かまゆで
透明な湯気。雪と等しく純白で、汚れのない湿り。翡翠色に染まったお湯から漂っている。
たっぷりと白くつややかな風呂桶に注ぎ込まれたお湯は、まだ人の気配を知らない、ぴんと張った水面をしている。
それに伸ばした人差し指を浸けてしずかに弧を描く。
「うん。今夜も良いお湯だ……」
風呂がすきだ。たっぷりと湯船に張った湯にたゆたっていると、熱が浸透して、自分の輪郭が湯の中へ溶け出していくような感覚になる。日々の様々な嫌なことや、雑念が、あの温かな水の中に身を委ねれば、自然と頭から消えてくれる。天国とは、あのような温かさをしているのではないか。首から下を、極上の温度がやさしく包んでくれて、他では替えが効かないしあわせが、あそこにはあるのだ。
毎日20時には風呂に入る。それが私の日課だ。日々のおわり。仕事で疲れていても、いや、疲れているからこそ、あそこにぽとりと身を浸せば、極上の快感が待っている。それだけをたのしみに、また今日を過ごしている。
風呂の温度は決まっている。夏なら39度。冬なら41度。春と秋は40度だ。
今は冬。肌に纏った凍てつく冷気は、風呂が癒してくれる。氷の膜をゆるやかにほどいて、溶かしてくれるから。
仕事から家に帰り、コートを脱ぎ、マフラーを解いてクローゼットに仕舞う。
今日は手袋をしてゆくのを忘れてしまった。
細い指先は、突然降り出した粉雪によって赤く染められていた。内側から、お湯を求める欲求がうずく。
早足で風呂場まで向かう。蓋をあけると、もわりと純白の湯気が顔を撫でた。
風呂の予約を入れておいた朝の自分を褒めてあげたい。
口角をあげると、服を脱ぎ、長い髪を結って、つま先から湯に身を浸す。
今宵はお湯を何色にも染めず、透明なままで入りたかった。
「ああ……」
男とあいしあった夜でさえ出ないような、感嘆としたあまい声が出た。
うっとりとまぶたを閉じる。
肉体と湯の領域が曖昧になって溶けてゆく。
お湯の中で、輪郭がゆらめいている。
深く息を吸うたび、鼻の中がやわらかく湿ってゆく。
ああ、生きている。
体の深いところから、そう実感した。
ひとり暮らしだから、ついつい長風呂してしまう。
やがて外の空気によって冷えたからだが、湯の温度に染まってひとつになってゆく。いつの間にか自然とそうなる。
水面を透かして、三角座りをした私の白い太ももが見えている。
仕事のストレスで間食が増え、いつの間にか太くなってしまった脚。
太ったからだでお湯に浸かれば、水かさは増し、溢れ出したお湯が洗い場へと流れていった。
数年前に恋人と別れ、それ以来男に抱かれていない。
私がお湯に浸るのが好きなのは、誰かの温度に飢えているからか。
「まさかなぁ……」
のびやかなひとりごとは、湿った空気に溶けて響く。
腕を組んで、うーんと伸びをしてみる。きゅっと閉じたまぶたの上を、湯気が結露した天井から落ちたしずくが、私のまぶたを濡らした。
湯の中で腕を組むと、以前よりも脂肪がついて大きくなった両の乳房がやわらかく変形し、盛り上がって腕の間に山を作った。
透明な湯の中でゆれるからだは、あちこち脂肪がついている。
ふくらはぎの影が、でこぼことしたセルライトを浮かび上がらせている。かろうじてからだの部位の中で細い足首に、細やかな気泡がまとわりついていた。
あたたかい。あたたかくて、本当にきもちいい。
そのあたたかさで、脂肪を溶かしてくれないかな。もう少しダイエットをがんばらなきゃな。
そう決意したときだった。
先ほどよりもからだを覆う湯が、熱くなっている。
「あれ……」
湯の温度をあげた記憶はなかった。ずっと身は湯に浸していて、リモコンを触っていないはずだ。
試しに壁に設置されたリモコンで温度を下げてみる。
表示された緑色の数字は動かない。
私は目を瞠った。
何度もリモコンの温度を下げる。
ぴぴぴぴ、ぴぴぴぴ。
温度は下がらず、41度を保っている。
驚いたまま、私は動けなくなり、湯の中にいた。
「熱いっ……」
やはり、温度は徐々にあがってゆく。
リモコンが壊れてしまったのだろうか。
今、きっと45度くらいになっているはず。
からだでそう感じ、立ち上がろうと、てのひらで湯船の底を押す。
からだが、動かなかった。
尻は湯船の底に張り付いたままになり、てのひらも動かせない。
「……うそ。……うそっ!」
首をぶんぶんと振る。落ちるのは、まとめた髪の間からこぼれるしずくばかりで、湿った汗が浮く肌を伝い落ちてゆく。
荒い呼吸は、自分の口から出ていると気づいた。
見下ろした肌は、林檎のように赤く染まっていた。
「熱い……っ。熱い……っ! あついよう!」
温度はあがりつづける。とどまるところを知らない。
50度。60度。70度。80度――
湯は沸騰し、ぶつぶつと大きな気泡がからだを覆い尽くしてゆく。
「あついーっ。あーっ。あついよぉー」
皮膚が破けて、皮がピンク色の肉の上を漂う。
90度。100度。120度。
「ァーッ。アーっ。あーッ!!」
肉が焼けてただれる。湯が真っ赤に染まってゆく――
* * *
十二月二十三日。
氷室泉(33)。自宅にて、遺体で発見される。
死因は、給湯器の故障による異常加熱に伴う事故死。
発見された遺体は茹でた肉のようになっており、三角座りしたポーズで、白くかたまっていた。




