエもフレドリックも命を奪われた。テオも殺されかけ、リヒトまで恐ろしい目に遭った。

 自分の幸福を理由に、親しかった人々の命が犠牲にされたのだ。

 シリウスはロケットを丁寧に外し、衣服の上へ置いた。

     *

 開け放した窓から、笛の音と人々の歓声が流れ込んでくる。広場には屋台が並び、色とりどりの旗が風にはためいていた。大きな籠を運ぶ男たちの間を、仮装した子供が駆け抜けていく。

 リヒトはその様子を、夢中になって眺めていた。

「リヒトさん、お腹は空いていませんか?」

 シリウスが布袋から乾パンを取り出すと、彼女はぱっと振り返った。

「ちょうど、すごくお腹が空いたって思っていたの!」

 両手を差し出して乾パンを受け取り、さっそく嬉しそうに頬張る。

「おいしい! ねえ、シリウス。見て。今日はお祭りみたいよ。あそこ、何か焼いているでしょう? いい匂いがここまで来るの」

 視線に気づいたリヒトが、少し気まずそうに乾パンを見下ろす。

「……お行儀、悪かった?」

「まさか」

 シリウスは彼女の食べかけの乾パンをひょいと取り上げ、一口で食べてしまった。

 代わりに、自分の乾パンを渡す。

「これで、お揃いですね」

 なぜかリヒトは真っ赤になった。

 シリウスは彼女の隣へ立ち、窓の外を見渡した。

「バカンティエの収穫祭ですよ。明日が本祭ですが、前夜祭も昼から賑わうんです」

「来たことがあるの?」

「いいえ。でも、この国の行事はほとんど記憶しています。作物の生育に合わせて雨雲を動かすこともありますから、収穫時期や各地の祭事を知っておくのは、大王の仕事なんです」

「気候も、地形も、人口も、作物の出来も。神通力でできることは多いけれど、一つの州を助けたために、別の州が困るようなことは避けなければなりません。だから、使うべき力と使わない方がいい力を、いつも考えているんです」

 そこまで話して、少し声を落とした。

「ロベルトが考えたように、神通力のない国になっても、人々は案外たくましく暮らしていけるのかもしれません。でも、今は僕の仕事ですから」

 リヒトはしばらく彼を見つめ、それから頬を両手で挟んだ。

「……リヒトさん?」

 背伸びをして、その頬にそっと口づける。

「いつもありがとう、大王様」

 シリウスは瞬きもせず、彼女を見つめた。

 シリウスは乾パンを置き、リヒトを抱きしめた。

「……ありがとう、リヒトさん」

 彼女も彼の首に腕を回してくれる。

 シリウスはリヒトの頬に口づけ、何かを伝えようとした。

 その瞬間、外からひときわ大きな歓声が上がった。

「あっ、見て! 子供たちの仮装行列!」

 リヒトは彼の腕を抜け出し、窓へ飛びついた。

 シリウスは差し出しかけた手を宙に浮かせたまま、しばらく固まっていた。

 あと少しだったのに。

「……リヒトさん」

「なあに?」

「お祭りに行きませんか?」

 彼女が勢いよく振り返った。

「えっ! いいの?」

「ええ。大神殿へは今夜遅くに迎えの馬車が来ます。それまでは休暇にしましょう。昨日まで散々な目に遭ったんですから、少しくらい楽しんでも罰は当たりません」

 リヒトは嬉しそうにシリウスの腕を掴んだ。

「じゃあ、行こう!」

 しかし、すぐに自分の格好を見下ろした。

 裸足で、薄いネグリジェを着ている。

「あ……」

 シリウスは笑いながら、彼女の肩にマントを掛けた。

「まずは服を買いに行きましょうか」

     *

 宿を出ると、道行く人々が次々に振り返った。

 道を尋ね、教えられた洋品店へ入ると、店主らしい婦人に丁寧に挨拶する。

「失礼、マダム。この女性の服を見繕っていただけますか?」

 そして、リヒトを包んでいたマントを開いた。

 リヒトは心の中で悲鳴を上げた。

 店の婦人は一瞬驚いたものの、すぐに穏やかな笑顔を浮かべた。

「かしこまりました。どうぞ、こちらへ」

 奥から仕立てのよい服を着た老紳士が現れ、シリウスを丁重に迎えた。ほかの客たちはいつの間にか案内されて出ていき、リヒトは柔らかなソファに座らされた。

「奥様には、こちらのお色などいかがでしょう?」

 リヒトの肩へ、淡い桃色の服が当てられた。

「あ、ピンクは駄目です。私、ピンクを着られない運命なんです」

「まあ、では、こちらの深緑はいかがです? レースを合わせれば、きっとお似合いになりますわ」

「レースも縁遠い人生……あ、猫生でして……」

 婦人は一瞬不思議そうな顔をしたが、すぐに笑顔へ戻った。

 横ではシリウスが、心底楽しそうに服を眺めている。

 リヒトが何度目かの遠慮を口にしたとき、老紳士がふと思い出したように婦人へ話しかけた。

「テレーズ。あのラピス・ラズリの服はどうだろう?」

「ああ、そうですわね!」

 すぐに奥から取り出されたのは、深い青色の服だった。

 艶のある生地は、光の当たり方によってわずかに色を変え、控えめに施された装飾が、どこか静かな華やかさを感じさせる。

 リヒトの身体に当てられた瞬間、店の人々から感嘆の声が上がった。

「リヒトさん、とてもよく似合っています」

 彼は、まっすぐ彼女を見つめていた。

「女神様みたいです」

「こ、この服が綺麗なのよ……」

「もちろん服も綺麗です。でも、貴女が着ているから、もっと綺麗なんです」

 リヒトはとうとう顔を伏せた。

 婦人は満足そうに頷き、彼女を試着室へ連れていった。

「さあ、奥様。旦那様にご覧いただきましょう」

 奥様。

 そう呼ばれることに、思いがけないほど胸が高鳴った。

     *

 試着を終え、リヒトが部屋へ戻ると、今度はシリウスの姿が見当たらなかった。

「リヒトさん?」

 現れたのは、黒い平民服に着替えたシリウスだった。

 普段の大王としての装いとは違い、飾り気のない、ゆったりした服である。ただし、腰にはラピス・ラズリと同じ青い布が巻かれていた。

 リヒトは思わず息を呑んだ。

 そのまま見つめていると、シリウスがこちらへ歩いてくる。

「顔を見せてください」

 リヒトは慌てて両手で顔を隠した。

「嫌!」

「どうしてですか?」

「……恥ずかしいから!」

 シリウスは困ったように笑ったが、無理に手を外そうとはしなかった。

 代わりに婦人が優しく声をかける。

「奥様。私どものためにも、どうか旦那様に見せて差し上げてくださいませ」

 仕方なく、リヒトはゆっくり手を下ろした。

 シリウスは彼女を見た。

 そして、何も言わなくなった。

 先ほどまであれほど嬉しそうだった青年が、急に目を逸らしてしまったのである。

「……やっぱり、似合わない?」

「違います」

 シリウスは顔を赤くしたまま、鼻の頭を掻いた。

「あまりにも似合っていて、まともに見られないんです」

 そう言って、店の主人と婦人へ向き直る。

「僕、このお店に来てよかった」

 シリウスはリヒトの手を取った。

「さあ、お祭りへ行きましょう。せっかくの休日ですから」

 リヒトが頷くと、彼は満足そうに笑った。

 店を出る前、シリウスは老紳士に声をかけた。

「今日は僕と、僕の奥様の休日なんです」

 リヒトは、思わず彼を見上げた。

 シリウスは店の人々へ礼を述べながら、続けた。

「今日だけは、二人で楽しくお祭りに行きたいんです」


十 おまじない

 洋品店を出ると、通りは先ほどより一層賑わっていた。

 シリウスはリヒトの手を取り、人々の間をゆっくり歩いた。

 黒い平民服に、青い布を腰に巻いた銀髪の青年。

 その隣を歩くリヒトも、同じ青色の服をまとっている。

「ねえ、シリウス」

「はい?」

「さっきから、みんな君を見ているわよ」

「そうですか?」

「……気づいてなかったの?」

 シリウスは周囲を見渡したが、すぐにリヒトへ笑いかけた。

「今日は大王として来ているわけではありませんから、気にしないことにします」

 そう言いながら、彼は近くの屋台で棒付きのソーセージを二本買った。

 リヒトも一本受け取ったが、シリウスがあっという間に食べ終えてしまったので、驚いて彼を見た。

「もう食べたの?」

「お腹が空いていましたから。貴女もどうぞ」

「……本当に、よく食べるのね」

 リヒトは感心しながら、自分もソーセージにかぶりついた。

 ところが、皮が思った以上に固かった。

 噛み切ろうとしても、なかなかうまくいかない。両手で持ち直し、角度を変えてみたものの、思い切り噛めば今度は肉汁が飛びそうだった。

 シリウスが妙に静かになった。

 顔を上げると、彼は口元を手で押さえ、なぜか少し前屈みになっている。

「……どうしたの?」

「いえ、何でもありません」

「これ、どうやって食べるの? 君は簡単そうに食べていたけど」

「もっと、思い切り噛み切れば……」

 言われたとおりにしてみると、ようやくソーセージが噛み切れた。

「あっ、おいしい!」

 リヒトは嬉しくなって、思わず笑った。

 シリウスは一度背筋を伸ばしかけたが、彼女が指についた肉汁を舐め取ると、再び前屈みになった。

「シリウス? お腹が痛いの?」

「……いえ。少々、気合いが必要なだけです」

「何の?」

「どうか、気にしないでください」

 リヒトは首を傾げた。

 やがて、シリウスがようやく落ち着いたころ、リヒトは彼の前髪に触れた。

「髪型が、三年前みたいね」

「……子供っぽいですか?」

 シリウスは少し不満そうだった。

 平民服に合わせ、今日は前髪を下ろしていた。きっちり分けて整えた普段の髪型より、ずっと柔らかな印象になっている。

「そうじゃないわ。こういうシリウスも、かっこいいなって思って」

 今度はシリウスが絶句した。

 しばらくして、彼は困り果てたように呟いた。

「リヒトさんは……時々、本当に困ったことを言いますね」

「えっ、何か変なことを言った?」

「いいえ。むしろ、嬉しすぎるんです」

 リヒトが赤くなると、シリウスもつられて笑った。

 彼はリヒトの手から食べ残しのソーセージを受け取り、ひと噛みで食べてしまった。それから改めて彼女を見つめる。

 深い青色の服に、小さな耳飾り。低い位置でまとめられた黒髪が、歩くたびに柔らかく揺れている。

 シリウスはその姿を目に焼きつけるように、しばらく黙って見つめていた。

「……どうしたの?」

「綺麗だな、と思って」

 リヒトはまた赤くなった。

 それから、少し心配そうに彼を見上げる。

「ねえ、シリウス。【封殺】をかけてもらってもいい?」

「もちろんです」

 シリウスは彼女をそっと抱き寄せ、額と額を合わせた。

 術が終わると、リヒトは安心したように微笑んだ。

「ああ、これでしばらく安心!」

 シリウスは、そんな彼女をもう一度抱きしめた。

     *

「お兄ちゃん、下手くそ!」

 豆がぽとりと足元に落ち、子供たちが一斉に笑った。

 秋の収穫祭で、背の高い銀髪の青年が子供に囲まれている。銀髪というだけでも目を引くのに、その青年は物語から抜け出したような美貌の持ち主だった。平民の服に青い布を腰に巻き、飾り気のない姿で、いかにも真剣に豆飛ばしの竿を握っている。

「もう一回!」「ちゃんと狙えよ、お兄ちゃん!」

 シリウスは、ふと思いついたように顔を上げた。

「そうだ。この豆に、おまじないを掛けてみましょう」

 子供たちは目を輝かせた。

「おまじない?」

「そう。絶対に的に当たるおまじないです」

 シリウスは豆を眉間のあたりに持ち上げると、何やら小さな声で呟き始めた。

 子供たちは一斉に黙った。

 遠くから様子を見ていたリヒトも、思わず首を傾げた。

 やがて、豆を竿に据え直す。

「よし。これで大丈夫です」

「本当に当たるの?」

「当たりますよ」

「じゃあ早く!」

「いえ。こんな近くでは、おまじないがもったいない」

 そう言うと、シリウスは竿を構えたまま、後ろへ歩き始めた。

「お兄ちゃん、どこ行くの?」

「もう十分遠いよ!」

 しかし、シリウスは構わず下がっていった。

 道の真ん中まで来ても止まらず、とうとう反対側の建物に背中がつく。

「無理だよ!」

「絶対当たらないって!」

 何人かが道へ飛び出し、通行人たちに声をかけ始める。

「すいませーん! ちょっとだけどいてくださーい!」

「お兄ちゃんが豆飛ばしするんです!」

 何事かと人々が集まり、いつの間にか小さな人垣ができた。

 シリウスは片目を閉じ、遠くの的を見つめた。

 秋の日差しが銀髪を照らしている。

 子供たちは、もう笑っていなかった。誰もが固唾をのんで、青年の手元を見つめている。

「お兄ちゃん、本当にできるの?」

 一人の男の子が、不安そうに尋ねた。

 シリウスは微笑んだ。

「無理じゃないさ。絶対」

 次の瞬間、豆が放たれた。

 カンッ、と乾いた音が響いた。

 的の棒が一本、鮮やかに倒れた。

「わああああ!」

 歓声が上がった。

 シリウスはその声に微笑むと、今度はポケットから豆を何粒か取り出した。

 そして、竿を構えたまま的へ向かって歩き始めたのである。

 一歩進むたび、豆が飛ぶ。

 カンッ。

 また一本、棒が倒れた。

 カンッ、カンッ。

 次々と的が倒れ、見物人たちの拍手が大きくなっていく。

 リヒトも笑っていた。

 人垣を抜けて戻ってきたシリウスは、細長い菓子を何本か抱えていた。

「景品をいただきました。チュロスというお菓子だそうです」

 リヒトへ一本差し出すと、自分もさっそく食べ始める。

 甘い香りが漂った。

「すごかったわね、シリウス」

「なかなか楽しい遊びですね。今度は大神殿でもやってみましょうか」

「そんなに遠くから当てられる人、ほかにいるのかしら?」

「それは練習次第ですよ」

「お兄ちゃん」

 二人が振り向くと、さきほどの男の子が立っていた。

 男の子は少し恥ずかしそうにしながら、シリウスを見上げた。

「さっきのおまじない、教えて」

 シリウスは膝をついた。

「おまじないですか?」

「うん! 絶対に当たるやつ!」

 シリウスは、しばらく考えてから微笑んだ。

「残念だけど、あれは僕しか使えないんです」

「ええっ、どうして?」

「お山の神様に、一千日間お祈りして授かったおまじないだから」

「一千日!?」

「百日じゃなくて?」

「そう。一千日です」

「すげえ……!」

 シリウスは残っていたチュロスを男の子へ渡した。

「これは、みんなで分けてください」

「ありがとう、お兄ちゃん!」

 男の子は嬉しそうに駆けていった。

 シリウスは立ち上がり、リヒトを促して歩き始めた。

 祭りの喧騒が、背後で少しずつ遠ざかっていく。

 リヒトは隣を歩く彼を見上げた。

「ねえ、シリウス」

「はい?」

「さっきのおまじない、何て言っていたの?」

 シリウスはチュロスを食べる手を止めた。

「……何のことです?」

「とぼけないで。豆を眉間に当てて、何か呟いていたでしょう?」

「ああ、あれですか」

 シリウスは少し顔を赤くした。

「神通力を使ったわけじゃないのよね?」

「まさか! それは心外です」

「じゃあ、何て言ったの?」

 シリウスはしばらく黙っていたが、やがて小さく口を開いた。

「リヒトさんと……」

「え? 何?」

 彼はチュロスを飲み込み、少し身を屈めた。

 銀髪がリヒトの頬に触れ、甘い菓子の香りが近づいてくる。

 そして、耳元へそっと囁いた。

「『リヒトさんと、大神殿に帰りたい』」

 リヒトは足を止めた。

 一千日。

 リヒトは急に何も言えなくなり、手に持っていたチュロスを口へ運んだ。

 甘い。

 けれど、胸の奥がいっぱいで、なかなか飲み込めなかった。

 シリウスは彼女の少し前を歩いていた。

 やがて、小さく笑いながら口を開いた。

「僕、さっきまで、この一日が永遠に続けばいいと思っていたんです」

 リヒトは顔を上げた。

「大神殿からの迎えなんか、来なければいい。ずっとこうして、貴女とお祭りを歩いていられたらいいのにって」

 彼は、振り返って微笑んだ。

「でも、リヒトさんと大神殿に帰れるんだから、悪くないですね」

 リヒトは何も答えられず、隣へ戻ってきたシリウスの手をそっと握った。

 彼は驚いたように目を瞬かせ、それから嬉しそうに握り返した。

 二人は並んで歩き始めた。

 祭りの音楽が聞こえてくる。焼き菓子の匂いが漂い、子供たちの笑い声が秋の空に響いていた。

 今夜、迎えの馬車が来れば、二人は大神殿へ帰る。

 シリウスには国の仕事が待っているし、リヒトにも大学での生活がある。毎日こうして一緒に過ごせるわけではないだろう。楽しいことばかりが待っているとも限らない。

 それでも、明日が来る。

 その明日を、二人で迎えることができる。

 リヒトはシリウスを見上げた。

 銀色の髪が秋風に揺れ、アクアマリンの瞳が優しく細められている。

 彼女はもう一度、繋いだ手に力を込めた。

 シリウスも、少しだけ握り返してくれた。

 そのまま二人は、夕暮れの祭りの中へ歩いていった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


この収穫祭の続きで、二百年前に猫族の王エーレントを処刑した残虐王テレシウスが、シリウスの中に現れます。


『まずは目の前の雌猫を殺せ。』


リヒトを殺そうとするテレシウス。しかし、彼女の夕日色の瞳を見た瞬間、その手が止まります。


『エーレン……』


自分が処刑した男の名を、なぜ。

二百年前、この二人の間に何があったのか。


ここからが、長編『神鼠の大王は猫を愛せない』の本領です。


▶ 本編第206話「また、僕のもとからいなくなろうとしていたんですか(URL:https://ncode.syosetu.com/n9295ms/206)」から読む


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