第八話
白い塔の根元で、青い面がひときわ強く光った。
≪復号処理:完了≫
ナノの手のひらに、熱でも冷たさでもない“圧”が返ってくる。
掴んだ感触はないのに、確かに何かが渡された――そんな確信だけが残った。
青い面の表示が切り替わる。
≪キー断片:九州ブロック(上位)
状態:抽出済み
保持形式:仮想内キャッシュ≫
「……取れた」
ナノが息を吐いた瞬間、足元の白い床が、かすかに波打った。
ざわり、と。
空間全体が薄く軋む音がした気がする。音なのか、感覚なのかは分からない。ただ、嫌な予感だけがはっきりしている。
「来たね」
塔の影で、一七五号が楽しそうに言った。
「監視が“目を開けた”感じ」
「……余計なことした?」
ナノは青い面から手を離さず、視線だけで一七五号を刺す。
「私はちょっと道を踏み固めただけ。ちゃんと約束守ってるよ」
一七五号は両手を上げてみせる。無害アピールが上手いのが腹立つ。
その背後――白い箱の列の向こうで、座標の揺れが大きくなった。
遠いのに“そこだけ”輪郭が濃い。誰かがいる。動いている。
ナノは迷いなく、そっちへ走り出した。
「ちょ、走ると転ぶって――」
言い終わる前に、ナノは箱の角で足を取られた。
「っ……!」
膝が床に着く直前、体を捻って転がる。白い床に肩が当たり、痛みが走った。
最悪。やっぱり最悪。
でも、止まらない。
立ち上がって、今度は“走る”じゃなく“急ぎ足”に切り替える。重心を落として、滑らない速度に落とす。自分に言い聞かせるように呼吸を整えた。
(冷静。冷静。今はそれだけ)
揺れの中心に近づくほど、空間がざらついていく。
白い箱の表面にノイズが走り、角が欠けたり戻ったりを繰り返している。
「……ここ、やばい」
ナノは立ち止まらずに周囲を見回した。
揺れの中心はひとつじゃない。まるで“縫い目”が裂けていくみたいに、複数の歪みが連なっている。
その中で――ひときわ規則的な揺れがあった。
揺れの周期が一定。誤差が少ない。
人間じゃない動き。
「ニム!」
ナノが叫ぶと、白い箱の陰から、背の高い影が現れた。
ニムだった。
相変わらず無駄のない動きで、箱の隙間から出てくる。視線は周囲を掃除するみたいに滑り、足取りは慎重だ。
「ナノ。合流を確認」
低い声が、いつもの調子で返ってくる。
それだけで、ナノの胸の奥に溜まっていた緊張が少しほどけた。
「よかった。無事そうで」
「現時点で外傷なし。仮想環境の不安定化を観測。座標ゆらぎ、標準偏差が増大中」
「数字で言われると安心できないんだけど」
ナノは苦笑して、それから一気に真顔へ戻る。
「……田中は?」
「未検出。周辺を走査したが、該当熱源・音源・歩行パターンを確認できず」
胸が冷える。
田中は人間だ。こういう場所で一人になったら、判断が遅れる。動きが鈍る。端に寄る。
そして――この空間は端から壊れている。
ナノは、握りしめるように掌を見た。
キー断片は“仮想内キャッシュ”。つまり、ここで消えたら一緒に消える可能性がある。
(キーを持って帰るのが目的。でも……)
視界の隅で、白い箱がひとつ、ぷつりと消えた。
そこだけ、灰色の揺らぎが覗く。穴が開いた。
「……時間ない」
ナノが呟くと、ニムが即座に応答する。
「行動優先度の再設定が必要。キー断片保持が最優先か、田中捜索が最優先か」
ナノは歯を食いしばる。
そこへ、一七五号がひょいと箱の上に現れた。
足音がしない。いつ見ても不気味なくらい軽い。
「悩んでる?」
楽しそうに言うのが腹立つ。
ナノは睨んだ。
「言っとくけど、あんたの“面白い”には付き合わない」
「うんうん。そういう顔」
一七五号は手を振る。
「でも、情報はあげる。私、こういう“裂け目”には気づきやすいから」
ナノは言い返すより先に尋ねた。
「田中、どこ」
「遠い」
一七五号はあっさり言った。
「あなたたちの線の外。……端の方。崩れが近い」
胸の奥が嫌な音を立てる。
「なんで分かるの」
「観測の“影”があるから」
一七五号は空間を指差した。
指先の先、白い箱の列が不自然に薄く、灰色が滲んでいる。
「そこに向かうと、キー断片の保持が不安定になる。監視が強いから。落ちたら消える可能性が上がる」
「……脅し?」
「現実」
一七五号は肩をすくめた。
「あなたは賢いから、両方欲しいでしょ? キーも、田中も」
ナノは答えない。
ニムが静かに言った。
「ナノ。提案。キー断片を現時点で外部保持に変換できる可能性がある」
「外部保持?」
「仮想内キャッシュから、接続ノードに近い“安定領域”へ退避。退避後、捜索へ移行。成功すれば、喪失リスクを低減できる」
「それ、できる?」
「確率は高くない。ただし、試行する価値はある」
一七五号が、にやりとする。
「お、いい案。ロボットって賢いね」
「煽らないで」
ナノは一七五号を一瞥し、ニムへ戻す。
「安定領域って、どこ」
ニムが少し間を置く。空中に小さなホログラムが浮かび上がった。
白い空間の上に、点と線。
塔の方向と、裂け目の方向。そして、両者を繋ぐ“太い筋”。
「塔の周辺が相対的に安定。復号コアの残響があるため、計算密度が高い」
ナノは即断した。
「よし。塔に戻る。キーを退避。それから田中を拾う」
一七五号が目を細める。
「決めたね」
「当たり前」
ナノは息を吐く。
「私、欲張りだから」
ニムが了解、とだけ言う。
一七五号は、楽しそうに笑った。
「じゃあ、競争。端は待ってくれないよ」
白い箱がまたひとつ、ぷつりと消える。
灰色の揺らぎが広がる。崩れが進む。
ナノは安全な足場だけを選んで、塔の方向へ駆けた。
ニムがその後ろを守るように続く。一七五号は、少し離れた位置を軽い足取りで並走する。
塔が見えた。
あの青い面が、まだ浮かんでいる。
「ニム、お願い。退避、今!」
「了解。手順を開始」
ニムの声が落ちた瞬間、青い面が反応するように光った。
ナノの掌に、さっきと同じ“圧”が戻ってくる。
≪退避先:接続ノード仮想バッファ
転送準備:完了≫
その表示と同時に、塔の足元で白い床が大きく波打った。
世界が、一瞬だけ“沈む”。
「っ……!」
ナノが膝を曲げて耐える。ニムが一歩前に出て、ナノの肩を支えた。
「姿勢保持。転送を継続」
一七五号は楽しそうに言う。
「来た来た。監視が本気」
青い面の縁が、ノイズで歪む。
転送バーが一気に伸び――途中で、ぴたりと止まった。
≪転送:停滞≫
「なんで止まるの!」
ナノが声を荒げた瞬間、塔の影がひときわ濃くなる。
白い箱の並びが、格子を保ったまま、ゆっくりと傾いた。
このままじゃ、塔ごと崩れる。
ニムが淡々と言う。
「外部干渉を検出。転送ラインが絞られている」
一七五号が、指を鳴らした。
ぱち。
青い面が一瞬だけ“別の青”になる。深く、暗い青。
転送バーが、ほんの少しだけ動いた。
「……今、何した」
ナノが問い詰めると、一七五号は笑う。
「ちょっかい。小さなやつ。」
嘘か本当かは分からない。
でも、動いたのは事実だ。
転送バーが、また少し進む。
そのとき――遠くで、白い空間が大きく裂けた。
ぎ、と。
音じゃない。世界の骨が軋む感覚。
裂け目の向こうから、薄い声が聞こえた気がした。
「――ナノ……?」
かすれていて、頼りない。
でも、聞き間違えようがない。
田中の声だった。
ナノは顔を上げた。
裂け目の縁、灰色の揺らぎのすぐ手前に、黒い点が見える。
人影。
「……田中!」
ナノが叫びかけた瞬間、青い面が強く光る。
≪退避:完了≫
掌の“圧”が消えた。
キー断片は退避された。少なくとも、今この場で消える危険は下がった。
ナノは、ニムの腕を払うように前へ出る。
「行くよ!」
「了解。護衛行動へ移行」
一七五号がくすくす笑う。
「欲張り、成功」
ナノは振り返らない。
裂け目へ向かって走る。今度は転ばない。
白い箱が消える前に跳び、崩れる前に着地し、灰色の揺らぎを避けて前へ。
田中の影が大きくなる。
顔が見える距離になる。
その瞬間、裂け目の縁が、ふっと薄くなる。
足場が消えかける。
「動くな!」
ナノが叫ぶ。
田中の目が見開かれ、言葉が止まる。
ナノは最後の一歩を踏み込み――手を伸ばした。
届くか、届かないか。
その指先が、田中の袖に触れたところで。
白い世界が、もう一度だけ大きく軋んだ。




