第六話
落ちる、という感覚はない。
ただ、世界の輪郭がすっと薄くなって、次の瞬間には別の場所に立っている。
ナノは反射で膝を軽く曲げ、足の裏で床の存在を確かめた。
硬い。冷たい。
そして――白い。
見渡す限り、白い床。白い箱。白い箱。白い箱。
テクスチャのない立方体が乱立して、距離感だけを狂わせる。
「こういうやつか」
口に出してみると、声が妙に素直に返ってくる。反響があるのに、どこか薄い。
音が空気じゃなくて、設定にぶつかって戻ってくるみたいだ。
ナノは深く息を吸って、吐く。落ち着け。
まずは現状把握。次に優先順位。
視界の端に何かが出ないか待ったが、案内も、地図も、メッセージも浮かばない。
「サービス悪っ……」
ぼやいて、腰のあたりを探る。銃も工具も当然ない。
現実で持っていたものが、この空間に持ち込める保証なんて最初からなかった。
ただ、身体の感覚だけはやけにリアルだ。
地面の硬さも、靴底の摩擦も、肩にかかる重さも。
ナノは白い床を数歩歩いてみる。ブロックの影が、紙みたいに薄い。
遠くの方に、灰色の揺らぎが見えた。削れた端。崩れている領域。
「……田中に聞いた話と、かなり違う」
最悪の想像が浮かぶ。
転送の失敗で、誰かが削れの近くに落ちたら。踏み外したら。
ナノは首を振って、その考えを追い払う。
大丈夫。今は、やれることをやるだけ。
ナノは立ち並ぶ白い箱の列を見上げ、視線を横に滑らせた。
この手の空間には、だいたい癖がある。中心に寄るほど情報が濃い。端ほど壊れやすい。
それが本当に設計なのか、単なる生成の都合なのかは知らないが、経験則として使える。
「中心、だね」
ナノは足元の箱に手をついて、ひょいと登った。
背は低いけれど、こういうときは軽さが強い。
上に立つと、見通しが少し良くなる。
白い箱の波の向こうに、やけに整った筋があった。箱の並びが、直線に揃っている。
道。というより、通路の名残。
「……当たり」
ナノは箱から箱へ渡って、筋の上に降りる。
そこだけ、床の白がほんの僅かに濃い。塗りが二度掛けされたみたいな、差。
情報の線。
配線の跡を追うみたいで、妙に落ち着く。
「ニム」
呼んでみる。返事はない。
少し間を置いて、今度は田中。
「田中。聞こえる?」
返ってくるのは、自分の声だけ。
「……よし。じゃあ、探すで固定」
ナノは歩き出した。
白い通路を、白い箱の迷路の奥へ。
しばらく進むと、箱の密度が変わった。
規則的に並ぶ場所と、乱雑に盛り上がる場所が交互に出てくる。まるで、途中で誰かが適当に投げたブロックが混じったみたいだ。
ナノは足を止め、床にしゃがみ込んで指先で表面をなぞった。
「……うん、ここ、変」
見た目は同じ白でも、触った感触が違う。
ざらつきがある。ほんの少しだけ、引っかかる。
ナノは指先を舐めて、もう一度なぞり、顔をしかめた。
「……やっぱり。ここだけ後から足されてる」
仮想の世界に、後から足されるものがある。
それが何かは知らない。でも、誰かの手が入ってるなら、そこは情報の出入口になりやすい。
ナノは立ち上がり、周囲を見渡す。
箱の陰に、黒い点が見えた。小さな穴。いや、穴というより、欠け。
ナノは慎重に近づいて、覗き込む。
そこだけ、白の下に別の色がある。
薄い、暗い、青。ログ画面みたいな青。
「……端末、かな」
ナノは箱の縁に手をかけ、欠けの周りを広げるように触った。
力任せにはしない。ここは現実じゃない。壊し方を間違えると、壊れるのは自分の方だ。
指先で境界を探り、引っかかる線を辿って、そっと押す。
ぱち、と。
音がした。現実のスイッチみたいな、軽い音。
欠けが、わずかに広がる。そこに、薄い板のようなものが浮かび上がった。
透ける青のパネル。文字列。小さな入力欄。
「……やっと出た」
ナノは鼻で笑って、パネルを覗き込む。
そこには、案の定、読めるようで読めないものが並んでいた。
権限。領域。ハンドル。復号。断片。
現実側で見た九州ブロック位置検索モジュールの構造と、似た単語が散っている。
「キー本体は仮想側にある。参照ハンドルしか現実にはない。だから――」
ナノは頭の中で、配線図を引くみたいに整理した。
仮想側で、復号処理を走らせる必要がある。
復号処理を走らせるには、断片を揃える必要がある。
断片は、九州の各センターで得た上位キーの束。ここまで来たんだから、それはもう揃っている。問題は投げ込む先だ。
「投げ込む先が、この環境のどこかにあるはず」
ナノはパネルの入力欄に触れた。
キーボードが出ない。代わりに、指先の動きがそのまま文字列になる。
試しに、短いコマンドっぽいものを打つ。
返事はすぐ返ってきた。
≪参照ハンドル:有効
復号コア:未接続
接続先:未確定≫
「……未確定って、そこは確定しとけよ」
ナノは舌打ちしそうになって、やめた。
苛立ちに使う体力がもったいない。
ナノは目を細め、周囲の白い箱の列を見る。
中心に近づくほど情報が濃い。なら、復号コアも中心寄りにある。
けど、中心がどっちかは分からない。
ナノはパネルの隅を探し、地図や方位の類を求めた。
すると、画面の端に、細い線がひとつだけ点滅しているのを見つけた。
線は、ある方向へ伸びている。
目的地を示す矢印みたいに。
「……誘導だけか」
ナノは立ち上がり、矢印の方向へ視線を合わせる。
白い箱の群れの奥。
規則性が少し強い。通路の筋が、まっすぐ伸びている。
「行くしかない」
ナノは歩き出した。
白い筋を辿り、箱の隙間を抜ける。
途中、足を取られそうな段差があり、ナノは一度だけつんのめった。
「うわっ」
両手を突き出して、ギリギリで持ち直す。
白い床に手のひらがついて、じんと痛い。痛いのが腹立つ。
「……今のはノーカン」
誰に言い訳してるんだか分からないまま、ナノは立ち上がる。
こういうとき、ドジが出るのが本当に嫌だ。落ち着け。冷静。
再び歩き出すと、空間が少し変わった。
箱の大きさが揃っていく。
配置が格子状になる。まるで、誰かが定規で引いたみたいに整う。
そして――遠くに、塔が見えた。
白い箱を積み上げただけの、細長い柱。
頭上まで伸びていて、上の方は白に溶けて見えない。
「……中心っぽい」
ナノは速度を上げた。
走りはしない。走ると足を取られる。歩幅を詰めて、確実に進む。
塔の根元に近づくと、床の白がまた少し濃くなった。
そして、薄い青い光の面が、空中に浮かんでいる。
さっきの端末と同じ系統の、情報パネル。
ただし、今度のは大きい。人ひとり分の扉くらいある。
ナノは近づいて、手を伸ばした。
青い面に指が触れた瞬間、文字が走る。
≪復号コア:接続可能
認証:上位キー束の提示を要求≫
「よし、ここなら参照から断片を引っ張れる」
ナノは青い面に手のひらを当て、意識を集中させた。
現実側で集めたキー。
九州のセンターを回って揃えた断片。
数字と文字列と、手順の束。
向こう側で集めたものを、ここに渡す。
青い面が、波紋のように揺れた。
そして――
≪受理
復号処理:開始≫
「……お願い。ちゃんと動いて」
ナノがそう呟いた、その瞬間だった。
「へえ。あなたが手を伸ばす側なんだ」
背後から声がした。
ナノの背筋がひやりとする。反射で振り向き、半歩だけ間合いを取った。
白い塔の影に、少女が立っていた。
年の頃は13歳くらい。紺のセーラー服。
黒髪は肩のあたりで揃えられ、前髪の奥の瞳が、ガラス玉みたいに光を映している。
――田中が言っていた。
仮想の中に現れて、監視を止めて、出口を見せた存在。
ナノは、呼吸を乱さないまま言った。
「……あんたが、一七五号?」
少女は一瞬だけ目を丸くして、それから楽しそうに口角を上げた。
「わ、当てた。初対面で当てられるの、ちょっと悔しい」
「初対面じゃない。話は聞いてる」
ナノは視線を切らずに、青い面の進行バーを横目で確認する。
まだ半分にも届いていない。
「で、何の用。邪魔しに来たなら帰って」
「用っていうより、興味」
一七五号は、ナノの手元――復号コアの青い面を見て言った。
「あなたたち、位置情報キーを集めてる。現実側を歩いて、上位センターを辿って、ようやくここまで来た。でしょ?」
ナノは言葉を切り捨てるように返す。
「だから?」
一七五号は肩をすくめた。
「相変わらず、結論だけ欲しいタイプだ」
ナノはもう一度、短く言った。
「邪魔なら、どいて」
「邪魔はしないよ。むしろ――」
一七五号は、指先を立てる。
「その処理、最後まで行かない可能性がある」
ナノの心臓が一拍だけ跳ねる。
でも表情には出さない。
「根拠」
「ここ、崩れてるから」
一七五号はあっさり言った。
「復号コアは本物に触れる手前。監視が強い。不安定だと、途中で落ちる。落ちたらやり直し」
ナノは即答した。
「回避策は?」
「ある」
一七五号は、悪びれず笑う。
「私のちょっかいが必要だけどね。大きなことはできない。でも、小さく道をずらすくらいなら」
「じゃあ、やって」
一七五号が目を丸くする。
「即決だ」
「悩む時間がない」
ナノは青い面から目を離さず、言葉だけを投げる。
「嘘でも本当でも、今は処理を通す方が優先」
「……好き。そういう割り切り」
一七五号は小さく笑い、指を鳴らした。
ぱち、という軽い音。
青い面の縁が一瞬だけノイズで歪み、進行バーが、僅かに速くなった。
ほんの僅か。でも確実に。
「何したの」
「道を踏み固めただけ。穴に落ちないように」
「……助かる」
礼を言うのは癪だったが、必要な言葉だった。
そのとき、背後の空気がまた変わる。
誰かの気配。遠いけど、確かに。
ナノは振り向いた。
白い箱の列の向こうで、何かが揺れている。歪み。座標のぶれ。
「……誰かいる」
「たぶん、あなたの仲間」
一七五号は楽しそうに言う。
「じゃあ、こうしよう」
少女は一歩だけ後ろへ退いた。
「私はあなたたちの邪魔はしない。その代わり、あなたの選択を見せて」
「選択、って何」
「この処理が終わったら、あなたはキーを得る」
一七五号は指先で、青い面の中を指し示す。
「でも、キーを得た瞬間、ここはもっと不安定になる。
監視が強くなるから。たぶん、仲間を探す余裕は減る」
ナノはすぐに理解した。
キーを取る。目的は前進する。
でも、田中とニムを置き去りにする可能性が上がる。
逆に、仲間を探す。
キーが流れる前に合流できるかもしれない。けど、その間に処理が落ちるかもしれない。
「……そういうこと」
一七五号は頷く。
「あなたはどっちを優先する?」
ナノは答えなかった。
青い面のバーが、確実に終端へ向かっている。
ナノは白い床を見下ろした。
さっきつんのめった場所の感触が、まだ手のひらに残っている。
失敗が嫌いだ。
でも、失敗しないために誰かを捨てるのも、もっと嫌だ。
「……」
言葉にしようとして、喉の奥で止まった。
青い面が、ひときわ強く光る。
復号処理が、終わりに近い。
ナノは歯を食いしばり、手のひらに力を込めた。
「……私は――」
そこで、声が途切れる。
選ぶなら、今だ。
けれど、選んだ瞬間に何かが壊れる気がして、ナノはほんの僅かだけ、言いよどんだ。
その沈黙を、一七五号は楽しそうに眺めていた。




